いじめ・不登校のメカニズム その2

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その1より

いじめ・不登校のメカニズム その1 | EDUPEDIA

厳罰主義では・・・

いじめについての研究や提言は多くの「いじめを許さない」人たちの努力で、なされています。わたしも、本格的に取り組みはじめてからは、この成果から学んできました。しかし、その多くは、いじめを固定的なもの、運命的なもの、本能的なものとしてとらえられている場合が多いことに驚かされました。ざっくりした言い方で申し訳ないのですが、そういうふうに捉えると、そこから出てくるものは「厳罰主義」になるのです。「いじめに加担した者を厳重に罰して二度といじめを起こさないようにする。」という考え方です。世間的には多大な支持を得ています。

わたしはこの考えに大いなる違和感を感じてしまいます。多分、これはいじめに関しての「本人の経験値」からくるものではないかと思うのですね。わたしも、娘もいじめを克服していくなかで、自分自身のなかの「いじめる心」に気づき、成長してきたのです。「いじめは許さないけれど、人を許す」ということでしょうか。

いじめ被害者の遺族である小森美登里さんもご著書のなかで同じようなことを書いてくれています。

スクールカーストという言葉に思うこと

最近、学校などでの人間関係をあらわすのに「スクールカースト」という言葉を目にします。何冊かの書籍をひもときましたが、とうていわたしには受け容れることのできない概念であると感じました。まず、カーストという言葉自体が今も現存している差別的な身分制を表しているということです。時には「名誉殺人」などという非人間的な事件も起こっているほどなのです。それを学校での人間関係にあてはめることの違和感。さらには、身分制に例えることにより、客観的・主観的に関係性を固定化して見てしまうという過ちに陥ってしまいます。「二度と抜け出せない上下関係」とでもいうのでしょうか。仮に「カースト」が入れかわるというのであれば、あえてこの言葉を使う必要はないのです。「いじめ」と「スクールカースト」は全く別のものなのですが、いじめの本質である「多様な力関係の優位性を利用した攻撃により、いやだと感じる」ということには大いに関係してきます。教育に真摯に取り組む姿勢からは、この言葉は出てきません。一歩譲って、社会学的な観察的見地や、いじめに対しての絶望感から生まれてくるものであるとすれば、多少は理解できますが・・。わたしは、絶対に使うことはないでしょう。

いじめの四層構造

森田洋司氏が調査研究を基礎にして1990年代に提唱した「いじめの四層構造」という考え方により、現場におけるいじめに対する理解が進みました。当時、いじめが何であるかすら定かではなかったのです。東京でのSHさんの事件を約20年間追い続けた豊田充氏は、SHさんのケースが見事にこの「四層構造」をあらわしていたことに驚くというほどでした。いじめは、「被害者・加害者・観衆・傍観者」という形であらわれ、傍観者の中から生まれるいじめに対して否定的意識をもつ「仲裁者」が、いじめを止めたり、抑止したりします。従って「仲裁者」をいかに多く育てていくかということが教育における課題であるということなのです。森田洋司氏は後に、この「仲裁者」を育てる教育が「市民性教育(シチズンシップ教育)」であると語っておられます。わたくしは、この論に共感して、さらにいじめへの理解が深まりました。そして、疑問が浮かんだのです。

「仲裁者とはどんな人なのだろう?」

「止めるとはどういうことなのだろう?」

「仲裁者」とは? 「止める」とは? ①)

本日2月14日は、松江市立第一中学校のガイダンスプログラム発表会。今から、朝食を食べて一中さんでスタンバイします。昨日は、鹿嶋真弓先生を迎えて前泊の夜の会。夜の会第2部で鹿嶋先生と少し熱い議論をしました。人間関係づくりの授業のこれからについてです。よかったです。

さて、昨日の話の続きですが、「仲裁者」とはいじめを「止める」人であったとすると、いじめが渦巻く中で、そういう人間が存在するのか?という疑問です。現に、わたしはいじめを止めに入ったことにより、いじめの報復を受けました。わたしは三年生になって克服することができたのですが、不思議とされた人間に対して、「謝ってほしい」とか「仕返しをしてやろう」などという気持ちにはなりませんでした。それは、自分自身、学校生活が楽しくなったし、満足できたからだと思うのです。もし、そうでなければ、復讐心や絶望感のようなものを今でも持っていたかもしれません。卒業間近になり、二年生の時に、あらわにわたしの事を言っていた女子がわたしに、こう言いました。「深美君、明るくなったね。」って。その時、わたしは、「こんなものなのか・・・」と、少しずっこけてしまいました。
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「仲裁者」とは? 「止める」とは? ②

わたしは、いじめを受けた女の子から「深美君、明るくなったね」と言われた時、いじめ体験のことをほじくりかえして、「ごめん」って謝ってほしいとは思いませんでした。なぜなら、楽しかったからです。3年生の学級は、何でも自分たちで決めて、全員で実行してました。教室をきれいにしよう!ってなって土足厳禁にしたら、美術の先生が上履き忘れて教室に入れなかったりとか、校区に隣接している工業地帯のでかい煙突から、突然、夜でも昼間みたいな炎が吹き出したときに、家々をまわって署名を集めて、その経験をもとにして弁論大会で優勝したり、何かあると、教室を借りて、クラス会を開いたりしてました。卒業間際まで、学級全員運動場で「たんてい」や「缶蹴り」をして遊んでいました。とにかくみんなが楽しかったのです。もし、いじめがあったら、誰かが止めていたでしょうし、先生に相談していたと思います。2年生と3年生の学級では、天と地ほどの違いがありました。いじめなんかありませんでした。そんな学級は自分たちの学級だけだったのです。

一昨日の研究発表会の講師である鹿嶋真弓先生は、こうおっしゃっていました。

「人と人とがつながっている学級には、いじめが入り込む隙間がない。」と。

「仲裁者」とは? 「止める」とは? ③

さて、話をもとにもどします。「仲裁者」とはどんな人か、いじめを「止める」とはどうすることか、です。関係性が閉ざされている集団の中では「仲裁者」は強い個でないと不可能なのですが、一人ひとりがつながっている関係性が保証された集団の中では、多くの人間が「仲裁者」になることができるということなのです。そして、「止める」とは、一時的な現象面を終息させるだけではなく、いじめ加害者に対して復讐心を抱いたり、いじめに対する絶望感を感じない人間力を、だれもが持つことができる状態にすることであると言えます。もちろん、いじめ解決の課程において加害者が反省し、被害者に「謝る」ということは必要ではあるのですが、決してそこが着地点ではありません。むしろ、対等平等な関係性を構築していくスタート地点であるということなのです。いじめの局面においては、教師自らが「いじめを止める仲裁者」を担うことが当たり前なのですが、教師という仕事は、いじめが起こりえない関係性の構築への支援と、子どもたちがこれから遭遇するであろう困難を克服し、将来への夢を実現することができる人間力というものを身につけていくための支援をしなければならないのです。結局は、教師自体がそういう人であり、それができる人に成長しなければならないということでしょう。

その3へつづく
いじめ・不登校のメカニズム その3 不登校をどう見立てるか | EDUPEDIA

Facebook:深美隆司

に書いた記事をまとめています。

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いじめ・不登校のメカニズム その2 | EDUPEDIA

いじめ・不登校のメカニズム その3 不登校をどう見立てるか | EDUPEDIA

いじめ・不登校のメカニズム その4 いじめ・不登校の根っこ | EDUPEDIA

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図書文化社HP http://www.toshobunka.co.jp/books/detail.php?isbn=ISBN978-4-8100-3636-7
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