この手は、何を伝えるのか

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作成者: 20130131さん

元某県教委充指導主事

あるとき、思った。「なぜ、この子は、もっとがんばれるのに、——ここが、がんばるところなのに、やらないのか」——そして、子どもを殴った。すると、その思いが通じたように、子どもたちが真剣になった。子どものやることが変わった。その子も変わったし、周りの子も変わった。一気に変わった。そんなことがあった。二十数年前、新規採用から二年半の間の出来事だ。

素直な子であってほしい。がんばる子に育てたい。成果を上げさせたい。早くそうしたい。努力と成果が結びつくようにするのは、指導者の責任だ。——殴ることによってその全部がついてきた。そして、それでも自分についてくる(ように見える)子どもたちがかわいくて仕方なかった。何を犠牲にしても、強くしてやりたい、勝たせてやりたいと思うようになった。
しかし、結果的には、この経験が教員を狂わせることになる。

いじめのない部活動。いつも引き締まった、緩むことのない練習。それまでの苦労が報われるような試合。声を出して連係し、勝利に邁進する姿。テレビで見るような劇的な結末。——それもこれも、殴るという手段なしに、達成することができただろうか。そう思う瞬間があった。——そこにいるのは、頼れる先生。強い先生。絶対的な存在感のある先生。先輩の先生方を見ていてもそうだったし、強いチームは大抵そうだったし、自分もそうなろうとした。
休みもなしに練習をさせている。努力の量では絶対に負けない。盆暮れなしに練習し、みんなうまくなった。勝てるようにもなってきた。県外へも試合に出かけている。当時、部活指導手当は一日二千円ほどだった。別に振替休日があるわけではない。朝六時から夜十時までが実質の勤務で、日刊の学級通信も欠かしたことはない。休みがないのはお互い様。しかし、部活を一生懸命やっているおかげで、この子たちの生活は安定している。進学先の世話も自分がするのだ。中学校の部活動は、生徒指導に役立っている。
そうだ、政治の世界でも、「競技力の向上」と言っているではないか。自分たちの献身的な努力なしに競技力の向上などあるはずもない。勝ったものだけが褒められる。それでいい。だから、勝利を目指すのだ。自分も努力をしている。教師も文字どおり「生活をかけて」指導しているのだ。文句を言われる筋合いはない。周りの先輩の先生も校長も、部活指導には口出ししない。それは、自分の努力と成果を知っているからだ。自分がどれだけ努力し、成果を上げているか、それはみんなわかってくれている。

しかし、正味のところ、本当は疲れるのだ。疲れた。本当に、疲れた。厳しい指導は、そのあとのフォローもいる。四六時中、部のことを考えるようになる。練習後にも話はするが落ち着かなくて、今日殴った生徒のところに順繰りに電話して、意図や意味や期待を伝える。
そんなことをしているのがイヤだったし、当然、殴ることが悪い手段であることはわかっているのだ。
とてもきついときがある。やめていく子がいるときだ。この指導がイヤでやめていく。当然だ。しかし、「それはそれとして」、こうなってしまうと、このやり方を止められない。「素直な子であってほしい。がんばる子に育てたい。成果を上げさせたい。早くそうしたい。努力と成果が結びつくようにするのは、指導者の責任だ」——暴力によってその全部がついてきたからだ。

とはいえ、何も悪いことをしたわけでもないのに、部の子は殴られている。
世間には、もっとだらだらしたり、悪いことをしたりしながら放置されている子がいる一方で、部の子は一生懸命やっているのに殴られる。
あるとき、問題行動のあった部員を別室に呼んだ。そして、「お前さ、・・・・・・」と言ったとたん、過呼吸を起こしてしまった。そんなに、恐怖だったのだ。
もうやめようと思った。そのあとの大会で、今までにないたくさんの賞状をもらったが、そのあと薄暗い体育倉庫の中でみんなに謝って、みんなで泣いて、顧問を辞めた。ベテランの先生に交替してもらった。次の春に異動して、別の学校に行った。
その後、教員として生徒指導で1回殴った(やっちまったのか!——そう、100%きれい事というわけにはいかない)。その子はけっこうヤバかったけれども、その後、卒業まで特段の悪さをしなかった。教員としての最後の一発も結果的には奏功したが・・・・・・。

あの子たちの犠牲のうえに、自分は教員を務めてきた。もう四半世紀前のことだ。あれから、ずいぶんましな教員になったと思う。それもこれも、多くの犠牲のうえに成り立っている。こうなったうえからは、次に出会う子どもたちにいいものを返していくことしか、自分の教員としての仕事はなかった。それで、そのようにしてきた。「自分の子にしたいことをする」、「自分の子にされていやなことはしない」・・・・・・。

県の充指導主事となり、こういったことも含めて若い教員に伝えていけるものと思ったが、なかなかその機会がない。部活動のこと、学級づくりのこと、学年づくりのこと、教科指導のこと、・・・この先もなさそうだ。細かいことは省略するが、そこに自分の居場所ではなかった。そして、退職した。それが私立学校でもいい、塾でもいい、場はどこであれ、直に伝えたい思った。伝えるべきことをきちんと伝えるために。

大阪の体罰死事件が起こって(これだけではないが)、全国のすべての学校で体罰を伴う指導を反省し、撲滅を誓ったはずだ。しかし、(案の定)そのあとも今に至るまで体罰は後を絶たない。
その先生は熱い。熱心な指導をして、信頼もある。影響力も強く、おそらく学校運営になくてはならない存在になっているのだ。
けれども、比喩的に表現すれば、「流れ出した熱いマグマは止めようもなく、抑えが利かなくなる。」
マグマを直接かければ子どもは火傷する。しかし、そうではなくて、マグマで湯を沸かして、温かい飲み物をつくってあげれば、それで子どもには伝わるのだ、それで伝わるように育てることができるのだ。
大阪の事件があったからといって、教員の熱が冷めてもいけない。大事なことは、教員がその熱の使い方を覚えなければいけないということだ。

オリンピックに向けて、「スポーツ庁」が開設されると聞いた。喜ばしいことだが、一方では、学校現場がまた「過熱」するのかもしれないという懸念がある。大阪のような事件を再び起こすようなことは許されない。最初に暴力追放を誓わなければ、きっとまた逆戻りする。体罰は劇薬だ。大阪のあの子の死を教訓にできるかどうかは、ひとえに教員の心と行動にかかっている。

世間の声で、ありがちなのは、
「少しぐらい、頭にきて殴ることはある」
「体罰か愛情かは、思い方次第」
「親だって殴ることはある。先生だって、我慢できないときはあるだろう」
「一生懸命やってもらっているのだから」
「いい刺激になっている」
「生きているなら」・・・・・・しかし、現にあの子は死んでしまったのだ。

 体罰指導には効果がある(ように見える)。しかし、反作用もある。こうして、体罰容認の意見が出るのは、体罰を受けてきた世代だ。体罰の中を生き抜いてきた自分の経験を否定できない。そのため、体罰容認の姿勢が受け継がれる結果となる。そうなると、体罰死も受け継がれるかもしれない。学校へ行ったなり、帰ってこない我が子を想像してみよう。あなたは、じっとしていられるだろうか・・・・・・。

体罰は、薬物同様、劇的な効果を発揮する(して見える)ときがある。しかし、薬物乱用防止と同じで、1回目の体罰、小さい体罰をやめなければ、より効果の高い、より強い体罰を模索し始めることになる。
これも薬物乱用防止対策と同じで、「薬物は1回でも乱用」、「体罰は1回でも問題」との意識で取り組まなければ、延々と認識のちがいを話し続けなければならないことになる。

自分は、その後も部活動の顧問をする中で、真面目に練習しない困難や勝てない困難、真面目に練習しても勝てない困難などご多分に漏れずいろんなことがあったが、新採4年目から、殴ることなしに県大会3位まではいけるようになった。その先は、自分1人ではどうしてもムリだったが、経験のない競技でもそこまではやれた。

その後、いちばんの困難は「殴ってくれ」という親がいることだった。「今まで監督に殴られながら勝ってきた。先生が殴らなければ、この子たちは練習しないのだから、殴ってあげればいい。私たちは何も文句は言わないから、絶対言わないから、だから勝たせて」
「殴らないから、先生は子どもになめられている」という親もいる。しかし、その時の自分には、「殴られて育った子は、殴られなければがんばらないように育つ」と聞こえた。
「がんばるきっかけが、殴られることか・・・・・・」
親も一生懸命なのだ。子どもも、そうやって一生懸命やってきたのだ。
しかし、殴るほうの教員はどうなのだろう?今は「戦時中」ではない。人権教育は当然のように教員の仕事である。このご時世、右を向いて子どもを殴りながら、左を向いて人権教育をすることができるのだろうか?

 その後もいっぱい経験したし、本も読んだ。そして、温もりで子どもたちを奮い立たせることも学べた。
次の感想は、ある年の合唱コンクールのあと保護者がくれた「手紙」の一部だ。
「5組、優勝おめでとうございます。少し声が小さいように思えましたが、本当にみんなの心が一つになった素晴らしいハーモニーでした。先生が、生徒一人一人に握手していた姿、とても印象的でした。5組の子どもたち、幸せですね・・・・・・」
 同じ手でも、使い方によってこんなにちがう。殴られてがんばる子ではなく、握手で奮い立つ子に育てることもできる。そして、そこには幸せが見えるのだ。
 校内の行事という小さい話かもしれない。部活動で全国優勝を争うことと次元がちがうのかもしれないが、いずれにしても教育現場の出来事だ。教員みんなが「この手は、何を伝えるのか」ということに思いをいたせば、自ずから見えてくるものがあるのではないかと思う。

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