罰と罰 ~ 解決困難なトラブルに

53
目次

1 困ったトラブル

トイレに落書きがある、教室の物がなくなる、壊される、いじめ・・・学校では誰がやったかがわからないような事件が起こることは少なくありません。多分、やったのは1人や2人の少ない人数であるのに学級全員や学年全体を集めて指導せざるをえない場合があると思います。
やっている子供が愉快犯であると特にたちが悪く、ばれないことをいいことに、何回も同じことを繰り返す場合があります。教師側としては打つ手がなく、たいへん困ります。
こんな時、大半の関係のない子供にまで何度も同じような指導を受けて、いやな思いをさせてしまい、学級・学年のムードが悪くなってしまいます。教員は警察ではないので、犯人を捜しに全力をあげるわけにもいきませんし、防犯カメラを設置するわけにもいきません。

2 「罰」と「罰」

こういったケースで、なんとか自分のやっていることに罪悪感を持ってもらうために、このように話をします。まず、2枚の紙に大きく「罰」「罰」と書きます。そして、次の様に説教をします。

学年に応じて、分かりやすい言い方で、以下のような内容を子供たちに伝えます。ほぼ説教になりますが、時には説教も必要だと思います。
.
「これを何と読むかわかりますか」
「『ばつ』と読みます」
「もう一枚、同じ字を用意しています。もう一つの読み方があるからです。何と読むかわかりますか?」
「『ばち』と読みます」
「『ばつ』と『ばち』のちがいはわかりますか」
「『ばつ』は、悪いことをしたのがばれた時、人が人に与えるものです。つまり、人にこらしめられるということですね」
「『ばつ』は人にばれなければ与えられません。」
「人にばれなければ悪いことをしてもいいわけではないです。」
「なぜかというと、『ばち』があたるからです。」
「『ばち』は神様や仏様が、悪いことをした人に与えるものと言われています」
「悪いことをして誰にも見つからなくても、必ず神様や仏様は見ていると、昔の人は考えていました」
「先生もそう思います。トイレに落書きをして、何か楽しい気分になっているのかどうか、よくわからないけれど、そんなことをしていると、いつか自分の身の上に悪いことが起こると思います。それが『ばち』です。誰にも見つからなくても、『ばち』はあたります。」
「当たり前です。そんなに人に迷惑をかけて、人を嫌な気分にして、普通でいられるわけはないでしょう!」
「ばれなければいいと思っていたら大間違いだ!きっと『ばち』があたるぞ!」
と、最後は怒りを込めて話しましょう。

3 家庭で育まれるべき道徳観

道徳教育についての論議が活発になってきています。あまり神や仏は持ち出したくないですが、人の悪い心を抑える人を超えた何者かが存在することは子供たちにわからせたいです。昭和の家庭で親から子へと伝えられていた道徳観と平成の家庭では、ずいぶんな差があると思います。昭和の親は、「あんた、そんなことしていたら『ばち』があたるよ」と、子供をよく叱っていたように思います。本来は家庭や社会の中で育まれる宗教的なメンタリティーというものがあったと思います。しかし、宗教的な行事や習慣が少なくなっています。一昔前に子供たちの道徳観を形成していた土着の宗教の影響がなくなってきていることは確かではないでしょうか。
こんな時代であるから、子供たちの中に「悪いことをしたらたとえそれがばれなくっても『ばち』があたる」といった悪い心を抑制する心の存在に気付かせることも必要ではないかと思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次