1 はじめに
本記事は、岡篤先生のメルマガ「教師の基礎技術~俳句実践~893号~899号」から引用・加筆させていただいたものです。
イメージ化の力を養うために俳句の鑑賞を行うことが一つの手段としてあります。俳句の鑑賞でどのようにしてイメージを膨らませていくのかを紹介しています。
岡篤先生のメルマガはこちらを参照ください。→http://archive.mag2.com/0001346435/index.htm
2 実践内容
俳句でイメージをするためには
俳句実践の応用として鑑賞文があります。私が今、一番関心がある「イメージ化」とも関係が深い実践です。イメージ化とは物語の情景や登場人物をイメージすることです。これはイメージを膨らませる基礎であるため、俳句実践を行うことが読み取りに繋がります。私が言う俳句の鑑賞文とは、ある俳句について子どもたちが自分なりのイメージを広げて想像し、それを文章にするというものです。私は、子どもたちに、「イメージが広がるものがよい俳句」と言っています。イメージを広げるためには
- 五七五
- 季語
- 具体的な表現
が有効とも言っています。
■俳句を鑑賞する
よい俳句はイメージが広がります。次の俳句は、私が所属している「鷹」の句会に出されていたものです。
恋多き中(なか)姉ちゃんの初鼓
この句会には、134人が2句ずつ出していました。一般会員はその中から1句ずつ選びます。
俳句は短い作品だけに読み手に委ねられている部分が大きいとも言えます。読み手の語彙や体験、性格、好み、などで読んで広がるイメージも違ってきます。
■私の鑑賞
私の鑑賞は以下のようなものでした。
まず、「恋多き中姉ちゃん」で様々なイメージが広がりました。「恋多き」ということは、失恋も一目惚れも多かったはずです。作者がその妹とすると、中姉ちゃんは新しい出会いがあった度に家族に喜び勇んで、あるいは自慢げに話したに違いありません。ときには振り回され、ときには共に一喜一憂したことでしょう。そこに「初鼓」という季語が使われています。この季語でイメージはさらに広がります。
■季語を使ってイメージを膨らませる
上五中七もイメージが広がりますが、それに季語の初鼓が加わり、更に情景が豊かに見えてきます。「初」なので、新年です。「鼓」を打つのですから、お祭りのようなお祝いのような場面でしょうか。恋多き中姉ちゃんが法被を着て太鼓を打っている姿が浮かびます。
季語はただ季節を表すだけでなく、効果的に配合することでかけ算の働きを促します。中姉ちゃんは一心に太鼓を打っています。しかし、「恋多き」ゆえに経験してきた様々な思いがこもっての太鼓でもあります。以上のようなことを私は勝手に想像しました。作者がどういう設定で作られたのかは分かりません。ただ、私にとっては、わずか五七五にすぎないこの俳句がまるで小説を読んでいるかのようです。この鑑賞を授業に取り入れてみるのもおすすめです。
鑑賞文とは
俳句を読んでイメージを広げ、それを文章にしたものを私は「鑑賞文」と呼んでいます。鑑賞文は個性的な作品が出てくるので、読むのが楽しみです。想像部分が大きいだけに、その子の体験や個性がそこに表れるからでしょう。
■鑑賞文を書かせるための指導
例えば、
柿食えば鐘がなるなり法隆寺
という俳句で鑑賞文を書いたとします。ただ、「思ったことを書いてみましょう」と言うだけではほとんどイメージは広がりません。「柿を食べていたら鐘がなった」というようなものがたくさん出てきます。せいぜい、「ゴーンと鳴った」「静かな寺に鐘の音が響いた」という程度です。
■想像力の自己規制
俳句を読んでイメージを広げられない理由に、イメージ化の力が弱いことが考えられます。さらにその前に、「こんなことまで想像しては広げすぎではないか」「どこにもそんなことは書いていないから」といった自己規制を無意識のうちにしているということがあります。
いくら、「もっと想像を広げて」「自由に思ったことを書いてもいいんだよ」と言っても、なかなかこの自己規制を取り払うことはできません。そこで、私は最初の鑑賞文を書かせる際にいつもある文章を読ませることにします。これを一読すると子どもの自己規制が一気に取り払われるのです。
■水原秋桜子の鑑賞
想像力に自己規制をしてしまっているので、それを取り払うために、俳人の鑑賞を読ませます。少し長くなりますが、水原秋桜子『近代の秀句』朝日選書より、引用します。
その頃の法隆寺は今のように参詣者が多かったわけでは無く、門前の茶店もさびしいものであったことと想像される。作者はかねてから拝みたいとおもっていた国宝仏の数々を拝み、満足した気持ちでこの茶店に腰をおろした。折から秋も深く、熟柿がたくさんあったので、それを喰い、かつ渋茶をすすりつつ休んでいると、不意に法隆寺の鐘が鳴り始めた。築地から正門にかけて立ちこめている夕靄をふるわせて、つづけて撞かれる鐘の余韻は静かに静かにひろがってゆく。作者は手にした柿を忘れ、しみじみとその音に聞き入った。そうしてほとんど何の苦もなしに、口をついてこの句が出たことであろうと想像される。
作者が満足したかどうかなんてどこにも書いていません。築地(ついじ)や夕靄(ゆうもや)も「そんな具体的なもの出していいの」と思われた方もいるかもしれません。俳句の鑑賞、あるいは俳句とはこういうものです。短い詩だけに、そのリズムや言葉通りの響きにより想像を広げることが許され、求められます。
■印象を強くもたせてイメージ化
俳句をしている方であれば、水原秋桜子はご存知かと思います。子どもに分かりやすい言い方をするのであれば「有名な俳人です」となります。そんな有名な俳人がこの俳句を読むとこんなに想像を広げられます。
私が何度も「もっと想像を広げて良いよ」というより、この水原秋桜子の鑑賞を読ませる方が効果があります。「全然書いてないことまで自分で想像していいの」と強烈な印象を残します。この後に「想像を広げて鑑賞してみましょう」というと、子どもたちの想像は広がります。
3 執筆者プロフィール
岡 篤(おか あつし)先生
1964年生まれ。神戸市立小学校教諭。「学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会(略称学力研)」会員。硬筆書写と漢字、俳句の実践に力を入れている。(2017年9月19日時点のものです)
4 書籍のご紹介
『読み書き計算を豊かな学力へ』2000年
『書きの力を確実につける』2002年
『これならできる!漢字指導法』2002年
『字源・さかのぼりくり返しの漢字指導法』2008年
『教室俳句で言語活動を活性化する』2010年
5 編集後記
この記事では俳句の鑑賞のなかでどのようにしてイメージを膨らませていくかについて紹介されていました。確かに引用されていた文を紹介されてから鑑賞するかしないかでは大きく質が異なると思います。是非俳句の授業の際は用いてみてはいかがでしょうか。
(文責・編集 EDUPEDIA編集部 福山浩平)
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