はじめに
「『海の命』を読み解く」は7つの記事からなるシリーズになっています。是非、下記リンク先の記事とともにお読みください。
① 並行読書(廃版「海鳴星」)
② 太一の前にいるクエは「お父を殺したクエ」なのか
③ クエ目線で考える【クエの無罪】
④ 「海の命」とは?
⑤ 「太一はなぜクエを殺さなかったのか」という謎
⑥ 太一は本当の一人前の漁師になれたのか
⑦ 「海の命たち」からのメッセージ
「海の命」は「一人の海」という題名の物語の短縮バージョンなのです。「海の命」の授業がしにくい原因は、「一人の海」を短くし過ぎたからなのではないかと私は考えています。できれば「海の命」と「一人の海」との関係が書かれた「① 並行読書」」から順に読んでいただくと分かりやすいと思います。

本記事では引用文の末に【一人の海】または【海の命】、両方同じ場合は【一人の海&海の命】と記して、どちらの物語からの引用であるかを示すようにしています。
なおこのシリーズは、私の授業実践だけを元に書いているわけではなく、今までに見聞きしてきた授業や資料、教員仲間との対話を元にして書かれています。
太一が「クエに対して『お父』と呼び掛けたこと」に関しては、前の記事に書いていますので、下記リンクをご参照ください。

一人前の漁師になる、父を超える
男にとって、父を超えることは大きなテーマです。この物語が書かれた1990年代前半は、私が本稿を書いている「ジェンダーフリーな令和の時代」に比べるとまだまだ父権が強かった時代です。男性には「男らしさ」が求められ、「男らしさ」の規範は父親が示すものでした。
「男にとって」「1990年代前半」ではなくても、子供にとって「どのように親を超えるのか」ということはいつの時代も大きなテーマだと思います。光村図書の国語教科書が6年生の最後の物語文に「海の命」を持ってきたのは、子供たちが親離れをして「親を超え始める」時期にこの物語を読んで欲しいという思惑もあるのかも知れません。
「海の命」では、漁師になろうとする太一に対して母は心配だけしています。しかし「一人の海」では、最終的に母は太一が一人前の漁師となったことを認め、お弁当を作って文句も言わずに送り出すように変わっていきます。母は太一が海に惹かれていくことが心配でもあり、歓びでもあったことが分かります。太一も母も、心が揺れながら成長をしているのです。
はっきりした年齢は書かれていないですが、「子供の頃」にお父を失くした太一が悲しい思い・寂しい思いをしたことは違いありません。それでも、クエに対する復讐心を抱きながら父と同じ漁師となり大人への道をのぼってゆきます。太一にとって、クエを仕留めることは復讐であると同時にお父を超えることであったのでしょう。クエと対峙するシーンでは
この魚をとらなければ、本当の一人前の漁師にはなれないのだと、太一は泣きそうになりながら思う。【一人の海&海の命】
と書かれています。
それなのに太一は、やっと出会えたクエを仕留めませんでした。
「本当の一人前の漁師」と「村一番の漁師」は同じか?
そこで、次の発問を投げかけました。
【発問】太一はクエを殺さなかったのに、「本当の一人前の漁師」になれなかったのでしょうか?
すると、勘のいい子供は次のように答えます。
【子供】「最後に『村一番の漁師であり続けた』と書いているので一人前になれたと思う。
確かに「村一番の漁師であり続けた」と書いてあります。では太一は「村一番の漁師」ではあるけれど、村一番は「一人前の漁師」とイコールなのでしょうか。太一は父に追いつくことはできたのでしょうか。
【発問】「本当の一人前の漁師」は「村一番の漁師」と同じ意味なのでしょうか?
この発問をすると子供も考え疲れて応答する気力がなくなってきます。立松和平がなぜ表現を変えたのか、私も確信があるわけではありません。「村一番」は「本当の一人前」よりワンランク低いと考える子供も出てくるかもしれません。「本当の一人前にはなれなかったけど、村では一番だった」と。そちらの意見に流されると何か、変な方向に話が言ってしまいます。上の発問は、悪手かも知れません。
太一の価値観の変化
クライマックスシーンの途中までは父の仇のクエを仕留めることが漁師・太一の目的でした。しかし、与作爺さんと出会い、母の想いを知り、海で過ごし、父の声を聴きながら太一は成長していきます(「一人の海」にはより詳しく太一の成長が描かれています)。そして神性を帯びたクエと遭遇して対峙しながら、太一の中で「本当の一人前の漁師」に対する考え方が変わったのではないかと私は考えています。クエの無罪、クエが象徴する自然の厳かさを悟り、「クエ=海の命」と変わったのです。葛藤を経て、海の命たちを無闇に殺生することのない漁師になること(=海と共に生きること)こそが漁師として大切であると、太一は悟ったのではないかと思います。そこで、
【発問】クライマックスシーンで太一の考えは変わったようですが、太一の考えが変わったと思われる場所はどこだと思いますか。
と、問うてみると、「水の中で太一はふっと微笑み」や「お父、ここにおられたとですか。」という所が出てきます(本当は、⑤の記事で言及した「激情が去ると、静かな気持ちになった。」の削除された部分だと思います)。この流れで、
【発問】「水の中で太一はふっと微笑み」で太一の「本当の一人前の漁師になるには父の仇を取ってクエをしてめること」という考えが変わったなら、太一にとって「本当の一人前の漁師」はどんな漁師に変わったのでしょう。
と、やや誘導(だまし)発問を投げかけてみると、「無闇に殺さない」「命を大切にする」「海と共に生きる」「相手を赦す」などの意見が出てくると思います。薄氷を踏むような授業になってしまいますが・・・。子供があまり違和感を持たず、共感を得られるように進めてください。
もしかすると、じっとして動かない「クエ=お父」は、「俺を超えていくなら超えていけ。さあ、殺すのもよし、殺さぬのもよし。」と、穏やかな目をして太一に問いかけていたと読み取れないこともないかも知れません。太一は、試されているのです。だからこそ、太一は激情にかられ、泣きそうになるのです。
「クエ=父=海の命」に対して、敢えて父と同じようにクエ(大物)を獲ることを漁師のアイデンティティとしない「新しい漁師としての自分」がいることに「激情が去ると、静かな気持ちになった」(「一人の海」)状態の太一は本当に気が付いたのではないかと思います。だからこそ、笑ったのではないでしょうか。つまり太一は父とは違う道を歩き始めたのです。
「漁師として海と共に生き(=海の命となり)、海に死ぬことは本望である。父の死も本望であったのだ。自分にとって大切なのは殺生(敵討ち)ではない。」と悟ったのが、このクライマックスシーンだったのではないかと思うのです。ある意味では太一は父の仇のクエ殺すのを止めたことで、父を超えたのかも知れません。
NEXT!
本記事は「海の命」のクライマックスシーンについて考えてみましたが、あくまでこれは私なりの考えです。いろいろな考え方が出来そうです。
次の記事ではオープンエンドの形で授業を閉じることについて提案します。


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