1 はじめに
2018年7月15日(日)、EDUPEDIAでは、立命館宇治高校国語科の水戸智舟先生にインタビューを行いました。本記事は、その内容を記したものです。
国語の授業で「哲学」、いわゆる「答えのない」学問を取り入れている水戸先生の、授業実践や国語教育に対する思いについて質問しました。
2 授業内容
取材を行った学生3人を生徒に見立て、水戸先生が行っている「答えのない」問いに関する授業の冒頭部分を実演していただきました。
水戸:今日は、恋愛をテーマに授業をしようと思います。恋愛って答えがないよね。そういう答えのない問いを考えることを”哲学”といいます。ということで今回は”恋愛を哲学する”という授業をしようと思います。
(レジュメ配布)
生徒Aの相談
ある日、生徒が職員室に来て、相談があると言った。それは、次のような内容だった。
この男子生徒Aは、高校に入学した当時から同じクラスの女子生徒Bと交際していて、もうすぐ二年目を迎える。 B は性格的に優しく可愛らしい女性で、真面目なAと似合いのカップルだと周囲からも言われている。
Bと中学時代からの親友Cは、どちらかというとクールな美人タイプで、彼女もやはり同じクラスに所属している。Aには、そのように中学から一緒に進学してきた同性の親友がいないのでBとCの友情を非常に好ましく思っている。
高校では、BとCが女性同士で一緒にいることが多く、その流れで自然とAと3人で食事をしたり遊びに行ったりするが、もちろんCは、AとBが交際していることを知っているので、しばらくすると、気を利かせて先に帰ることが多い。Cは国際線のフライトアテンダントを目指していて、英会話スクールなどにも通って忙しく、特定の彼氏はいないらしい。
さて、実はAは、このCに恋をしてしまったのである。3人で会った後など、以前のAはBと二人きりになれて嬉しかったが、今では逆に、がっかりとした失望感を心中に隠している。すでに半年ほど前から、Bと一緒にいても、Cの残像に悩まされているというのである。 そこでAの相談というのは、次のようなものであった。
「このままいても、苦しいばかりです。やはり僕は、思い切ってCに告白すべきでしょうか?しかし、今でもBのことも嫌いではないのです。それに、BとCの友情を傷つけたくもないし……。このような場合、どのような行動をとるのが正しいのでしょうか。」
問 次の論題に対する肯定派・否定派の理由を、それぞれ考えて書きなさい。ただし、できるだけ多く回答すること。論題:「AはCに告白すべきである。」
(高橋昌一郎「哲学ディベート」より 一部改変)
水戸:これを読んでみてください。
(読む時間1分)
水戸:読めた?要するにこれはA君のどういう相談?
EDUPEDIA:BとC、どっちをとればいいかな、という…
水戸:そうだね、つまりこれはA君とBさんとCさんの三角関係で、まずA君とBさんが?
EDUPEDIA:が付き合っていて…
水戸:BさんとCさんが?
EDUPEDIA:親友…
水戸:でもA君が?
EDUPEDIA:Cさんに恋をした。
水戸:そうだね、その中でAさんはCさんに告白すべきか、ということだね。というところで下の問いに答えてください。肯定派、否定派の理由をそれぞれ書いてください。
(考える時間3分)
水戸:お互いに納得できるアドバイスを考えて発表してください。
その後、生徒を肯定、否定それぞれの立場に分けて、意見を述べさせます。
さらに、肯定と否定双方が納得するすり合わせの案を作って発表させます。ディベートと異なり相手を論破することは目指しません。
水戸:こういう”哲学”の話をやるときには、いつも結論を出さずに終えるようにしています。結論を出すとどこかスッキリしてしまう。モヤモヤ感を残したまま次に行くことで、生徒たちはその後ももっと考えたくなると思います。教員が最後に模範解答的な考えを言うと、それに皆考えを収束させてしまい、それ以上生徒たちは考えを深めません。
授業の構成としては、クラスの活発度にもよりますがこういった話を一回の授業で2つ、3つ詰め込みます。
3 インタビュー
なぜ哲学を国語の授業に取り入れようと思ったのですか。
現代の国語教育では受験の影響もあるためか、答えのある問いのみについて教えているように感じます。しかし、私は「答えがない」ことの方が重要なのではないかと考えています。実際、社会に出てから直面する問題というのは、答えのないものが大半です。
「哲学」という学問も、答えのない問題を扱っています。哲学をテーマにしたディベートを通して表現力や思考力を生徒達に身につけてもらい、答えのない問にも積極的に取り組んでもらえるように指導しています。
そのような授業用の教材は、どのように探していますか。
私が尊敬している国語の先生または教育学者の著書やおすすめの本の中で、授業でやると面白そうなものを取り上げています。以下に例を挙げます。
以下に、私が使用している教材の一例をあげます。
野矢茂樹『論理トレーニング101題』
「国語って何のために勉強するの?」と 生徒からよく質問されます。
しかし考えてみればもっともなことで、例えば英語を学ぶ目的は、英語を話せるようになることでしょう。
では、すでに日本語を話せる僕たち日本人は、一体何のために国語を学ぶのか?これはすべての国語教師が考えるべき大事な問いだと思います。僕もご多分に漏れず、この問いに対してずっと頭を悩ませてきました。
そして、この問いに答えを示してくれたのが、この本、「論理トレーニング101題」です。この本の序論には、「論理の力とは、思考を表現する力、あるいは表現された思考をきちんと読み解く力にほかならない。それは、言葉を自在に扱う力、われわれにとっては日本語の力のひとつなのである。」と書かれています。
つまり、「国語を学ぶ目的は、言葉を自在に使いこなせるようになること」という考えです。そしてそのための方法を具体的な101問の問題で示してくれています。同じ悩みをお持ちの方には、ご一読をお勧めします。
高橋昌一郎『哲学ディベート』
「Aくんは、恋人(B子)の親友C子に恋をしてしまった。彼はC子に告白するべきだろうか。」
先ほどの授業実演でも扱った、この本に掲載された論題の一つです。実際の授業では、「一時の気の迷いかもしれない」「自分の気持ちに正直になるべきだ」「B子がかわいそう。告白なんてありえない!」など、非常に多様な意見が出され、そのどれもが大きくうなずけるものでした。
このような、答えのない問いについて議論し、集団内の「納得解」を形成すること。それがこの「哲学ディベート」の目的です。この本を教材としてディベートを行えば、
- 議論の技術
- 合意形成の仕方
- 哲学的思考の深まり
という3つの学びを得ることができます。
ディベートの授業で最も重要なのは「教材の選定」です。「ディベートしたいけど、良い教材が見つからない…」という方には、ご一読をお勧めします。
また、新聞の社説、特に非常識な主張をしているものを取り上げることもあります。教科書で取り上げられる文章は大抵常識的な主張をしていますが、それでは生徒達にとって面白みがないと感じています。
教材として扱う条件としては
- 思想に偏りがある
- 主張及びその根拠が明確である
- 文章量が多すぎない
- 専門的な知識を必要としない
- 生徒にとって身近な話題である
- 多重な読みができる
等が挙げられます。
例えば「臓器売買の何が悪いのか」という主張は授業では扱いやすいです。この主張の根拠として「物を売買する権利は認められている」「臓器の無償提供は行われているのだから有償でも何も問題はない」といったものが挙げられるとしましょう。
しかし、私たちは直感的に「その主張はおかしい」と思うところがあるはずです。そういう所に焦点を当てて、自分の常識を疑い、そして生徒同士で議論させる。ここにこそ国語教育の意味があると私は考えています。
年間授業計画の中で、哲学を取り入れた授業をどう位置づけていますか。
現状、テスト対策等も含めた授業全体のうち、2割程度しか実施できていません。その上、このような授業を行うには、基礎的な語彙や文法を普段から練習していく必要があります。そのため、このような授業は年間の授業計画の中では、相対的に少なくなり、評価の対象とならないこともあります。
それを補うために、香西秀信『反論の技術』という本の問題を使って論理の飛躍を見つける訓練をさせたり、普段の授業の最初では鈴木貴博『戦略思考トレーニング』という本の中にある論理パズルを、生徒に解かせてみたりしています。授業数は少ないですが、生徒が自主的に考える授業になっているため、実践すれば生徒達の印象に残るというメリットはあります。
「答えのない」授業を普段はどのように締めていますか。
授業の中で議論を完結させず、あえて生徒がもっと議論したいと思うようなところで授業を終えるようにしています。「答えのない」学問に挑んでいるわけですから、議論が終わることはありません。授業の終了とともに議論も終了させるのではなく、そこから新しい学びが生まれるように、授業外でも議論を続けるように促しています。
目に見える変化は生徒にありましたか。
生徒に論理的思考力が身についてきたために、よく試験問題の間違いを指摘されるようになりました(笑)。先に述べたように、このような授業は割合としては少ないですが、無駄ではないのかなと感じています。
4 プロフィール
水戸智舟先生
立命館宇治高校常勤講師(国語科)、僧侶。(2018年7月15日時点のものです)
5 編集後記
国語で習得すべき「表現力」「理解力」「言語感覚」といったものは、抽象的、測定困難であり、その習得は付け焼刃の技術では対応できない「正解のない問い」でこそ可能なのではないでしょうか。もちろん、こうした問いに取り組むためには知識、語彙、論理等の基礎力の育成は不可欠でしょう。例えば教科書の教材でもこのような答えのない問いを発することは可能でしょう。そうした問いに取り組むことを目標に、基礎力の養成も行うことで、生徒はより多くのものを国語の授業から得ようとするのではないでしょうか。
(編集・文責 EDUPEDIA編集部 上島憲、高木敏行)
コメント