猫耳のユミちゃん 【特別支援コーディネーターものがたり 第四話】

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目次

1 はじめに

こちらの記事は、東京福祉大学准教授でいらっしゃる松浦俊弥先生の体験を元に先生ご自身が書かれた記事になります。
特別支援教育に悩みながらもがんばる先生とその支援を誠実に行う松浦先生の特別支援教育に対する姿勢、そして、子どもたち・関係者がどう変わったかをぜひご一読ください。

2 重症心身障害児の受け入れの悩み

秋風がそろそろ冷たく感じられるようになった11月。ヨツバ市教育委員会の指導主事、ヨシタニ先生がヨツバ特別支援学校を訪ねてきました。教育委員会と特別支援学校は隣り合わせになっていて、ヨシタニ先生は小中学校の特別支援教育について何か困ったことがあると、すぐにコーディネーターのカゲウラ先生に直接相談に来るような仲でした。

「来年の就学の話なんですが・・・。」カゲウラ先生と同世代のヨシタニ先生は暖房が効いた相談室でスーツの上着を脱ぎながらソファーに座り、前置きなしで話し始めました。「重症心身障害があるユミさんという女の子が市内にいます。」「どこかの幼稚園や保育園、じゃなければ療育施設のようなところにいるんですか?」カゲウラ先生も向かい側のソファーに浅く座り、質問しました。「それが・・・。どこにも通わず在宅なんです。重い障害があるため、幼稚園や保育園だけでなく療育施設でもケアすることが難しくて。ご両親は、そんなことであればどこへも通わせない、と頑なになり、ホームヘルパーなどを利用しながら自宅でユミちゃんを育ててきました。」「そうですか・・・。」カゲウラ先生は静かにうなずき、目を閉じました。

もちろんすべての子どもたちが、就学前ではあっても本人やご両親が望めば適切な環境の中で教育や保育、療育を受ける権利があって然るべきです。しかし、障害が重ければ重いほど、環境が整わずに社会参加できる機会、その選択肢は狭まってしまいます。残念なことではありますが、現実的にやむをえない状況なんだろうなあ、とカゲウラ先生は思いました。

「そのユミちゃんのご両親が・・・。」ヨシタニ先生はここで一度言葉を切り、深呼吸をして続けました。「コトリ台小学校への就学を希望しているんです。」苦しそうに搾り出されたその言葉を聞いて、カゲウラ先生ははっとしました。「もう少し詳しく教えてください」。ヨシタニ先生は話を続けました。

出産時の事故で脳に損傷を受けたユミちゃんは6歳になった今でも意識がはっきりしないようです。人工呼吸器をつけ、食事も鼻からチューブで流し込むなどすべての生活に介助が必要です。コミュニケーションがとれず、いわゆる寝たきりの状況です。それでもご両親は「自宅で一緒に暮らしたい」と願い、家庭に様々な医療器具を運び込み、訪問看護や訪問介護などの在宅支援を受けながら家族三人で暮らしています。

日本ではいまだこのような重い障害がある方々への在宅支援制度は充実されていません。ご両親のご苦労は大変なものです。夜中もユミちゃんの体位を変えたり(同じ姿勢のままだと褥瘡・じょくそうといって圧迫され続けた皮膚が壊死などを起こすため)人工呼吸器が止まらないよう点検したりするため、夫婦が交代で起きている必要があります。毎日寝不足のままお父さんは会社へ出勤し、お母さんはユミちゃんの看護をしながら家事をこなしていました。

そのご両親が、自宅近くのコトリ台小学校にユミちゃんを就学させたい、と希望しているようです。自分のお子さんを地域の小学校に就学させたい。ご両親の思いは当然のことと言えるでしょう。そして、その思いは実現されなければなりません。

しかし、ユミちゃんは先にも触れたように障害のあるお子さんのための療育施設でも十分にサポートができない状況にあります。ましてや特別支援教育時代となり、通常の学級にいる支援が必要なお子さんへの教育が義務化されないまでも、小中学校等の先生方が試行錯誤されているのが現状です。カゲウラ先生も毎週のように地域の学校を巡回しては先生方の研修会の手伝いをしているほどです。指導主事であるヨシタニ先生の悩みは言葉では言い表せないほど大きいものだろう。カゲウラ先生はそう感じました。

「一度、そのユミちゃんのご両親とお話しさせてもらってもよいでしょうか」。カゲウラ先生の言葉に、ヨシタニ先生は「ぜひ!」と答え、数日後、二人はユミちゃんの自宅に向かいました。

3 学校に与えられた使命

閑静な住宅街にある瀟洒な一戸建てで、付近のお宅に比べてもその白壁が背景の森林の緑によく映える、そんな印象深い家でした。呼び鈴を押すとお母さんが玄関を開けてくれました。足を運んでくれた二人を、お母さんは笑顔で迎えてくれたのですが、笑顔の陰に、やつれた様子を感じずにはいられませんでした。

ユミちゃんの部屋に入ると、人工呼吸器が規則正しい機械音を発していました。6畳の洋室はユミちゃんのベッド以外は医療器具でいっぱいでした。彼女は静かに目を閉じて眠っているように感じました。でも、お母さんはその頭を優しくなでながら、「この子はね、なんでも聞こえているんです。感じているんですよ。わかっているんです」とつぶやき、目を細めて寂しげにユミちゃんを見つめていました。

小柄なユミちゃんは、はやりのキャラクターがプリントされたかわいらしいピンクのパジャマに身を包み、長く伸びた艶のある黒髪はきれいに整えられていて、猫の耳が付いたカチューシャが髪の上にそっと乗せられていました。部屋の中は医療器具等で足の踏み場もないほどでしたが、室内はきちんと整理され、清潔さが保たれ、カゲウラ先生はユミちゃんがご両親の深い愛情を受けながら育てられているのだなあ、と感じ、胸が熱くなる思いでした。

食卓でお茶をご馳走になりながら、二人の先生はお母さんと就学の相談をしました。お母さんは何かを思いつめたように握った湯呑を見つめていましたが、ユミちゃんの就学決定に向けた今後の流れについて説明していたヨシタニ先生の言葉を遮り、彼に厳しい視線を送りながらつぶやきました。「近所の小学校に入ることはそんなに難しいことなのでしょうか?ユミは、ユミは小学校に入ってはいけない存在なのですか?ユミは・・・。生まれてこなかった方がよかったのでしょうか?」。お母さんの両眼に涙があふれました。ヨシタニ先生はもう何も話せなくなってしまいました。

「お母さん、ユミちゃん、本当にかわいいですね」。カゲウラ先生は、涙がこぼれるのを必死にこらえるようとしているお母さんにささやくように優しく伝えました。「今日お伺いして、ユミちゃんがお父さん、お母さんにとても大事にされ、一生懸命育まれている様子がよくわかりました。今まで本当に大変だったでしょう。よくここまで頑張ってきましたね」。その言葉にもう、お母さんの涙はこらえようがなくなり、あとからあとからあふれ出るばかりでした。

「わかりました。ユミちゃんがコトリ台小学校に安全に通うためにはどうしたらよいかを、ヨシタニ先生や小学校の先生方を含めた関係者で話し合ってみましょう」。お母さんは驚いて顔を上げました。驚いたのはヨシタニ先生も同じでした。心配そうなヨシタニ先生とお母さんに向かってカゲウラ先生は続けました。

「お子さんやご家庭の願いを実現するためにどうしたらよいか。それを考え、実現させていくことは学校に与えられた使命です。ましてやこれからはインクルーシブの時代です。障害のあるなしにかかわらず、すべての子どもたちが地域の学校に通い、多くの友だちと触れ合いながらその子に応じた教育を受け、子ども同士が育みあっていかなければなりません。お母さん、いましばらく私たちにお時間をください」。

お母さんはその日初めて、瞳の奥に「希望」の光をのぞかせ、濡れた目でカゲウラ先生を見つめました。そしてようやく一言「お願いします」と言葉を絞り出しました。

4 校長としての理念

さっそくカゲウラ先生は動き始めました。まず、ご両親の了解を得て、ユミちゃんの主治医から話を聞きました。その結果、ユミちゃんは排泄や食事、移動等に関して100%の介助が必要ないわゆる「全介助」の状態であるものの、身体状況はいたって健康で、感染症等にさえ注意すれば外出はさほど難しくはないことが分かりました。食事に関しては、特別支援学校がすでに実施している「医療的ケア」の範囲で流動食を直接胃に流し込む方法で対応できるし、仮に停電等で人工呼吸器が止まっても数時間なら自力呼吸も可能だということが分かり、さらに予備のバッテリーを常備しておけば心配ない、ということもわかりました。
 
次に、先生はご両親からユミちゃんの生活に関する願いを改めて聞き取りました。ご両親はヨツバ特別支援学校の相談室を訪れ、お父さんは男泣きしながら教えてくれました。「親として、親らしいことを何一つしてやれていない。動物園へも、遊園地へも連れて行ったことがない。いや、一緒に風呂に入ったことすらない。親なら当然、子にしてやれることを、俺は何ひとつ・・・」。お父さんはそこで言葉を切り、また続けました。

「だから先生、せめてユミには学校の匂い、音、子どもの声を感じさせてやりたいんです。大きなことを望んじゃいない。一人の子どもとして、当たり前に、ほかの子と同じように扱ってほしい。同じ経験をさせてほしい。ただ、ただそれだけなんです」。横でお母さんもハンカチを握りしめながら頷いていました。

カゲウラ先生はヨシタニ先生同行のうえで、コトリ台小学校の校長先生とも話し合いました。校長先生はグレーのスーツをお洒落に着こなす紳士然とした方でしたが、カゲウラ先生の話を真剣に聞いてくれました。そして決意を込めてその考えを教えてくれました。「先生、私も全く同感です。ユミちゃんが本校に通えるためにどうしたらよいか。そのためにベストを尽くす。もちろん人的、物理的な環境整備も必要でしょう。市教育委員会の予算も少なく、必ずしも十分な体制は取れないかもしれない。それでも初めから『どうせできないのだから無駄だ』と考えてしまっては何事も進展はない。だから『どうすれば実現するのか。実現するためにはどうしたらよいのか』を前提に話し合いを進めていくことには大いに賛成です。しかし・・・」。校長先生はここまで一息に話し、校長室のソファーから立ち上がりました。そして窓から校庭で体育の授業を受ける子どもたちの姿に目をやり、言葉を続けました。

「しかし、関係者すべてが一生懸命考えた結果、それでも乗り越えられない壁が出てくるかもしれない。場合によっては本校で受け入れられない、という結論になるかもしれない。ご両親には、そのことだけはわかっていてほしい。ベストを尽くした結果、難しい場合もある、ということを」。
カゲウラ先生は、素晴らしい校長先生だと感じました。受け入れるからにはしっかり教育したい、子どもの命や健康も守りたい。もしそれが保障できなければ、あえて批判を受ける覚悟で「受け入れられない」と言わざるを得ないこともある。まさに一校の責任者としての言葉です。

校長先生は現場の先生方の意見も聞いてみたい、と希望しました。そして、カゲウラ先生とヨシタニ先生は、それらの情報を収集し、整理し、ヨツバ市教育支援委員会の最後の会合が始まる2月までに関係者で話し合い結論を出そう、ということになりました。

5 ユミちゃんへの画期的な受け入れ案

年が明けた1月のある日。まだまだ木枯らしが吹きすさぶ寒い午後でした。低い太陽が、弱々しく校庭を照らしています。コトリ台小学校の会議室にユミちゃんのご両親、指導主事のヨシタニ先生、市の福祉課職員、小学校の校長先生と副校長先生、特別支援教育コーディネーター、そしてカゲウラ先生が顔をそろえました。

ヨシタニ先生の司会でユミちゃんの「ケース会議」が始まりました。お互いの自己紹介に続きご両親からユミちゃんの就学への思いが語られ、カゲウラ先生が今後の方向性について提案する番となりました。

「これまで関係する皆さんから情報をいただき、またこちらからの提案についてご検討をいただいた結果を総合して、ユミちゃんの就学について、あくまでもセンター機能がある特別支援学校の一コーディネーターとして提案させてください」。その言葉に続いて説明された提案は非常に斬新で、驚くべき内容でした。そして、そこにいた誰もが「これならユミちゃんがコトリ台小学校に通うことは可能だろう」と思えるようなものでした。

ユミちゃんは、コトリ台小学校の新1年生として入学する。しかし、外出経験の少ない彼女が毎日登校することは難しい。障害が重い子どもに対しては、学校教育法等でも弾力的に対応してよいこととなっている。入学後は週に1日通学することから始め、主治医と相談しながらその日数を徐々に増やしていく。小学校では彼女のための特別支援学級を開設し、彼女はそこに籍を置く。担任は市教育委員会が教員の人事交流などを利用し、特別支援学校等で障害が重いお子さんの教育経験がある教員を起用する。また、特別支援学級のほかにユミちゃんの「交流学級」(定期的に通う同学年の通常学級)を決め、できる限り多くの時間をほかの1年生とともに過ごす。週のうちほか1日はヨツバ特別支援学校に通い、身体のケアや生活訓練を行う。登下校については、市の福祉課が実施している「移動介護サービス」を使用し、看護師が同乗する車で指定された福祉事業所が責任をもって送り迎えする。食事や人工呼吸器の管理などの医療的ケア(指定された簡易な医療行為)は当初は指定事業所の訪問看護師が、ユミちゃんが登校する時だけ勤務して対応するが、担任は医療的ケアの実施が許可される研修を早急に受け、いずれ対応できるようにする。

きわめて具体的であり、協力が必要な関係機関の了解をすべて取り付けたうえで考えた就学計画でした。しかし、司会のヨシタニ先生にはまだ一抹の不安が残っていました。当初、ユミちゃんのご両親は「ほかの子どもと同じように通わせたい」と強く申し入れてきていました。果たしてこの提案が受け入れられるのか・・・。ヨシタニ先生は黙ってカゲウラ先生の言葉に聞き入っていたご両親に「いかがですか」と投げかけました。お父さんが立ち上がり、静かに、しかし毅然として話し始めました。

「カゲウラ先生、校長先生、そして参加された皆さん。娘のために一生懸命考えていただき、本当にありがとうございました」。お父さんが深々と頭を下げました。そして言葉を続けました。「カゲウラ先生の提案で結構です。いや十分です」。その瞬間、居合わせた関係者に安堵と喜びの笑顔が広がりました。

「いままで社会から隔絶されたように、私たち3人はひっそりと暮らしてきました。娘に障害がある、というだけで、だれの責任でもないのに、だれが悪いわけでもないのに、世間からのけ者にされている。そう感じていました。家族3人で小さな旅行を計画しても、娘の話を出すとありとあらゆる宿泊先に断られる始末です。地元の保育園や幼稚園からも利用を断られ、こうなったら小学校だけは意地でも通わせてやる、と夫婦そろって決めたんです。でも、今回、こうやって娘のために私たち夫婦の願いに正面から向き合って、一生懸命考えてくれる人々に出会いました。そして家内とは、ここまでやってくれたなら仮に小学校に通えなくても十分だよね、と話し合ってきたんです。だから、ユミがコトリ台小学校の新1年生になり、たった週1日でもいいから通うことができ、しかも他の学校で健康面に気遣った教育も行ってくれる。もう何も言うべきことはありません。今日、ユミが生まれてから初めて、皆さんと同じ地域の一員として認められたような気がしました。本当に、本当にありがとうございま・・・」。お父さんはそういって泣き崩れ、その肩を抱えたお母さんもお父さんの背中に顔を埋めていました。

弱い陽光が作りだすグランドの木々の長い影の先が、会議室までようやくたどり着いたようです。部屋の中は、ユミちゃんのご両親を見守る数多くの優しい涙で満ち溢れていました。

6 入学後

入学式が終わり、新学期が始まりました。コトリ台小学校のコーディネーターであるタカヤナギ先生からは、ユミちゃんの様子が定期的にカゲウラ先生に報告されています。ユミちゃんは元気に小学校に通っていること、同級生の友だちはユミちゃんが登校してくると大喜びして迎えてくれること、そんな様子を見て、時々付き添ってくるお母さんの笑顔がどんどん輝いてきていること。そして・・・それまであまり表情を変えなかったユミちゃんが、子どもたちの歓声に囲まれると口元を緩めることなど!

この調子なら2学期以降は通学する回数も少しずつ増やしていけそうです。「コトリ台小学校に猫耳のカチューシャが流行ったりして・・・」。カゲウラ先生は心の中で勝手に変な想像をし「フフフ…」と含み笑いをし残しながら、今日もまた相談の依頼を受けヨツバ特別支援学校の職員室を飛び出していきました。

7 作者から

平成25年8月に学校教育法施行令が一部改正され、今後は障害のあるなしにかかわらず原則としてすべての子どもが地域の学校に通う方向性が明確に示されました。これまで同施行令第22条の3に示された就学基準に則り、該当の子どもが地域の学校に通うべきか特別支援学校に通うべきかを決める就学指導委員会も、保護者や本人の願いを前提にして助言等を行う「教育支援委員会」などと改称することも文部科学省から通知されました。

また、障害のある子どもたちがどのような学校に通うことになっても、その子に必要な教育を実施するための「合理的配慮」を行うことが、今年1月に日本が批准した国連障害者権利条約には示されています。

子どもに応じたインクルーシブな環境

いよいよインクルーシブ時代が到来したのです。いまもまだ障害がある子どもの就学先については国内に様々な議論が渦巻いていることは承知しています。しかし、もう「どうせ無理に決まっている」と初めからあきらめるようなことはやめにしませんか。私自身は、基本的には「すべての子どもが、希望する学校で、必要に応じた教育を受けることができる社会」を理想としています。しかし、それは特別支援学校の存在を否定しているわけでは全くありません。特別支援学校はいろいろな意味で「なくてはならない存在である」と信じています。

学校の教員にしても保護者にしても、障害がある子どもの教育を「1か100か」で考えることは終わりにした方がよいと思います。地域の学校か特別支援学校か、といった二者択一ではなく、その子に応じた地域の教育資源(福祉的、医療的資源も交え)を効果的に組み合わせて、1から少しずつ100を目指して積み重ねていけるような息の長い、継続的な教育を考えていくべきです。すでに東京都や埼玉県、神奈川県などでは「副籍」「交流籍」といった名称で、学籍がある地域の学校と特別支援学校との両方に定期的に通いあっている子どもたちもいます。

子どもたちのための教員と保護者の関係の見直し

保護者のみなさんにも真剣に考えてもらいたい。だいぶ前の話ですが、ユミちゃんのケースとは正反対の悲しい結末を迎えたことがあります。障害が重いお子さんのご両親が、どのような背景があったのかはわかりませんが「養護学校」(今の特別支援学校)の存在を忌み嫌い、是が非でも小学校に通わせたい、と希望し、「養護学校」の「週に1日でも良いから体のケアを行うためにこちらに通いませんか」との提案も拒否し、お子さんは当時の例外的措置として地元の小学校に入学しました。
しかし・・・。結果的には小学校に1年も通わず彼女は亡くなってしまいました。就学環境と健康状態悪化の因果関係はわかりませんが、「養護学校」関係者は「少しでも体のケアをしていればひょっとして」という後悔を捨てきれず、ご両親とうまく話し合えなかった自分を責め続けていました。

学校と保護者は対等の立場で、子どもを中心に据え、一緒に考え、話し合っていく必要があります。学校の方が専門性があるから、と言って一方通行のアドバイスをするのでなく、保護者も「うちの子のことは親が一番よくわかっている」といった感情論を持ち出すのではなく、正確な情報をもとにしながら、あくまでも冷静に、子どもの最大限の利益を目指し、話し合っていく姿勢です。 
一人の子どもを多くの人の力で支えていく。誰もが偏見や誤解を持たず、障害があろうとなかろうと、子どもたちが「生まれてきて良かった!」と思えるような社会を作り出していくことが、教員や保護者に与えられた責務ではないか。そう思います。
「それを実現するためにはどうしたらよいのか」。みんなで一緒に、ポジティブに考えていきましょう!

8 講師プロフィール

松浦俊弥  現職:東京福祉大学 社会福祉学部 准教授(教員養成課程)

松浦先生の著作の近刊をご紹介致します。
『エピソードで学ぶ 知的障害教育』北樹出版社
http://www.hokuju.jp/books/view.cgi?cmd=dp&num=925&Tfile=Data

記事のような松浦先生の特別支援教育のエピソードを本にまとめられています。ですが記事とは内容はすべて違うエピソードが書かれており、学校や地域、教員に求められていることなど様々な見方で特別支援の様子が載っています。

(主な経歴)
・浦安市中学校教諭(進路指導主任ほか)
・県立知的障害特別支援学校教諭(生徒指導主任・特別支援教育コーディネーターほか)
・県立病弱特別支援学校教諭(特別支援教育コーディネーター・教務主任ほか)
・県立知的障害特別支援学校教頭

・元 NPO法人あかとんぼ福祉会理事長(障害児放課後クラブ)
・元 四街道市特別支援教育連携協議会専門家チーム座長
・元 四街道市障害区分判定審査委員
・元 富里市・八街市特別支援連携協議会専門家チーム委員
・現在、八街市子ども・子育て会議座長

(資格)
・臨床発達心理士
・自閉症スペクトラム支援士エキスパート

(主な受賞歴)
・読売教育賞最優秀賞(平成16年)
・NHK障害福祉賞(平成21年)

(所属学会)
・日本特殊教育学会
・自閉症スペクトラム学会
・日本育療学会

(主な著作・執筆)
・「病気の子どもの理解のために」(国立特別支援教育総合研究所・全国特別支援学校病弱教育校長会編)

・「自閉症スペクトラム児・者の理解と支援」(教育出版)

・「自閉症スペクトラム辞典」(教育出版)

・「生きる力と福祉教育・ボランティア学習」(万葉舎)

(今後の出版予定)
・「特別支援学校の日常をエピソードで綴る知的障害教育の理解(仮題)」(北樹出版)本年9月

1985年、浦安市の中学校に英語科教諭として着任。生徒の英語への関心を高めるため、屋上で「英単語巨大カルタ大会」を開催したり英語劇を演じさせたりするなど授業に工夫を凝らしていた。生徒指導副主任、進路指導主任、学年主任などを歴任。
 生徒指導にも追われる中、社会性は高くても学習に課題がある生徒の存在に気づき、その背景を探ろうと特殊教育(現在の特別支援教育)を学び始める。1990年、知的障害教育の養護学校(現在の特別支援学校)に異動、自閉症児やダウン症児、重複障害児たちと出会い、その教育の奥深さに惹かれる。生徒指導主事などを歴任。
 97年、担任する子どもたちの保護者の悩みから障害児の家庭生活、地域生活の貧しさに課題を感じ、志を同じくする同僚、保護者とともに障害児が通う養護学校のための学童保育(障害児学童保育)設置運動を開始。98年に千葉県初の障害児放課後クラブ(現行の放課後等デイサービス事業)「あかとんぼ」を開設。その後も教員業の傍ら、ボランティアで運営を支える。99年にNPO法人化し初代理事長に就任。
 99年、多数のメディアで「あかとんぼ」の活動が紹介されたことに影響を受け、県内にその後続々と作られた障害児放課後クラブのネットワークとして千葉県障害児の放課後休日活動を保障する連絡協議会(千葉放課後連)を設立。事務局長として千葉県知事などと面談を重ね、自治体からの補助制度が実現する。その後、2003年には全国の有志と同活動の全国団体、障害児の放課後休日活動を保障する全国連絡会(全国放課後連)を設立、事務局次長として厚生労働省と話し合い、現行の放課後等デイサービス事業の礎を作る。
 現職の教育公務員としてボランティアで携わり続けた障害児放課後クラブ推進に関する一連の活動に対しては、読売教育賞最優秀賞、NHK障害福祉賞、ワンバイワンアワードなど多数の受賞を通じて社会的に高く評価される。
 2002年、病弱教育の養護学校に異動。2004年から特別支援教育コーディネーターとして地域全体の特別支援教育推進に尽力。小中学校、高校等の依頼に応じ、主に発達障害児、病弱児等に関する相談支援を行なう。2006年から4年間、教務主任を兼任、教育課程の編纂などを担当。
 また病弱教育特別支援学校全国校長会(全病長)、国立特別支援教育総合研究所(特総研)が企画した通常学校教員向けガイドブック「病気の子どもの理解のために」(全編を特総研ウエブサイトから無料ダウンロード可)の編集に参加、「心の病編」など執筆も担当する。
 2010年、知的障害特別支援学校へ異動、教務副主任、特別支援教育コーディネーターとして地域の特別支援教育推進に尽力。
 2012年、千葉県立特別支援学校の教頭職に就く。しかし教頭になっても地域からの相談依頼が重なり、幼稚園・保育園、小中学校や高校などではまだまだ特別支援教育の普及が進んでいないことを実感。また特別支援学校についても社会的な理解が不足している現状を憂い、2013年、大学教員に転身。現在に至る。
 現在は大学での教員養成の傍ら、主に千葉県内を中心として小中学校、高校や市町村教育委員会等の依頼に応じて年間50箇所以上で研修会の講師などを務める。また要請があれば個別相談、保護者面談、校内委員会への参加などもいとわない。
 特別支援教育の社会的な理解推進のためメディアでの発信を続け、9月には初の単行本(「エピソードで綴る知的障害教育」 北樹出版)を出版の予定。臨床発達心理士、自閉症スペクトラム支援士の資格を有する。

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