中学歴史〜尊王攘夷と安政の大獄〜(自主学習用教材「こころの窓」第41回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第41回「尊王攘夷と安政の大獄」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

元気ですか。今日もがんばりましょうね!

今日のお題は「尊皇攘夷(そんのうじょうい)と安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

前の時間に勉強しましたが、日米修好通商条約が結ばれたために、治外法権を外国に認め、関税自主権もなくしてしまいました。そのために、日本は大混乱していったのです。そこで、悪い外国人を追い出せという攘夷(じょうい)という考え方が生まれてきました。また、こんな条約を結んだ幕府が悪いのだから、幕府を倒して新しい天皇中心の国をつくろうという尊皇(そんのう)という考え方も生まれてきました。この二つの考え方が結びついて尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)が始まったのです。

この運動は、幕府にとってはとても都合の悪いことだったので、そのとき幕府で力を持っていた大老(たいろう・・・将軍の次に身分の高い役)であった、井伊直弼(いいなおすけ・・・もと滋賀県の彦根のお殿様です)が、この運動に関わった人たちを次々と処罰(しょばつ・・・牢屋に入れたり処刑すること)しました。

なかでも、衝撃だったのが、長州藩(ちょうしゅうはん・・・山口県)出身の吉田松陰(よしだしょういん)が処刑されたのです。吉田松陰は、長州藩で松下村塾(しょうかそんじゅく)という学校をつくって、明治時代に活躍する伊藤博文(いとうひろぶみ)など、たくさんの有名な政治家を育てた人物です。この吉田松陰をはじめ、百人以上の人たちを処罰しました。この事件を安政の大獄(あんせいのたいごく)といいます。この事件は日本中に大きな衝撃を与えました。そのために、井伊直弼は、いろんな人たちから恨みを受けることになり、桜田門外の変が起こったのです。

1860年3月3日。ひな祭りの日でした。この日は、江戸城にはたくさんの大名が江戸城に向かう日でしたので、この行列を見るために、たくさんの見物人が集まっていました。小雪が舞う寒い朝、午前9時。井伊直弼を乗せた籠(かご)が、少数の護衛隊(ごえいたい)に囲まれて、桜田門から江戸城に入ろうとしました。すると、井伊直弼に恨みを持っていた水戸藩(みとはん・・・茨城県)の浪士(家来たちのこと)が、人混みに紛れて、直弼を殺そうと待ち構えていたのです。水戸の浪士たちは、直弼の籠が桜田門にさしかかったところで、いっきに襲いかかりました。はじめは護衛たちが次々と斬り殺され、その後すぐに、直弼が乗ったかごを刀でめった刺しにしたのです。雪で真っ白だった地面は、見ているまに、血で真っ赤に染まったそうです。こうして、彦根のお殿様であった井伊直弼は殺されたのです。幕府内でもっとも力を持っていた井伊直弼が殺されたことで、幕府の力はどんどんと弱くなっていくのです。

では、復習問題をがんばってください。

復習問題

1.尊皇攘夷とは、どんな考え方ですか、まとめてください。

日米修好通商条約が結ばれたために、治外法権を外国に認め、関税自主権もなくしてしまいました。そのために、日本は大混乱していったのです。そこで、悪い外国人を追い出せという攘夷という考え方が生まれてきました。また、こんな条約を結んだ幕府が悪いのだから、幕府を倒して新しい天皇中心の国をつくろうという尊皇という考え方も生まれてきました。この二つの考え方が結びついて尊皇攘夷という考え方が生まれました。

2.なぜ、井伊直弼は、尊皇攘夷運動をする人たちを処罰したのですか。この安政の大獄が行われた理由をまとめてください。

この尊皇攘夷運動は、幕府にとってはとても都合の悪いことだったので、そのとき幕府で力を持っていた大老であった井伊直弼が、この運動に関わった人たちを次々と処罰したのです。なかでも、衝撃だったのが、長州藩出身の吉田松陰が処刑されたことです。吉田松陰は、長州藩で松下村塾という学校をつくって、明治時代に活躍する伊藤博文など、たくさんの有名な政治家を育てた人物です。この吉田松陰をはじめ、百人以上の人たちを処罰したのです。しかし、この安政の大獄を行ったことで、たくさんの人々から恨まれ、1860年に井伊直弼は桜田門で、殺されてしまったのです。

井伊直弼さんは殺されてしまいましたが、直弼さんが結んでくれた日米修好通商条約のおかげで、日本は外国から攻撃されることなく、無事に明治という新しい時代を迎えるこができたという考え方もあるのですよ。

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第41回「尊王攘夷と安政の大獄」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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