予習展開による国語科授業づくり~主体的・対話的な学びで深める~(教育技術×EDUPEDIAスペシャル・インタビュー第6回 久保齋先生)

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目次

1 はじめに

本記事は、雑誌『教育技術』(小学館)とEDUPEDIAのコラボ企画として行われた久保齋先生へのインタビューを記事化したものです。

従来とは一味違った「予習」の重要性を提唱している元小学校教諭の久保先生に、実際の実践例を元にしたアクティブラーニング型授業、そしてクラス内の学力格差是正に対する予習の有効性についてお聞きしました。

なお、本企画は小学館発行の教育誌『教育技術』とのコラボ企画となっております。『小一教育技術』~『小六教育技術』4月号にもインタビュー記事が載っていますので、そちらも合わせてご覧ください。
教育技術.net

2 インタビュー

久保先生は以前、『一斉授業の復権』という本を上梓されました。アクティブラーニングと一斉授業は相容れないように感じますが、久保先生はどのようにお考えですか?

結局のところ、授業は一斉授業か個別授業しかないと考えています。文部科学省が定義するアクティブラーニングは「主体的・対話的で、深い学び」がキーワードだと言われています。しかし、主体的で対話的な授業を追究するとそれは一斉授業そのものなんです。

一斉授業と聞くと、多くの人は大学の講義のように先生が一方的に知識を与え、学生がじっと聞いているようなイメージを持つと思います。しかし、子どもを教育する際に、大学の講堂で300人が1人の話を聞くというようなことはありえないわけです。講義形式と一斉授業は概念として全く違うものです。

一斉授業を行うときにまず大事なのは、主体的な学びがあること。そこから対話的になり、子どもが自分から脳を動かすようになる、という関係になっています。この2つを行ったり来たりしながら、学びを深めていきます。そういう位置付けで考えた時、アクティブラーニングと一斉授業は一致しているということです。

その主体的で対話的な授業の中、国語科という科目を通して久保先生は子どもたちにどのような力を育んでほしいとお考えでしょうか?

私は、子どもたちが社会に出て有能な働き手になるための教育を考える必要があると思っています。

私が思う有能な人とは「何か物事を為す時に自分でしっかりと準備をして行為に及ぶ人」です。具体的には、前日のうちに、翌日の仕事について既に脳を活性化させて考えているということですね。あらかじめその課題について自分なりの解釈をしていると、自分の解釈がすぐに出せるので、そんな人達が集まるとすぐに議論が始まるわけです。だから、授業で身につけてほしい力もそれと同じです。将来を見据え、「自分で予習できる力」を育てたいです。

学校現場の例を挙げると、何も課題を持たずに授業に参加する子を育ててはいけません。日本の教育に宿題がありますよね。学力を身につけるために宿題は出さざるを得ませんが、ほぼ100パーセントが復習なのは問題です。社会に出れば予習できる人が優秀とされるのに、学校では復習してきて確実に100点を取るのが優秀とされているんですよ。

確かに、小学生の頃あまり予習をしたことはなかった気がします。

文学教育を取り上げると、教師は「言葉の意味を調べてきなさい。音読をしてきなさい。」と言うわけですが、それは本当の意味での予習ではないと思います。

私の考える予習というのは、指定範囲を読み、自分で読み深めたいところや疑問に思ったところを持ってくることです。その時に大事なのは、疑問を持ってくるだけではダメだということです。疑問を持ち、自分なりの答えを書き、そして皆さんどうですかと聞ける準備をしてこなければいけません。それを私は物語文の授業で追究しています。

なぜ物語文で追究するのかというと、予習というものは答えが決まっていると面白くないわけです。答えがはっきりしないからこそ予習の価値があります。自分で読んでそれなりに答えが出せて、しかもその答えに不安があるので教師や友達に聞いてみたいというものが、予習として価値があるわけです。今、問題になっているのは教師自身に予習の経験がない、日本に予習の文化がないことです。

そうは言っても、すべての学習で予習を課すことはできません。例えば算数は予習が難しい教科です。塾で「習う」ことはできるけれども、予習をするのは学問上難しい。習ったことを復習するとか応用問題を解くとかならできますが。

予習に向いている教科、向いていない教科があるのですね。

そうです。根本的な予習という話になると、やはり理科・社会・国語などが向いています。なぜなら、答えがばらつく問いを出すことができるからです。予習文化を作るためにまず必要なのは、1日に1教科1問題でいいから、予習をさせ続けるということです。

それで何が起こるかというと、朝の教室で、子どもたちの間で予習の話題が起こるんです。例えば『おむすびころりん』という話を勉強するときに、ただ音読させるのではなく、「穴の中におむすびはいくつ落ちましたか」という予習を課します。何が起こるかというと、子どもたちは結局音読してきすが、目標を持った音読になるわけです。次の日の朝学校に行くと、一年生の子どもたちがわいわいやっています。出された予習についてみんなで話しているんです。ある子は「2つや」と言い、またある子は「1つや」と言う。そして議論になり、それがそのまま授業につながります。

予習のメリットとして、他にどのような点がありますか?

私が予習による教育改革を是非やりたいと思っているわけには、クラスにはA,B,C,D群の子どもたちがいることがあります。

  • A群の子は「よくできる子」、発問してもすぐに答えられるような子です。
  • B群の子はいわゆる「普通の子」、少しもたもたっとしています。
  • C群の子は仮性低学力児と言って、脳の状態に問題はないけれども、怠けているとか家の状態がよくないなどの理由で学力が低い層です。
  • D群の子は特別な支援が必要な子たちです。

こうした生徒たちが混ざった教室で、予習せずに普通の授業をすると、A群の子が活躍するわけです。B,C群の子は、先生の発問とA群の子の答えを頭の中でミックスして、「今こんなことを聞いてるんだな」とようやく理解して、授業に参加します。D群の子は何をするか分からないので、パニックを起こします。これを解決するために、予習を出すのです。予習は学力の高い子にしかできないというのが今までの概念ですが、むしろ学力が低い子のために予習を出してあげないといけません。

例えば単純に音読の宿題を出すと、学力の高い子は音読ですぐに内容を理解できます。ところが学力の低い子は、読むのが精一杯なのでそのまま授業に来てしまいます。しかし、「おむすびはいくつ落ちた?」という予習を出すことで、B,C,D群の子も、その授業の中心課題にエンジンが温まった状態で臨むことができます。特別な支援を必要とするD群の子も、授業で何をやるか分かっているのでパニックを起こしにくいです。

これから研究を進める必要はありますが、予習には格差をなくしどの子も伸ばす可能性があるでしょう。

予習の課題を出す際に気を付けることはありますか?

予習の原則の1つめは、答えが紋切型ではなく、まさに主体性に任されているということです。私は予習を出すとき、物語文だったら300字くらいは書かせます。文章化するんです。

主体的な学びを予習として前に出すと、授業では対話的な学びに多くの時間を割くことができます。そして大事なのは、授業での対話の後にもう一度「書く」ことです。対話の産物を再び言語化しないといけません。最初に書いたものと授業後に書いたものの差異が、授業の産物ということになるわけです。

今までは予習なしに1コマのなかで先生が話し、対話的に学び、そして考えたことを言語化しようとしていたわけですが、やはり45分では最後の言語化がなかなか間に合いません。予習をさせてくると、予習によって生まれた時間の10~15分で最後に言語化したものを発表するところまで時間がとれるようになります。予習を取り入れることですべての授業の質が上がるでしょう。

これは心理学者のヴィゴツキーの考え方ですけど、C群の子にとって、A群の子はレベルの差がありすぎて模倣できません。「学びの連鎖」というのは、B群の子はA群の子から学び、C群の子はB群の子から学ぶということです。

オリンピック選手に目の前でスペシャルな演技をしてもらっても、でんぐり返ししかできない子にとってそれは学びにはならないですよね。自分がまだ全然できない時なら、とても上手な子よりも、少し不格好で「自分にも真似できるかも」と思える子を参考にするでしょう。

「学びの連鎖」を起こすことのできる先生は、一斉授業のワザとしては非常にレベルの高いものを持っています。一斉授業と言うと、先生と子ども全体の関係で捉えられがちですが、質の高い授業というのは、クラスの子どもたちに「学びの連鎖」を起こすことのできる授業だと言えます。

「2種類の予習」について、解説していただけますか。

中心課題の予習を予習①とすると、予習②は「ここからここまで本を読んで、その中から自分で疑問に思うこと、読み深めたいこと、普通はこう書いてあるけど違うんじゃないか、という3つのパターンで自分で予習する」ことです。これはノート1ページに5問くらい書いてこさせる。

つまり、子どもは2つの予習をすることになりますが、これは学年が合わないと難しいです。1年生や2年生は、予習①ですね。3年生くらいになると、逆に自分で疑問を探してくる、読み深めたいものを探してくることを付け加えます。それを3年生の最初にやっておいて、3年生の後半から6年生までは予習②も加えて2つのことをさせるわけです。

予習①によって児童の個人学習の方向性がある程度決まり、それに予習②を組み合わせることで、中心課題に自分達が疑問と思っていることを入れられるのです。3年生の終わりくらいからそういうことができるようになって、国語の物語文の授業としては完成形に近づきます。

他教科の予習についてはどうでしょうか。

社会科だったら、例えば教科書2ページ分の予習をさせたいときは、「疑問を4つノートに書いてきなさい」と言います。「自分が読み深めたい」とか「分からない」というところをね。これが、社会科の場合の予習です。

それで、先生は普通それを見ようとするんですよね、子どもが疑問に思ったことを事前に見ようとする。それをすると教師が潰れるのです。40人学級×4クラス分の予習を見て授業のあり方を考えるのは、時間が足りず無理です。それではどうするのかというと、疑問等を子どもに書かせるけれど、教師は一切関係なく自分が教えたい授業をするのです。主体が違うわけですね。自分の疑問を持ちながら、久保の授業を1時間聞く。そして1時間の久保の授業で自分の疑問に答えがあったらそれをノートに書く、しかし、子どもの疑問の中には授業の中で解決されないものがあり、それを質問に来ることがありますが、そんな時は「それは聞きに来てはいけない」と言って怒るのです。こういう疑問について教師がいちいち質問を聞いていたら、2時間くらい質問コーナーを作らなければいけなくなりますから。

そうではなくて、「これは先生に聞かずにお友達同士で相談するとか図書館へ行くとかして書きなさい」と言うようにするのです。主体的な学び、アクティブラーニングの目標として、授業時間外でも主体的な学びができるようになることがあります。だから、子どもが分からないときに100%分からせようとする教師は「アカンタレの教師」だということです。授業も講演も「半分わかって、半分わからない」のがいいのです。

丁寧に解説しすぎるのは良くないということですね。

半分で良いのです。半分教えて、半分は分からないまま放っておいた方が、子どもは後から調べるのです。ただし半分はしっかり分かっていないとだめですよ。何も知識がない状態では調べられませんから。全てを授業で教えるのではなく、子ども同士の対話や分からないことを調べる余地を残しておくことが大切です。

そうして生まれた子どもの主体的・対話的な学習によって教室に学びの連鎖ができて、それでも分からないと自ら調べるという行為に発展していく。このように、本来的に持っている一斉授業の機能を活性化させれることが、これからの授業には求められると考えています。

学級経営についての質問ですが、若い先生の中には、子どもと友達関係になってしまう方もいると思います。そのような先生でも、子どもと信頼関係を築くためにはどうすればいいですか?

「子どもの目線で話しなさい」「子どもの立場になりなさい」とよく言われますが、私はそれは間違っていると思います。なぜなら、子どもは大人に「大人」を求めているからです。信頼を得ようとするならば、担任は大人として子どもの前に凛として立つべきだと思います。

先生は遊びに来ているのではなく仕事に来ているんだ、そして先生の仕事は勉強を教えることなんだ、ということをはっきり示さなければいけません。いつも遊んでやると、先生が遊んでくれるのは当たり前だと子どもは思い始めてしまうのです。

親も「大人の」担任を求めています。普通の人は4月の一番最初の日に4時間まるまる遊んだり、学級方針を決めたりしますが、私は2時間使って国語と算数の授業をするんです。そうすると子どもたちはノートに1ページ書いて帰るわけで、これで親の信頼は全然違ってきます。

4時間まるまる学活をやって子どもが楽しかったという先生と、学活に加えて国語と算数をやってこんなに書かされたという先生のどっちが信頼されるかといったら、後者ですよ。学校の先生は学力をつけさせてお給料をもらっているはずなんですから。仮にその時に少しでも予習を出したなら、子どもは家に帰って勉強しますよ。それで親は信頼します。子どもや親に迎合すればトラブルが起こらないと考えるのは間違いです。迎合してはいけません。

若い教師の皆さんに、他にアドバイスはありますか?

この頃の若い先生たちは、授業のハウツーやテクニックは持っていますが、それの前に大事なのは教材研究です。先生自身が教材をどう解釈するのか、ということです。その際に、「自分はこう考えるけど、あなたはどう考えるのか」と先生同士が議論して、まさに教師がアクティブ・ラーナーになることがとても大切だと思います。

だから、今度の本には私なりの教材解釈をしっかり書きました。もちろん人によっては違う意見はありますが、若い方の指導案にも、自分の考えをしっかり書いてほしいなと思います。

最後に一言お願いします。

私は、授業を芸術だと思っているんです。もちろん授業というのは子どもと担任が作っているんですけど、担任に言わせたら、授業は芸術です。芸術なので、指一本触れてほしくないわけです。もちろん研究はみんなでするんですが、授業は、他の人には指一本触れてほしくないわけです。

ところが最近はチーム学校と言って、指導案にみんなの意見が入るのです。だから、指導案を見たときに、「これは本当に君自身の指導案か?」となるわけです。議論や他の人に意見を聞くことは大事ですが、指導案は芸術なんだから、仮に一筆たりとも他人の筆が入ったら、それは自分自身の作品じゃないのではないか、というのが私の考え方です。

そのためには採用されてすぐの教師でも、一人の教師として尊厳というものを持っていないといけません。そして、それを多くの人が認める必要があります。

私たち教員が指導案を出すときは、最後に自分の印鑑を押しますよね。自分の授業に対して、「この指導案は俺の指導案だ。この授業は俺の責任だ。俺の作品なのだ」という教師としての誇りと気概を持たないといけないと思うんです。

3 先生のプロフィール

久保齋(くぼいつき)

元京都市公立小学校教諭
学力研(学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会)特別講師
「先生のための学校」校長
寝屋川市立点野小学校ほか数校の教育アドバイザー

4 著書紹介

『予習展開による国語科授業づくり: 主体的・対話的な学びを深める (教育技術MOOK) 』

今回のインタビューのテーマ、「予習を中心にした授業づくり」について、さらに細かく書かれている久保先生の新刊です。
国語科だけでなく他教科にもつながるアクティブラーニングのヒントがちりばめられた本となっています!

その他の著書

5 編集後記

勉強が苦手な子にこそ予習が有効だというお話は、目から鱗でした。授業に向かう姿勢を変えることができるだけでなく、あえて疑問の余地を残すことによって授業外の自発的な学びにつなげることもできるなど、可能性に溢れた実践だと感じました。

(取材・編集 EDUPEDIA編集部 中澤・内山)

6 関連ページ

教育技術.net

『小一教育技術』~『小六教育技術』4月号に掲載の久保先生インタビュー記事も合わせてご覧ください。

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【教育技術×EDUPEDIAコラボ】スペシャルインタビュー

第1回からのインタビューまとめページはコチラ

コラボ企画・特集ページ

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2017年8月5日(土) 10:00〜 8月6日(日) 16:30
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