1 「応援力」について語る時の学級通信例です。
通算2255枚目の通信(綺羅星)より抜粋
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担任したクラスで、毎年話していることがある。
「命のバトン」、「節を生かす」、「ことだまの話」、「プロの物の扱い方」、「スイッチをオンにする」、「3つの脳」などなど、内容は様々である。
その中に、「応援力」の話がある。
クラスがスタートしてから、およそ数か月。
少しずつクラスの団結が高まってきた頃にする話だ。
概ね、次のように話を切り出している。
初めに、一冊の本を書架から取り出す。
パラパラとページを繰り、その中の一節をおもむろに読み始める。
僕は、趣味で山登りをするんだけど、山登りって途中でものすごくつらくなって前に進めなくなることがある。
そんな時、どうすればいいか知ってる?
出典は、『16歳の教科書2』(講談社新書 2009)
レストランサイゼリヤの創業者である、正垣泰彦氏の話である。
この問いを、クラスで投げかける。
一歩も前に進めないほどしんどい時、どうすればよいか。
子どもたちは次々に答え始める。
「一休みする。」
「荷物を持ってもらう。」
「杖を使う。」
様々な答えが考えられるだろう。
今年は、3年生の時に担任した子が半分いる為、話を覚えている子が結構数いた。
1年以上前に聞いた話を覚えていることが、実に素晴らしい。
では、答えは何なのだろうか。
次ページを見る前に、ぜひ予想していただきたい。
答えは「誰かの荷物を持ってあげる」こと。
自分だって、もう一歩も動けないくらいきついんだよ?頭はボーッとするし、呼吸は苦しいし、足も震えている。だけど、そこであえて誰か苦しそうにしている人の荷物を持ってあげるんだ。
不思議なものでね、こうすると力が湧いてくるんだよ。自分のどこにこんな力が残ってたんだ?というくらいスイスイ登れるようになる。(中略)
人間って不思議な生き物でね、「自分のため」だけじゃ力が出ないんだよ。
子どもたちは、シーンとなって聞いていた。
覚えていた子も、初めて聞いた子も、真剣な表情だった。
これは、日常の「応援」にも同じことが言える。
応援は、される側だけに意味があるのではない。
応援は、する側の力にもなるのである。
ある方の講演の中でも、次のような話を聞いた。
(※( )内は、教室で話したときに補足として付け加えた。)
人間の体は本当によくできていて、もし仮に人間の体のパーツや機能をコンピュータでお金に換算するとしたら、10億円を超えるそうです。
けれども、私たちは自分の声を自分の耳で正確に聞くことができません。(テープで自らの声を聞くと変な感じがするのはその為です。)
器用な手を持っているのに、自分の髪の毛は上手に切ることができません。(先生の奥さんも10年美容師を続けていますが、自分の髪だけは上手に切ることが出来ません。)
こんなに良い目を持っているのに、鏡を使わなければ自分の顔すら見ることができません。
人間の体は、これほど素晴らしく作られているにもかかわらず、「自分のため」に使うにはあまりに不便です。
ということは、もともとこの体というのは、「人のため」に使わせてもらうように作られているのではないかと思うんです。
友だちを応援したり助けたりと、「人のため」に動く人は、力の出方が違う。
そして、成長の度合いも劇的に大きくなる。
だからこそ、「応援力のあるクラスは伸びていく」のだと思う。
5−1でも、応援力が伸びてきたなぁと感じる場面が増えてきた。
そうした瞬間を一つずつ取り上げ、褒め、共有しつつ、互いに助け合い、高め合えるクラスを目指していきたいと思う。
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