中学歴史〜関ヶ原の合戦と江戸幕府のしくみ〜(自主学習用教材「こころの窓」第25回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第25回「関ヶ原の合戦と江戸幕府のしくみ」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

元気ですか。では今日もがんばりましょう。

今日のお題は「関ヶ原の合戦(せきがはらのかっせん)と江戸幕府のしくみ」です。

秀吉が亡くなると、日本を支配しようと考えていた徳川家康(とくがわいえやす)と、豊臣家の支配を守ろうとした石田三成(いしだみつなり・・秀吉の家来)との間で、関ヶ原の合戦(1600年)が行われました。はじめは三成が優勢でしたが、途中から小早川秀秋(こばやかわひであき)らが裏切ったため、三成は敗れ、家康が勝利しました。そして、家康は征夷大将軍に任命され、江戸(東京)に幕府を開きました。ただ、三成は殺されましたが、大阪城には秀吉の子である秀頼(ひでより)とその母淀君(よどぎみ)や、豊臣家の家来たちが残っていました。そのことが気になる家康は、理由をつくって大阪城を攻めました。これを大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と大阪夏の陣(おおさかなつのじん)と言います。この二つの戦いで、秀頼も淀君も亡くなり、豊臣家は完全に滅んだのです。その後、第1代将軍の徳川家康から、最後の将軍の第15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)まで、260年間も江戸時代が続くのです。

それでは次に、江戸幕府のしくみを勉強します。

まず、家康は、全国の4分の1の領土を直轄地(ちょっかつち・・幕府が直接支配する土地)とします。そして、その他の全国の土地を家来(大名・・だいみょう)に分けました。この時、もともと家康の家来であった人を譜代(ふだい)といい、この譜代は信頼していましたので、江戸に近いところに領土を与えました。しかし、関ヶ原より後に家来になった人は外様(とざま)といい、この大名達は信用していなかったので、江戸から遠いところに領土を与えました。その理由は、以前は豊臣に仕えていた外様は、いつ裏切って江戸に攻めてくるか分からないので、江戸から遠いところに配置したのです。よく考えていますね~。さらに、江戸や大坂などの大きな都市、金山(金がとれるところ)や銀山(銀がとれるところ)、長崎での外国との貿易まで、すべて幕府が独占してお金儲けをしたのです。この莫大なお金の力と強い軍隊で、江戸幕府は大きな権力を持ったのです。

さらに、幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと・・下の図)という大名への決まりをつくります。これは、勝手に城を修理してはいけないとか、大名同士の子どもを勝手に結婚させてはいけないなど、大名の力が大きくならないようにしたのです。

そして、3代将軍徳川家光(いえみつ)の時に、参勤交代(さんきんこうたい)がはじまります。大名は1年ごとに江戸と自分の領地を行き来し、奥さんと子どもは江戸に住まわせたのです。この制度の目的は、参勤交代で大名にお金をたくさん使わすことで、力を弱くすること。そして、奥さんと子どもは人質(ひちじち)です。よく考えた、すごいしくみですネ!

お疲れ様。では、復習問題をがんばってください!

復習問題

1.譜代を江戸の近いところに配置し、外様を遠いところに配置した理由をまとめてください。

以前は豊臣に仕えていた外様は、いつ裏切って江戸に攻めてくるか分からないので、江戸から遠いところに配置したのです。譜代はいつでも江戸を守ることができるように近いところに配置したのです。

2.武家諸法度を定めて目的をまとめてください。

この武家諸法度は、勝手に城を修理してはいけないとか、大名同士の子どもを勝手に結婚させてはいけないなど、幕府の知らないところで大名の力が大きくならないようにするためにつくったのです。

3.参勤交代の制度をつくった幕府のねらいをまとめてください。

大名は1年ごとに、江戸と自分の領地を行き来して住むのです。また、奥さんと子どもは江戸に住まわせた。この制度の目的は、参勤交代で大名にお金をたくさん使わすことで、力を弱くすること。そして、奥さんと子どもは人質として、幕府が監視したのです。

天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の合戦は、日本中のほとんどの武士たちがこの戦いに関わりました。石田三成軍と徳川家康軍の数は、いろいろな説がありはっきりは分かりませんが、とにかく戦いの前から家康さんは、石田三成側の武士に手紙を送ったりして、家康側につくように説得していたのです。しかも、家康が勝ったら、たくさんの領地をあげますよと、約束までしていたと言われています。家康さんの作戦勝ちでしょうね!

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第25回「関ヶ原の合戦と江戸幕府のしくみ」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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