キリン・まどみちお(3年光村・上)を読む授業(今井成司先生)

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目次

1 はじめに

東京作文教育協議会・会長、元杉並区立公立小学校教諭の今井成司先生の実践です。

まど・みちおの「キリン」を筆者の視点から学ぶ授業です。実際に詩の状況の絵を描き、筆者の視点を子どもたち自身に意識させます。

2 キリン・まどみちお(3年光村・上)を読む授業

3 ~視点の移動ということを考えて~ 

3年生の担任の教師から、「今日、まど・みちおのキリンという詩をやるのだけれど、」と相談があった。

 『キリン』 光村教育図書 小学校3年生国語上

 キリンを ごらん
 足が あるくよ

 顔

 くびが おしていく
 そらの なかの
 顔

 キリンを ごらん
 足が あるくよ

ほんの短い時間だったので、わたしの印象だけを話した。「これは、作者の、視点の移動に気をつけて読むと良いでしょう。」といって、教科書を見ながら、視点がどう移動していくかを話した。

視点について

ここまで書いて、気がついた。「視点の移動」という言い方は適切ではない、と。向山洋一氏の目玉の授業を思い出したからだ。安西冬衛の「春」の詩を読むとき作者の視点はどこにあるかといって目玉を描かせる、あの授業である。てふてふが海峡を渡っていくのを(作者は)どこで見ているかを、目玉を描いて考えさせる授業だった。

このように、視点というとき、固定された場所に目を置くという考えがとられやすい。しかし、その同じ場所で見ているとしても、「視線」(視角・見る方向・焦点)は、移動しているのだ。どうも、視点には、見ている場所という〔どこで見ているかということ、点という言葉が場所を意識させる〕イメージが強いのだ。だが、わたしたちは、「その目はどこを見ているのか」(焦点)を視点ということもある。

だから、目の位置はどこにあり、目線はどのように動いているのか(視角)、どこを見ているのか(焦点)、この三者を合わせて「視点」というのだと確認しておく必要がある。(厄介なのは、人物が動いて、目の位置が動くことも、視点の移動といえることだが。)

絵を書くこと=大きさを実感ずる

このときは、私は作者の「視線の移動」のことを話題にしたのだった。キリンのどこを見ているか、それがどのように変化(移動)しているかに気づかせようと言ったのだ。(『現代少年詩論』・足立悦男・明治図書、のまどみちお論が頭にあったのだ)

さて、その日の3年生の授業について。わたしは、途中で気付いたら、授業に介入してもいいことになっていた。

子どもたちは、いい感覚をしている。

  • 「足が歩くよ」ってへんだ。
  • 足が生きもの自体みたいだ。〔足という生き物が歩いている〕
  • (先生の問いにうながされて)『足でじゃないから』(そう感じる)
  • 首が機動力となって、顔を押して、前へ行くみたいだ。
  • 「顔」だけで一行だ。どうして。

こんなやり取りの後で、教師はキリンを見ているこの詩を書いた作者の絵を描かせた。
「教科書に書き込んでください。大きさはどのくらいかな。

面白いと思った。子どもたちはキリンの横に、見ている人間(作者)を書き込んだ。どの子も、キリンの脚の長さよりは人間を小さく書いていた。

それを発表、見せあって、キリンの大きさ、背の高さを、実感した。

空の中の顔=どこから見ているのか

その後、教師は、次へ進めようとした〔と私は思った〕ので「ちょっと待って」と言って、「みんな、作者は、どの位置で見ていたと思う」と聞いてみた。私は前に立って、黒板のキリンの絵のすぐそばに人形を置いてみてから、ずっと離れたところにおいてみた。「どっちかな」。

実は、授業を見ていて、とっさに思いついたのだ。

ほとんどの子どもたちは、「すぐそば、近く」と答えた。

  • 足しか見えないんだから、近いと思う。そばにいる人物の目からキリンの脚に放射線状に広がるライトを当てるような線を引いた。なるほど。
  • 顔が,空の中に見える、だから、近くで、見上げている〔のが分かる〕。同じように上を向いてライト(懐中電灯のような放射線状の光を線で書いた)を当てた。キリンの顔の向こうに空があった。
  • 遠くだったらキリンの全体が見えるけど〔近いと一部しか見えない〕

〔スイミーでの、うなぎの表現を私は思い出していた〕

だから、「足が歩くよ」なんだ。
だから「そらのなかの顔」なんだ。
わたしもきちんと考えて、用意していなかったので、ここまでで次へ移ってもらった。

客観的視点から主観的視点へ

ここのところに、この授業の可能性があると思う。見ている人間を描かせる試みは、おそらく、キリンの大きさ、首の長さ、顔の高さを実感させるためだったのだろう〔これ自体、面白い方法だ〕。〔読み手の位置・客観的視点。第3者・読み手がキリンと人物を比べると言う意味〕〕

それを、作者の位置、作者の視線・視覚、と見方を変えることによって、より鮮明に、イメージできたのだと思う。〔主観的視点。その人物の目になったつもりで見ると言う意味で〕

今思えば、絵を書いたら、人物とキリンの大きさ比べをした後で、人形を出す前に「すぐそばに、描いた人?」と聞いたほうが良かっただろう。ほとんどが、そばに描いていたからだ。そして「どうしてそばに書いたのか」と問うことから、詩の中の言葉に入っていけただろう。子どもは、無意識でそばに描いたのだが、遠くに描かなかったのには、やはりそのわけがあったのだ。それを、ここで改めて、意識化させるというやり方のほうが良かっただろう。

これを、この詩を読む授業の中に、計画的に取り入れると、どんな授業になるだろうか。

4 実践者プロフィール

今井成司先生
杉並区教育研究会、元国語部長
東京都杉並区三谷小学校を2007年に退職
杉並区浜田山小・久我山小、立川第8小などで講師をした。
現在、東京作文教育協議会・会長。日本作文の会会員。
杉並区作文の会会員

主な著書に

  • 「国語の本質がわかる授業1,2」(日本標準、編著)
  • 「楽しい児童詩の授業」(日本標準、編著)
  • 「楽しい随筆の授業」(日本標準、編著)
  • 「詩集・11年間のランドセル」(本の泉社、編著)

 などがある。

5 編集後記

子どもが描いたキリンと人間の絵は、その状況を意識したものではあると思いますが、その意識を自覚してはいないと思います。その絵から、まど・みちおさんがどうして詩の中でこの言葉を選んだのか理由を見つけ、その理由を意識化させて詩を読ませるという点が面白いなと思いました。

この実践のように、子どもたちがかいた絵や言葉に隠されている心理を、子どもたちに意識させることの効果は、どんな授業でも見られるものではないかと思います。
(編集・文責:EDUPEDIA編集部 宇野元気)

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