中学歴史〜自由民権運動〜(自主学習用教材「こころの窓」第49回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第49回「自由民権運動」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

今日も一緒にがんばりましょう。

今日のお題は「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」です。

征韓論が認められず、一度は明治政府から去った板垣退助(いたがきたいすけ)でしたが、武力で政府に反対してもダメだと知り、政治のしくみを新しくすることで政治を正そうとしました。そこで、板垣は、国民が選んだ国会議員でつくる国会を、早く開設するように要求しました。これが自由民権運動のはじまりです。

なぜ、板垣が国会を開くことを要求したかというと、新しい明治政府といっても、ほとんどが幕末に活躍した薩摩藩と長州藩と土佐藩出身者で、いわゆる藩閥政治が行われていました。この藩閥政治に対して、他の藩出身者(他の都道府県出身者)が不満を持って反乱を起こったのです。そこで、この藩閥政治を改めるには国会を開設し、政治を行う人を全国から選挙で選べば、一部の藩出身者による政治でなくなると考えたのです。確かにその通りですネ。

板垣ははじめ、高知県で立志社(りっししゃ)というグループをつくって、仲間と共に自由民権運動を始めました。この運動に、士族だけでなく農民や商人たちも参加したために全国的な運動となり、国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)がつくられました。明治政府はこの運動や国会をつくれという要求をはじめは無視していましたが、北海道開拓のためにつくった官営工業を、国民にないしょで大商人に払い下げようとしたことが国民にばれたため、このことを自由民権運動者から追求され、仕方なく明治政府は国会を開設することを約束したのです。また、この時同時に政府は国会を開設するにあたって、どうしても必要であった憲法をつくることも約束しました。

さらに、国会が開かれることになると、自分たちの考えを多くの人たちに広めるために、同じ考えを持つ者同士が集まり政党(せいとう)がつくられました。その一つに、板垣退助がフランスの考え方の影響を受けた自由党が結成されました。この自由党は、士族や貧しい農民たちの幅広い支持を受けました。これに対してもう一つの政党が、大隈重信(おおくましげのぶ)によってつくられた立憲改進党(りっけんかいしんとう)です。この政党は、イギリスの議会政治の影響を受けたので、大地主や事業家に支持されました。こうして国会開設の準備が進められ、10年後の1890(明治23)年に国会は開設されるのです。

では、復習問題に挑戦してください。

復習問題

1.板垣退助らによる自由民権運動によって、国会が開設されるまでの流れをまとめてください。

政治のしくみを新しくすることで政治を正そうとしました。そこで、板垣は、国民が選んだ議員でつくる国会を早く開設するように要求しました。これが自由民権運動のはじまりです。なぜ、板垣が国会を開くことを要求したかというと、新しい明治政府といっても、ほとんどが幕末に活躍した薩摩藩と長州藩と土佐藩出身者で、いわゆる藩閥政治が行われていました。この藩閥政治に対して、他の藩出身者は不満を持って反乱を起こしました。そこで、この藩閥政治を改めるには国会を開設し、政治を行う人を選挙で全国から選べば、一部の藩出身者による政治でなくなると考えたのです。

そして、板垣ははじめ高知県で、立志社というグループをつくって、仲間と共に自由民権運動を始めました。この運動に、士族だけでなく農民や商人たちも参加したために全国的な運動となり、国会期成同盟がつくられました。明治政府はこの運動や国会をつくれという要求をはじめは無視していましたが、北海道開拓のためにつくった官営工業を、国民にないしょで大商人に払い下げようとしたことが国民にばれたため、このことを自由民権運動者から追求され、仕方なく明治政府は国会を開設することを約束したのです。また、この時同時に政府は国会を開設するにあたって、どうしても必要であった憲法をつくることも約束しました。

2.自由党や立憲改進党のような政党がつくられた目的とその特長についてまとめてください。

自分たちの考えを多くの人たちに広めるために、同じ考えを持つ者同士が集まり政党がつくられました。その一つに、板垣退助がフランスの考え方の影響を受けた自由党が結成されました。この自由党は、士族や貧しい農民たちの幅広い支持を受けました。これに対してもう一つの政党が、大隈重信によってつくられた立憲改進党です。この政党は、イギリスの議会政治の影響を受けたので、大地主や事業家に支持されました。その後も新しい政党がつくられていくのです。

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第49回「自由民権運動」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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