大村はま氏について~日本の国語教育のパイオニア

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プロフィール

大村はま(1906~2005年)

1906(明治39)年、横浜生まれ。日本の国語教育のパイオニア。
新渡戸稲造名誉学長、安井哲学長時代の東京女子大学に学ぶ。
戦前・戦後を通じて52年間、一現場教師の職にありつづけ、退職後も日本の教育の進路を見守り続けた。


↑「東京女子大の卒業時、新渡戸稲造名誉学長と。大村は後列左から5番目。」

2005年4月17日、98歳をもって逝去。
戦前教育の求道心と技、戦後教育の民主性・合理性をあわせ持ち、常に実践をもって提案し続けた膨大な指導の工夫やてびは、全集「大村はま 国語教室」に結実。豊かに展開された単元学習は、今日の「総合的学習」や評価観、日本語重視の流れにも、明確な原点と方向性を与えている。
晩年も車椅子で、全国の教育現場を行脚。
その生涯は、国語教育者としての意味合いをはるかに超えて、学び続けるすべての人々にとっての確かな指針となっている。

目次

1 大村の現代教育への業績

教師が「教えるということ」の価値を、再び示した

ゆとり教育の時代、子どもの「個性」の尊重ということが叫ばれた。いわゆる「新学力 観」を唱える人々が、教育学者や経済界などにも増え、「教師は子どもを“支援”すべきであって、“指導”すべきではない」ということが言われた。これに対して、「教えるということ」の著者・大村は、実践者の立場から異議を唱えた。


↑「研究授業を体育館で発表。“実践をもって提案する”が、大村のモットー。」

教師はプロ、子どもはあくまで子ども。教師は自らの手引きや範をもって、子どもを“ 指導”すべきというのが大村の考えである。「個性なんてものは、大村はまさんがいじ ったくらいでは変わりません。神様がくださったものですから」と、大村は言った。こ うした大村の姿勢は、その後の学力観の再転換にも、明らかな影響を及ぼした。

話し合い、話し言葉というものの重要性を示した~

日本人を先の戦争へと導いた一因は、日本人の話し合い下手さ、話し合い教育の拙さに あると、大村は考えていた。そこで大村は戦後、国語教育学者の西尾実、倉澤栄吉らと ともに「話しことばの会」に参加し、教室での「話し合い」教育の指導に心血を注いだ。

後に説明する大村の「単元学習」は、緻密な「評価」に基づいた「グループ指導」をも 重視していたが、そうした意味で「単元学習」は、戦後民主主義教育の「話し合い」教 育の課題も背負っていたのである。
「話し合いの教育は、今日でもまだ成功しているとは言えなくて、それは会社での会議 や国会での話し合いを見ていてもわかるでしょ?」と、晩年の大村は語った。今日、文 部科学省の鈴木副大臣らが提唱している「熟議」の発案もまた、こうした大村の抱いて いた課題と、無縁ではないように思われる。

「評価」ということの真の意味を示した~

「戦後の教育の中で、評価という言葉の意味の取り違えほど大きなものはないように思 われる」と大村はよく語った。もともとそれは、戦後、占領下の教育を統轄したCIE(アメリカ教育省)のオズボーンが言ったように、「子供にとっては、自らの学習を振り返り、次の学習への指針を得ること。教師にとっては、自らの指導を振り返り、次の指導への指針を得ること」というのが、本来の意味のはず。それが、戦後の経済社会の発展に伴って、次第に「点数」「成績」「偏差値」のようなものへと傾斜していったと、大村は語った。
教育における「評価」とは、「評定」のように固定的なもの、あるいは経済的な指標のようなものとは異なる。それは、極めて流動的で多面的なもの、生徒も、教師も、次の向上に向かって、優劣を忘れるほどに邁進し、フィードバックを行い続けている状態だと、大村は考えていた。
大村が生涯、一貫してその教育姿勢の根底に持っていた「優劣のかなたに」や「学びひたり、教えひたる」という思想は、こうした「評価」観の文脈からも理解されなくてはならない。

国語教育をひとつの体系として示した

自身の実践を提案する者は、ともすると、目覚ましい各論、方法論に終始しがちだが、大村はまがその全集や随想を含めた生涯の仕事で示したものとは、ひとつの全体性や体系というものの姿である。自身の実践を時間的にも空間的にも系統だったものとして考え、その系統的な意味を“読み”、将来の研究への展開を“読み”、ひとつの全人性として提案する。そういう意味では、大村の全仕事は、本当の意味での“読解力”に基づく仕事なのである。

最晩年まで、教師というものの仕事を行動によって示した

「研究者であることは、教師であることの資格である」と大村は述べたが、大村は決して理論の人ではなかった。学者や研究者の論も大事ではあるが、「論より証拠」というリアリズムが大村には常にあり、目の前の子どもにどう生きるかが第一であった。そうした意味では、彼女はあくまで実践の人、経験の人である。
一例としては、大村は最新の教育機器にも極めて強い関心を示し、戦後授業にテープレコーダーを取り入れた最初の一人であり、また当時まだ相当高価であったポータブルレコーダーも真っ先に購入して、国語の教材取材を試みた。これは、セロハンテープ、ハトメなどの、当時最新の文具を取り入れ、教室の学習を楽しく豊かにしたことなどにも現れている。


↑「生徒自身の学習記録から、大村は生涯学び続けた。」

晩年、97歳の大村はまは、支援型のホームで暮らしながら、なおも頭の中で教材の開発を考えていた。そうした日々、パソコンを購入してインターネットができないかと、編集者に持ちかけた。緑内障を患い、夜更かしをホームから禁止されていたので、それは叶わなかったが、ある日、ポータブルタイプのものを持ち込み、仕組みだけを説明すると、「今、国語の教師がこれを使って授業をどんどん考えなければ、言葉は変だけど、ちょっと卑怯だと思うわ」と語った。行動の人・大村独特の表現である。

また、亡くなるまでの1年間の講演数と全国行脚の距離は、その年齢の老人の仕事としては、脅威的なものであった。

「言語活動」に中心を置く、新学習指導要領にも指針を与えた

「総合的な学習」が世に現れた時、大村はそれをある種の「単元学習」だと見なした。
なぜなら、教師を中心として(時には子どもも含めて)、オリジナルな教材が取材され開発されるというそのあり方は、まず「単元学習」に通じていたからだ。また、それを「話し合い」によって深め、多くの資料や本を読み、その学習を豊かな語彙を含む言葉で記録していくのならば、そうした学習は、大村が生涯をかけて磨いて来た「単元学習」とも無縁ではないように思われたからだ。

ただ、「総合的な学習」が現れた当初から、大村は次の2点を「総合的な学習」の弱点として指摘していた。一つ目は、それが「体験」を重視するあまり「言語」への視点が希薄になること。もう一つは、子どもの「個性」や「思いつき」を重視するあまり、教師のプロとしての指導の視点や、教材開発上の「評価眼」が薄れるということの2点である。


↑「晩年の講演における大村はま(96歳)」

これは実は、小学校では2011年度から実施される「新学習指導要領」に言う「言語活用力」では、クリアされている問題であるように思われる。なぜなら、新学習指導要では、国語はもちろん、「総合的な学習」も含めたすべての教科において、横断的に「言語活用」に関する視点が重要視されているからだ。

時代がようやく、大村はまの視点に近づいて来たと言えるかもしれない。

大村はまの著書

◆主著

「教えるということ」(共文社、ちくま新書)

大村はまが、富山での講演会で新任教師に語りかけた言葉をもとに、推敲を重ねて仕上げた名著。教師の仕事とは何か?教えるということとは何か?どういうことが教師らしい判断なのか?などについて、自身の実践をもとに具体的に語られている。
教師になろうという人は必読。

全集「大村はま 国語教室」(筑摩書房)

全15巻+別巻1からなる全集で、国語教師としての大村はまの仕事の集大成。 国語教育のあらゆるジャンルが体系的にまとめられていて、一つの教科というものは、どのように実践され、研究され、記録されるべきものなのかということが学べる。固い研究書ではなく、あくまで具体的な実践記録の全集としてもユニーク。合間合間に挿入されたエピソードにも、実践者ならではの真実があふれ、共感が持てる。

◆その他、お薦めの本

「教師大村はま96歳の仕事」(小学館)

入門書としては、「教えるということ」とともにお薦め。96歳となった晩年の大村の精力的な活動がルポされている。

「灯し続けることば」(小学館)

~アンソロジー集。52年の現場経験と晩年の活動に根ざした金言・名言があふれていて、忙しい教師には打ってつけ。

「学びひたりて」(共文社)

珍しい大村自身による自叙伝。「教えるということ」を出版した共文社に保存されていた遺稿を、大村の没後に出版。学ぶこと、教えることに一生を捧げた大村の肉声が聞けるようだ。

「教えることの復権」(ちくま新書)

~長く大村のもとにあった教え子・苅谷夏子と夫君で教育学者の苅谷剛彦(オックスフ ォード大学教授)との共著。大村の業績が、新世代の視点から分析され、後世に語り伝えられる。

「優劣のかなたに」(筑摩書房)

教え子・苅谷夏子が、大村の60の言葉をもとに語る一つの随聞記。「優劣のかなたに」を目指す人間大村はまの理想が、身近にいた者の視点から説き明かされる。

「忘れえぬことば」(小学館)

白寿記念講演会での記録。大村が生涯で出会った、恩師や肉親からの5つの“忘れえぬことば”について語られている。付録のDVDは、晩年の大村の講演姿が見られて貴重。絶筆の詩「優劣のかなたに」を含む。

◆本格的に読みたい方に

「22年目の返信」(小学館)

大村の全集に寄せられた、心理学者・波多野完治の16通の手紙に、大村が波多野の没後、語りの形で返信を返した貴重な記録。戦前・戦後の日本の教育文化の余香が随  所に感じられる。研究所としても貴重。

「かけがえなきこの教室に集う」(小学館)

1985年に出版された小学館・「総合教育技術」10月号増刊の白寿記念復刻。
大村教室の国語教育文化の高さが、教育上の知人や教え子の言葉の中に満ちあふれてい る。藤原正彦、苅谷剛彦、林公、陰山英男など、大村に学ぶ多くの人々の言葉も寄せられている。

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