はじめに
「『海の命』を読み解く」は7つの記事からなるシリーズになっています。是非、下記リンク先の記事とともにお読みください。
① 並行読書(廃版「海鳴星」)
② 太一の前にいるクエは「お父を殺したクエ」なのか
③ クエ目線で考える【クエの無罪】
④ 「海の命」とは?
⑤ 「太一はなぜクエを殺さなかったのか」という謎
⑥ 太一は本当の一人前の漁師になれたのか
⑦ 「海の命たち」からのメッセージ
「海の命」は「一人の海」という題名の物語の短縮バージョンなのです。「海の命」の授業がしにくい原因は、「一人の海」を短くし過ぎたからなのではないかと私は考えています。できれば「海の命」と「一人の海」との関係が書かれた「① 並行読書」から順に読んでいただくと分かりやすいと思います。

本記事では引用文の末に【一人の海】または【海の命】、両方同じ場合は【一人の海&海の命】と記して、どちらの物語からの引用であるかを示すようにしています。
なおこのシリーズは、私の授業実践だけを元に書いているわけではなく、今までに見聞きしてきた授業や資料、教員仲間との対話を元にして書かれています。
唐突な流れ
「海の命」は「一人の海」を教科書用に短縮した作品なので、どうしても出来事が唐突に起こるように感じます。太一が父の死からクエを見つけるまで、「一人の海」ではけっこう紙数を割いていますが、教科書では大きな字で4ページ程度です。この短さがクエに出会う場面の唐突感につながっています。太一が夢を追い求めてきたからこそ不意に発見できたというように表現されているものの、「海の命」の読み手にとっては「不意」ではなく、「唐突」と感じられるのではないでしょうか。
さらに出会いの後、クエと対峙するクライマックスシーンについては、おそらく、多くの読者(教師も子供も)が違和感を抱いてしまうと思います。このシーンはたった450字程度で描かれています。この短かさが、様々な謎と混乱を噴出させます。どう考えればいいのか?あるいはどう考えてもいいのか?
もし、「クエがお父の化身」であると明らかに分かる記述があれば話は早いです。例えば、クエがお父として
「太一、久しぶりだな。立派な漁師に成長したじゃないか。」
などと太一に話しかけるシーンがあれば、ファンタジーとして「クエ=お父」が確定となるので、太一がお父を殺す必要はなくなります。はっきり答えが分かります。ところが、
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。【一人の海&海の命】
と、あくまでクエを殺さない理由として自分の中で「クエ=お父」と思おうとしただけ(思ったわけではない)なので、クエを殺さなかった理由は他にあるはずです。立松和平は敢えて「クエ=お父』をファンタジーとして確定する描き方を避けたのではないかと私は思います・・・。おそらく、クエは象徴的に「海の命」という存在として描かれているのだと思います。つまりクエは「海の命」であり、同時に「海の命」は「お父」でもあり、「小魚などの海の生き物」でもあり、「海全体」でもあり、「与吉爺」さんでもあるのだろうと思います。
「海の命」はファンタジー作品としてとらえればいいのか、それともリアリズム作品としてとらえればいいのか?それによってずいぶんと作品全体への考え方が変わってきます。それがはっきりとは分からない所が私の「海の命」に対して釈然としない所なのかも知れません。
子供の疑問
子供が疑問を持つ点を挙げてみます。
A. 「興奮していながら、太一は冷静だった」
B.太一が出会った大魚を、「村一番のもぐり漁師だった父を破った瀬の主なのかもしれない」と考える所→→→太一は「父を破った瀬の主なのかもしれない」と推測しているだけなのに、いつの間にかそれが前提であるかのように話が進む。
C. 太一が「この大魚は自分に殺されたがっているのだ」と思う所。
D. 太一が唐突にクエに微笑む。
E. 太一がクエをお父だと思ったのか、唐突にクエに「おとう、ここにおられたのですか。」と語りかける所。
F. 「太一は瀬の主を殺さないで済んだのだ。」という言い回し。
クライマックスシーンは個々の文だけではなく、全体的に謎です。こうした疑問に対して、「行間を読んで想像せよ、理解せよ」と言うのでしょうか。私は「海の命」に対して数年間、行間を読む努力を放棄していました。この教材が卒業式を迎えた時期に配置されているため、私にはこの謎多き話に時間をつぎ込む余力もありませんでした。推論が難しく、作者か太一自身に聞いてみなければ分からないことばかりです。初見から30年近くをへて、今、一生懸命読んでいます(笑)。これらの疑問点にひとつずつ述べてみます(あくまで「私の見解」です)。
太一はなぜクエを殺さなかったのか?
A. 「興奮していながら、太一は冷静だった」
この一文だけでも、何人かの子供は太一の心の状態が理解できず、混乱しているようでした。
冷静になれたのは、
「美しい海に抱かれていること」「クエの威厳のある態度」「太一の成長」
によるものだろうと大人なら思えるのでしょうが・・・。
「一人の海」では、太一が冷静になる過程をけっこう詳しく描いています。
父が見た魚を、自分もまた見ているのだ。興奮していながら、太一は冷静だった。これが自分の追い求めてきた幻の魚、村一番の潜り漁師だった父を殺した瀬の主かもしれない。 たぶんそうに違いない。太一は鼻先に向かって錆を突き出すのだが 、クエは動こうとしい。かつて自分が殺した漁師の息子にその身を捧げようとでもしているのかもしれない。 魚の目に見られているうちに、太一は自分が殺意もなく静かな気持ちでいることに気づいた。魚はまるで太一の心の底までのぞいているかのようである。殺意ははじめからなかったのか、それとも魚の視線によって溶かされてしまったのか、すでに太一にはわからなかった。そうしたままで時間が過ぎた。太一は永遠にここにいられるような気さえしてきた。しかし、息が苦しくなってまた浮かんでいく。【一人の海】
※青マーカー色の文字の部分が【一人の海&海の命】
教科書の「海の命」はずいぶん省略されているのが分かります。「一人の海では」「殺意ははじめからなかった」とまで書かれているのです。「魚はまるで太一の心の底までのぞいているかのよう」と、クエの神性についての記述もあります(クエの神性については④の記事をご参照ください)。後述する
激情が去ると、静かな気持ちになった。【一人の海】
につながる記述になっていると思います。
B.太一が出会った大魚を、父を破ったクエだと決めつける所→→→最初は「父を破った瀬の主なのかもしれない」と表現しているのに、いつの間にかそれが前提のように話が進む。
上記の引用部分で「一人の海」では「たぶんそうに違いない。」という一文があります。この件については、シリーズの「② 太一の前にいるクエは「お父を殺したクエ」なのか」で触れていますので、そちらをお読みください。
C. 太一が「この大魚は自分に殺されたがっているのだ」と思う所。
殺されたがっていると思った約160文字後に、
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。大魚はこの海の命だと思えた。【海の命】
と、太一は「殺さないですんだ」と考えています。このスピードにちょっと私はついていけません。唐突と言うか、豹変と言うか。
単純に考えれば、太一が「この大魚は自分に殺されたがっている」と思ったのは、文章に書いてある範囲では「あまりにクエがじっとして動かないから」というのが正解でしょう。
しかしその後で、「こんな感情になったのは初めてだ」と書かれているように、じっとしているクエに心のどこかを深揺さぶられたことが分かります。太一はクエのおだやかな目と対峙しながら殺すか殺すまいか葛藤しています。「A」の所で引用した中に
魚の目に見られているうちに、太一は自分が殺意もなく静かな気持ちでいることに気づいた。【一人の海】
と、太一の気持ちは変わっていきます。殺すか殺すまいかと考えていると同時に、自分の中に殺意がなくなっていることにも気がつきます。もしかすると③の記事で書いた「クエの無罪」についても理解し始めていたのかも知れません。自分の殺意が揺らいでいる所に、クエの存在感・神秘性を目の当たりにし、太一の中に「これまでにない感情」が湧きだしてきたのでしょう。「湧き出した」というより、「引き込まれた」のかも知れません。「一人の海」のショートバージョンである「海の命」だけでは、こうした細かい太一の心情の揺れを読み取ることは難しいと思います。
太一は自分の中で起こってくる自分の心の変化に混乱をして「泣きそうになりながら」も、だんだんと海(クエ)の見え方が変わっていくのを見ていたのでしょう。「殺されたがっている」と思ったあたりから、「クエ=父の敵」が「クエ=海の命」へとだんだん気持ちが変化していったのだと思います。
D. 太一が唐突にクエに微笑む。
太一がクエに対して
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから」【一人の海&海の命】
と、呼びかけるシーンは特に唐突に映ってしまいます。「海の命」では太一が殺すか殺すまいかと葛藤していたことが読み取りにくいですし、それがどう太一の中で決着したのかもわかりにくいです。実は「一人の海」ではこうなっています。
もう一度戻ってきても瀬の主はまったく動こうとせずに太一を見ていた。穏やかな目だった。もし言葉が交わせるのなら、太一はこの魚に問いてみたいことがたくさんある。クエは瞳を固定して太一を見ていた。あまりの無防備さに、この大魚が自分に殺されたがっているのだと太一は思ったほどだった。太一はこれまで数えるのも不可能なほどの数の魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのは初めてだ。この魚を獲らなければ本当の一人前の漁師にはなれないのだと、太一は泣きそうな気分になりながら思う。激情が去ると、静かな気持ちになった。
水の中で太一はふっと微笑み、口から銀のあぶくをだした。銛の刃先を足の方にどけ、魚に向かってもう一度笑顔をつくった。
「お父、ここにおられたとですか。また会いに来ますばい」
こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。大きなクエはこの海の命だと思えた。父の海だった。【一人の海】
「海の命」と同じ部分に色を付けています。教科書(海の命)が「激情が去ると、静かな気持ちになった。」を端折っているのが最も驚きでした。この一文があると「太一の葛藤は相当なものだったのだな」「でもその葛藤(≒激情)もクエの神性を目の当たりにして消えたのだな」となんとか読み取れます。「海の命」では読み手の知らぬうちに、いつの間にか葛藤は終わっていて、唐突に太一が謎に微笑む流れになってしまいます。
「一人の海」で「激情が去ると、静かな気持ちになった。」と記述されていてさえ、太一の心が急に変わったように思えて、違和感があります。教科書(海の命)でこの一文を端折った意図がよく分からないです。読み手として設定されている小学6年生がそんなに行間を読むでしょうか。ただでさえ短いバージョン(海の命)は性急に話を進んでいる感じがするのに、クライマックスシーンでさらにポイントとなる一文を削ってしまうのはどうかと思います。
もし「一人の海」をこうして短くし過ぎて何だか分かりにくいクライマックスシーンを補うのであれば、子供の頭の中でこのシーンをゆっくり進めてみるように促すのもいいかも知れません。
【発問】太一が「泣きそうになりながら思う」時に、心の中で過去を想い出しているとすると、どんなシーンを思い出しているでしょう。アニメの回想シーンみたいに考えてみてください。
と、子供たちに問いかけてみるのもいいかも知れません。もし私なら、「海の命」をアニメ化するならば。・・・
◎ 父と幼い太一がいっしょにいるシーン
◎ 母の涙・心配顔
◎ 初めての漁に出た時(修行の場面)
◎ 与吉爺さんの言葉や背中
◎ 海の神秘的な美しさ
◎ クエがお父にもりを突き刺されて血を流しながら痛がるシーン
◎ クエの子供時代の回想・・・海の仲間たちと戯れるシーン
◎ 手負いのクエを心配するクエの家族
を等を織り込もうと思います。そういったイメージを思い浮かべることで、「海の命」で太一がクエと対峙する早送りのようなシーンを少しスローに読み込むことができるかも知れません。
もしかすると、太一はこのクエに微笑むシーンではもう「クエの無罪」に気が付いたのではないかと思います。もしそうならば、太一が「ふっと微笑」んだのは「今まで自分は何を勘違いして敵討ちしようと興奮していたのか」と、勇んでいた愚かな自分を笑ったのかも知れないですね。同時に「偉大なる海の命(クエ、父)」にも微笑みかけたのではないかと私は考えています。
自然の摂理 ~海で死ぬという事
E. 太一がクエをお父だと思ったのか、唐突にクエに「おとう、ここにおられたのですか。」と語りかける所。
F. 「太一は瀬の主を殺さないで済んだのだ。」という言い回し。
「お父、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。【一人の海&海の命】
なぜクエをお父と思おうとしたのでしょうか。どこかぎこちない表現です。
もうこの時点では太一は「クエの無罪」を理解すると同時に瀬の主としてのクエの「神性」にも惹かれていたのでしょう。「激情が去った」後には「クエ=海の命」であるという想いが強くなっていく一方で、自然の摂理の中で亡くなった父も海の命に含まれていることに気づき、その象徴である「クエ」を殺すことを回避しようと考えているのでしょう。
お父は海で生き、海で亡くなることによって「海の命」と一体化したのだと、太一(≒立松和平)は考えているのではないかと思います。お父の死は海での命のやり取りという自然の摂理の中での出来事です。だから「おとう、ここにおられたのですか。」となるのでしょう。美しい海には生も死も内包されていると考えているのでしょう。
「一人の海」には、父の死に対する母の言葉として、下のような記述が2か所あります。
「あんな幸せな男はないばい。今ではクエになって海ん底ば泳いでいるんじゃないだろうかねえ」
あの事故があってから、母は何度も同じことを言った。父の死をまわりの人に納得させてまわっているような言い方だった。納得させたかったのは自分自身であったろう。母も父から誇り高い生き方を受け継いでいたのだ。【一人の海】
「漁師は海で死ぬのがなんばゆうても幸福ばい。母親の胸ばだかれるこつある。」
父の遺骸を前にして母親が言った言葉が太一には鮮明に印象に残っていた。それ以来、二度と父は太一の前に姿を見せなかったのであるが、太一は父が海に抱かれているのだと考えると少しは気持ちを落ち着かせることができたのだ。【一人の海】
「海の命」では上記2つの母の言葉は省略されています。
母の「今ではクエになって海ん底ば泳いでいる」という言葉は、多分、クライマックスで太一がクエに「お父、ここにおられたのですか。」と話しかけたシーンのフラグになっているのではないかと思います。太一自身も海で死ねるなら満足と考えていたのです。「一人の海」では太一がクエに出会う前に下のように考えている場面があります。
海で生き始めた太一は同時に死を考え始めた。海には生命があふれ返っていたが、同時にそこは死の世界でもあったのだ。もし海で死ねるのなら満足であった。それが太一にとっては一人の海で生きることである。【一人の海】
省略されているこの辺りの情報があれば、A~Fで示した部分に対する違和感が少し和らぎませんか。ところが「海の命」ではこれらの想いを行間を読んで考えるしかないのです。大人なら、「多分そういう事なのではないかなあ」と考えられるかもしれませんが、子供がそこまで推論する事を期待するには無理があるように思います。
「一人の海」では母や与吉爺さとの対話、死んだお父との対話、自分自身の海での経験の積み重ね、そして神性を帯びたクエとの出会いを経てクライマックスに至る過程が詳しく描かれています。それらを読んでやっと太一の心の中で「クエ=海の命=お父」の等式が成り立っていることが理解できるのではないかと思います。
また、「一人の海」ではお父の名前は「太助」なのです。そして、お父が死んだ瀬は「父の海」「太助瀬」と呼ばれています。父と海との一体化が示されていると思います。つまり、「一人の海」での立松和平は「太助瀬の主=クエ」と表現しているということにもなります。さらに太一の中で、「太助瀬の主=クエ=お父(太助)」とつながってゆきます。
単行本「海鳴星」は3つの物語が掲載されていて、1話目が「海鳴星」、2話目が「一人の海」、3話目が「父の海」なのです。「父の海」でも主人公の父が海で命を落としてしまいます。3つの話は人物や場所の設定が違う話ですが、おそらく、立松和平の頭の中で、「海鳴星」収録の3つの物語はそれぞれが関連し合っているのだと思います。
NEXT!
本記事ではクライマックスシーンで太一がなぜクエを殺さなかったのかについて書いてみました。書き終わって再度自分の記事を読み返してもまだモヤモヤは残りますが・・・
次の記事では本記事を踏まえた上で、「太一と父」というテーマについて考えてみたいと思います。


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