「読書」こそ、国語力の礎 ~ 「読書」する楽しさを求めて ~ Part1

GOOD!
5897
回閲覧
33
GOOD

作成者: 興津洋男さん

1. はじめに (子ども達自身が主体的に言語世界に向かう姿)

ⅰ)子ども達の言語生活

例えば、子どもたちは、「読んで」心に残った納得づくの語句・表現や内容の一部を、恰も自分の既有ものとして、試しに「話し」に使ったり、或いは「書くこと」に借用したり、更には別の「読み」に役立て (≒対比・引用・類推など) たりすることがよくある。
 また、ある時は人の会話中に耳ざとく体験済みの表現や内容を聴き分け、大いにうなずいたりもする。「インドの0の発明」を読んだ男の子が、「0の発明が文明上、画期的な出来事である」のを知り、「画期的」という言葉を「すごい」と同義語で多用し始めたりする。「先生、○○君の走る速さは、画期的やなあ」(?)等々…。

更には、読み物の中で何回となく出会う難解な語句・表現や様々な表現法(倒置・体言止・ 擬人法・省略法・比喩法・反復法・反語・多様な色彩語等)について、読書の経験知から類推・自己化しようとする。

このようにしながら、子ども達は、大人の便宜的仕分け?である「国語科の各領域及び事項」を易々とまたいで、まさに「経験主義的」に、横断的に可愛く楽しく言葉を磨くものである。

ii) 他者の内面世界との出会い≒読書体験

読書中に他者が投げ続ける文字言語による話の内容の筋追いが終焉し、やがてその内容との出会いが少しずつ実現し始める頃、その言語世界の背後にある他者の「内なるもの」(内面世界)=書き手が措く『論理(つじつま)』や『像(イメージ)』に向かって、子ども達は少しずつアプローチし始める…。

そのアプローチはたとえ稚拙で一面的であっても、その子なりのある種の実感や納得が伴う限り、それは宝物に違いない。

何故なら、この気づきは単に更なるお話や読書を促し求めるにとどまらない。少々大げさに言えば、新世界への未知の扉と新発見とを予感させるときめきの宿しであり、自己の価値(見方や生き方)への確認や対比・対決の予兆であり、やがて拡大・深化するかもしれない新たな自己形成や自己表現の可能性へのおののきを孕む契機を宿すものに違いないからである。

読後、私達大人に時として訪れる大きなうねり、
…『実は、そうだったのか…。』
…『今まで釈然としなかったものが、今日、やっとすっきり見え始めた…。』
…『わたし自身の苦悩の根源が、ようやく初めて見えた…』
…等々、周りの世界や人への捉え方の刷新や衝撃に満ちた驚愕…。

これは、成人した我々にだけ起こり得るものなのでは決してなく、実のところ、我々よりフレキシブルな子ども達にこそ、半ば日常的に起こり続ける事象なのだ、と捉え直さなければならないだろう。だからこそ、その新発見を糧に、日々、彼らは修正・変化・進歩し続ける。そして、いつの日にか、その人だけが有する一定の人格に到達する…。勿論、子ども達の日々の変化・進歩は、周りの大人はおろか、子ども達自身でさえ気付くことなく進行し続ける場合が余りに多いが…。

iii)読書好きに誘うための、息の長い営み、指導・支援者の働きかけやその構えの巧さ

読書に関して、我々の側からのある種特別な「ハウツー」技能による働きかけで、子ども達の「内」に、ある日、劇的逆転が起こり得るといったエキセントリックな着想を、私は持たない。子ども達のどこか暗部で「読書」がやがて「読書体験」化し始め、醸成されながら「内面」を徐々に耕し始めるに違いない、という長い射程の視座と見通しに立脚したい。

つまりは、他の様々な「体験」と同等の大きさで、「読書体験」による内面の形成は、人生の長いスパーンでやがては効いてくるであろう、ある種の「ボディーブロー」であると考えたいのである。

換言すれば、少しずつできるだけ長期間「読み続ける」ことこそ大切であり、指導者は、どの学年にあっても、あらゆる機会を通して「読書へのいざない」を促す間接的働きかけ(=日常の学習指導)を、いつも準備していることである。いや寧ろ、その構えと能力(=センス・見通し・授業の上手さ)を私達指導者が持ち合わせているか、否かですべては決まる。
 「できるだけ本をたくさん読みましょう!」
 「本をたくさん読まないと、読み取る力がつかないよ!」
 「〜〜さん、頑張って沢山読んだね。みんなも真似しましょう!」
 こんな安直で修養論的呼びかけに応じる子どもの読書は、長続きしない。ベタであり、素人っぽい連呼の漂流である。『また始まった、…。』というある種の脅迫感が、子どもの内に漂う。

重要なことは、「読む面白さ」に気づかせる指導者の力と温暖な完成である。日常素材と日々の学習から、平易に、瞬時に、切り込むことのできる構えである。「読む面白さ」に気づいた子どもは、強い!「読む面白さ」への気づきは、長期間「読み続ける」ことを保証する。

例えば、3年教科書教材名「あらしの夜に」は、長いお話である。

単元学習の導入一次素読時でも、第三次終末の感想読みでもよいが、以下のように投げてみる。
(第二次は、本文読解)
 『ねえ、ねえ。先生ね、このお話、めちゃくちゃ面白いなあと思ったんだ。どこが面白いと思ったのか、分かる?当ててごらん?』……。
 C1「まっくらやみの嵐の夜に、顔の見えない敵同士の羊とオオカミが一夜を過ごすのが面白い」
 C2「雷や嵐にひやひやどきどきしながら、顔が見えないので、妙にお互いはげましあっているところ」
  C3「あの場所はおいしい食べ物がいっぱいあってすばらしいと語り合いながら、オオカミは草原の羊の群れを、羊は草原の草を思い浮かべ、妙に『草原』で意気投合しているところ」
  C4「そのすれ違い方が、とてもおかしいです」
 C5「嵐がやみ、お互い草原での再会をかたくちかってわかれるところが、ドキドキします」
  C6「この先の続きを知りたいです。再会したら、おたがいどんな顔をするのか見たいです!」
 ……………等など、出るわ…出るわ…。
 『先生はどこが面白いと思ったのか、当てられる?』

という発問に、子ども達がべタに答えていないことにお気づきだろうか?「私(指導者)が一体どこを面白いと感じたのか」を懸命に類推して意見表明した子どもは、予定通り、一人もいなかった。

意見表明した二十数人の子ども達は総て、実のところ、予定通り、
「わたしは、ぼくは、〜〜〜〜の箇所が大変面白いと思ったけれど、先生はどう思いますか?」という自分の読みと同義の意見表明である。子ども達は、自分が読み味わって確からしかった「自分だけの面白い箇所」を吐露し続けたのである。

これこそが、彼らから引き出したかったことである。

もし、「この話のどこが面白いと感じましたか?どこが面白いと思いますか?」と直裁的で平盤な発問をかければ、一見正統であるその発間は高みからの正答主義的読解指導であり、子どもは内面を閉じる。先生にけなげに応えようとする良い子(?)5,6人を除いて…。殆どの子ども的達は、 先生の内に存在する正答?の所在に戸惑い、結果として自分の読みを二義的に扱うだろう…。

このような訳で、発問の裏にある真意どおりに「自分はここが面白いと感じるところ」を挙げ続けた総ての子ども達一人ひとりに、私は、『へえ、分かったの?先生と同じだね。』、『先生もそこが面白いと思ったんだよ』、『そう。そこなん だよなあ』、『そこもあるんだよなあ…』…と呼応し続けた…。

そして、締めくくりに、
 『ねえねえ、みんな!お話って、本当に面白いよねえ!』。
「本当や!」「めっちゃ、おもろい」「もっと、別のものも読んでみたい」…。授業での私の説諭が決して主体ではない。「読書」における「読みの主体」は、子ども達に他ならない。

iv)読書の広がりと深さが「人を」創る…「内なるつじつまとイメージを求めて」

成人では、概して「内面世界」は人の数だけ存在する。例えば、十人の友と京都の「哲学の道」を散策してみよう。そして、問わず語りに浮かんできた「表象」を述べ合ってみる。すると、見事に十通りの話が登場する。十人が同一空間にあり同一行動をしているにも拘らず…。

当然ながら、十人十色存在する「内面世界」が受け止め還す「表象」は、十通り、存在するから…。

ある日、幼い低学年の子どもが生活科のまとめ活動で、とっても可愛らしく呟いている。 『このボクの石、ここのすじはしましまもようで、ここがジャガイモのように丸っこくって、ここがナイフみたいにとんがって…』

自分が絵に描いた石の説明文を鉛筆で綴るこんな姿に出くわす時、言葉による置き換えのむこう側に、彼なりの「内なる世界」(彼なりのつじつまとイメージ)の形成が感じられはしまいか…。

取り分け、言語世界を相手にする「読書」という営みは、他者の持つ「内面世界」との対時を通して、自分の「内面」形成の上で大切な「バネ」を保持しているように思えてならない…。

真の「読書体験」は自己の語彙力を豊かに拓き続けることにとどまらない。「内面世界」を構築している書き手の見方や考え方(=つじつま・論理性)とその思い(=イメージ・想像性・像)と自己のそれらとの対峙・対比を促し、自己再構築を迫り続ける…。

ここに、「教育」が「読書」を射程内に位置づける必然性があるように思える。

〜〜〜〜〜

『いずれにしても、小・中学校における国語科学習で、実感を伴いながら、「読む面白さ」「綴る喜び」「話す・聴く楽しさ」を個に応じて「学習体験」し続けるなら、そのことが「学ぶ」端緒をなし、その連続性が「学ぶ力」を形成・拡充・深化させるのではなかろうか。

これらのことが、いつの日にか育つであろう生涯にわたる国語人…「思慮深き読み手」「誠実な書き手」「魅力ある話し手」「落ち着きある聞き手」、そして時とて生じる「豊潤なつづり手」を培うことにつながりはしまいか。いや少なくとも、「言語能力」と「言語による思考と想像」の練磨が、豊かな感性と人間性を育むのではないか。

国語教育の中に、実は、このような熱い思いが秘められている…。以下、略』
(日本教育新聞・昭和63年10月8日(土)興津洋男拙文)

〜〜〜〜〜

「学校」というシステムを離れ旅立った人々が「自己を確立」する契機は、幾多存在するであろう。関係性の中で見える社会への認識や対他関係そして自己の存在への振り返り…。 インターネットや雑誌などからの諸情報、また抜き差しならぬ他者(≒恋人、妻、夫、親、兄弟姉妹、親友…)との「内面世界」同士の対決…。これらも十分に自分の「内面」を揺さぶり、時に自己変革を促すかもしれない。

そして、誰よりも鋭い匕首を突きつけ、今ある自己の「内面世界」を純粋に脅かすもの…、 それは「読書」という営みの中で登場し続ける書き手の「内面世界」に違いない……。

私たちは、子ども達は、このことをバネに自己を創り続けるに違いない。

Part2 につづく。 http://edupedia.jp/entries/show/850

引用元

第60回読売教育賞受賞論文 『「読書」こそ、国語力の礎 〜「読書」する楽しさを求めて〜』 興津洋男先生より引用
この記事・写真等は、読売新聞社の許諾を得て転載しています。
「読売新聞社の著作物について」
http://www.yomiuri.co.jp/policy/copyright/

読売教育賞

読売教育賞は昭和27年に読売新聞社が教育の発展の一助にと第1回の募集を始めて以来、わが国最高の教育賞の評価を得ております。

わが国の教育を支えているのは小・中・高校、幼稚園、保育所などの先生、その活動を援助する教育委員会、教育研究所、あるいはPTAや地域社会の教育関係者であることは、申すまでもありません。「読売教育賞」はこうした教育現場で、意欲的な研究や創意あふれる指導を行い、すぐれた業績をあげている教育者や教育団体を広く全国から選び、その功績を顕彰することにより、現場で指導する人々の励みとし、ひいては多様で創造性に富む教育環境づくりを推進することを目的としています。

選考は、実績の有無や年齢、性別などに一切とらわれず、純粋に研究と実践の成果、特に最近の活動を中心に行います。理論研究だけといったものは避け、子どもの成長や地域社会の発展に具体的にどう寄与したか、どのような成果をあげたか、といった点を重視します。
http://info.yomiuri.co.jp/culture/kyoiku/

コメント

コメントはまだありません

    より良い実践のためには、あなたの励ましや建設的な対案が欠かせません。
    ログインして、ぜひコメント欄をご活用ください。