教員の問題は、教科も部活もクラスもできるようになったあと・・・

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作成者: 20130131さん

教員になったら、ふうつは教科指導ができる。ふつうは部活指導もできるようになる。そして、学級担任もできるようになる。数年うちにできるようにならないなら、もう問題ありだと自分では思わなくてはならない。
問題は、教科指導や部活指導や学級指導ができるかどうかではない。
それができるようになったあとだ。
自分ができるところを縄張りにして、そこに住んでしまうことが問題なのだ。縄張りにこもること、縄張りを出ようとしないこと。縄張りを守ろうとすること。学年セクトどころか個別セクトでは、あちこちで血栓ができるのと同じ事になる。
先生一人がまともな先生に育つまでに、どれだけ優秀な先生でも、いくらかの生徒を犠牲にしているのではないだろうか。「犠牲」とは意図的に痛めつけることではない。何年も教育現場を経験した先生なら、「今ならもっといい教育をできた」と思うことがあるはずだと思う。その意味で、前はそれができなかった。気づかなかった。その意味の犠牲をいう。いくらかの生徒を犠牲にしながら、あるテリトリーができたからといってそこに安住してしまっては、その子たちに申し訳が立たない。より多くの子どもたちに返していくことで、新米教員だった当時の犠牲に報いることが大事ではないだろうか。

では、どのように返すか?どこで返すか?
一つには、自分のテリトリーにこもらない誓いを立てることだ。何もかも、子どもたちのために。教育の本質を見失わないこと。
もう一つには、自分のテリトリーにこだわらない意思を持つことだ。
現職の時、私もみなさんと同じく、中学校に勤務して忙しくなかったわけではない。週28時間の教育課程で26時間を授業と会議で埋め尽くした年もある。学校の運営に関わり、学年づくりに励み、もちろん教科、部活、学級は当然こなすべき仕事である。それで、何が起こるか?関わりが起こる。特に、中学校の学年指導では大きな融合が起こる。
学年の話をすると、すぐに「学年セクト」という言葉が出てくるが、今の若い教員は知らないかもしれない。これは、内向きでかつ対立があり、教員の思想的な主張を通そうとする場面で使われた言葉であって、今の教育現場で何ら影響をもたない、そんな実態があるべくもない言葉である。むしろ、「学年セクト」を強く意識する人こそが、学年セクトを作り出しているのが現状と言えよう。
それ以上に、学年づくりは意味をもっている。
学年教員は、チームであり、組織力を発揮できる。分かち合い、補い合い、高め合うことができる。何より、襲いかかってくる保護者の中の大変困った方々に対するときには、担任とその保護者との1対1は避けたいところだ。見通しがある場合は別にして、多くの場合、1対1を避けることでスムーズな学校運営が確保できる。だれのせいでもない、そこにその保護者がいたから学校が荒れるケースがなくもないのは事実。訳のわからない卒業生の保護者からいきなりサタン呼ばわりをされて耐える正当な理由はあまりないように思える。しかし、それでも1対1の対応になれば、その担任が抱えるやっかいさや精神的な苦痛は思いやるにも限界がある。ぜひとも、学年のチームワークを発揮し、腕相撲の弱い教員が、すぐに暴力を振るう生徒との間でも話し合いの指導ができるようになる学年指導をするよう、意思を持つべきだと考える。併せて、校務分掌や部活指導、親睦会等を通じて、学年がうまく機能した場合にもだれも学年にこもらないように、様々な公式非公式のネットワークを確立するよう尽力する必要がある。在職中、よく親睦会の担当をしたが、その目的は、一部一派の勢力が、飲み会を通じて学校を牛耳ることがないようにするためだった。例えば、部活動をやりたい教員が力をもち、部活を中心に学校運営をやりはじめると、必ず、あぶれた生徒が問題を起こす。さらに放置していく体制ができあがってしまう。関わる先生が多くなければ解決していかない事柄をやっかいもの扱いして、ほっつけあいをする事態になっていたら、きっと一部一派が学校を牛耳っているに違いない。学校は、教員みんなでつくっていくものだ。現状、そのチームとしていちばん機能するのは学年である。
また、これは生徒の側から見ても重要なことがらなのだ。経験があるのではないだろうか?この子、学年がちがっていたら、崩れていたかもしれない子。この学年だったからともに成長できたと思える子。経験値でいえば、そういう生徒は複数、かなりいたのではないかと思う。
生徒は、年に一度のクラス編制があるかぎり、学年で生活をしている。ある年、いいクラスであっても、次の年、妙なことになるとそれが不登校やいじめの原因になることも考えられる。先生も、皆が多忙になり、経験の伝承が難しい現状にあって、学年は経験を伝えていくよい場として使える。また、年休や病休等の対応、事情があっての復帰教員の調整など、校長との一対多対応ではとうてい追いつけないことを、学年なら十分に分かち合い、伝承し、機能させることができる。教員の側から見ても、今年いい学級をつくっても、来年元の木阿弥になるかもしれない徒労感は、なんとも空しいところだ。よき教育が、学年の子どもたちに蓄積されてこそ、積み上げが可能になる。そういう観点で指導をしていくと、できることは非常に多い。しかも、子どもは生きる。指導過程では、どの先生も持ち味を発揮することができる。
我々の仕事は、子どもたちに奉仕しながら未来をつくっていく仕事である。
我々は、未来をつくっているのだから、未来の世界のあるべき教育を体現することが重要。サラリーマンであるかどうかという台所事情とは別に、職人のようなスキルを併せ持っていたいと思う。みなさんは、学校教育で。私は放課後教育で。

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