校内暴力とは何だったのか ~1980年代教育暗黒史

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目次

あの混沌は何だったのか?

1970年代末期から1980年代にかけて中学校(及び一部高校)に吹き荒れた校内暴力の嵐は本当にすさまじかったです。人(しかも中学生)がこれほどまでに醜く変わってしまうことには心底驚きましたし、恐怖を感じました。私自身は中学生としてかなり荒れた状況を見てきていますが、対教師暴力がある状況は見ていません。子供同士の暴力はあったものの(突然わけもなく殴られることが何度かありました)、自分たち以前の生徒集団の中には「タバコは吸うが先生に反抗したいわけではない(男子の7~8割は喫煙していたのでは・・・)」「先生に迷惑をかけてはいけない」という不文律があったように思います。

私が中学校を卒業して間もない時期に対教師暴力・生徒間暴力が頻発し非行(と言うより犯罪行為)が表立ってまかり通るようになりました。悪いことはコソコソとやるべきだという感覚が失われ、白昼、衆目を集めながら、堂々と犯罪行為が繰り返される事態となっていきました。戦場と化した学校の渦中にいたのは私の2つ下の学年(昭和40年生まれ)以降です(校内暴力は全国多発同時的に広がりましたが、地域差、学校差があります)。私が見た重篤な校内暴力は生徒としてではなく、教師として見た校内暴力です。1980年代の学校で何が起こっていたのかを、見聞を元にレポートしておきたいと思います。

その前に、「仮面ライダースナック事件」について述べてみたいと思います。私の中では「1980年代の中学校校内暴力」と「仮面ライダースナック事件」はつながっており、「仮面ライダースナック事件」は校内暴力の頻発の予兆であったように思えています。

仮面ライダースナック事件

一袋20円か30円で売られていた「仮面ライダースナック」にオマケとしてついていた仮面ライダーのカードが爆発的な人気となりました。それまでに流行っていたメンコにとって代わって、小学生はカードの収集に躍起になりました。
ウィキペディアから引用してみます。

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「仮面ライダースナック」の売上げは、1972年2月には1日100万袋を越え、最終的にはカルビー社内のメモによると15か月間で6億2000万袋に達した。平均すると当時の男子児童1人あたり、85袋購入した計算になる。金額換算で約87億円を売り上げたとする資料もある。
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メンコが単体で売られていたのに対して、仮面ライダーカードはスナックを買わなくては集めることができませんでした。最初のうちはスナックがおいしかったのですが、味にはだんだん飽きがきます。そのうちカードの収集が主目的となり、スナックは不要なオマケとなってしまいました。

一度に5個から10個の仮面ライダースナックを購入する者も現れてきて、スナックは破棄される憂き目にあうようになりました。それもゴミ箱に捨てられるならまだよかったのですが、公園でポイ捨てされ、それを踏んづけて遊ぶのが流行っていました。踏みつぶされて中身がはみ出たスナックの袋が夕刻の公園に散乱していた異様な光景は、今でも目に焼き付いています。全国で同時多発的に同様の状況が起こり、社会問題として新聞報道されていたのも覚えています。

私はあまりお小遣いをもらっていなかったので仮面ライダースナックを買えませんでした(当時小学校2年生ぐらいだったでしょうか)。私の親は戦争を体験しており、飢餓状態に陥った経験があるため、食べ物やお金を粗末にするとひどく怒られました。私にはスナックをたくさん買うことも、買ったスナックを公園に捨てることもできませんでした。

勝手な推論ですが、「私の2つ下の学年から校内暴力が全国で多発同時的に吹き荒れ始めた」ことと、「全国的に展開された仮面ライダースナック破棄事件」の間には相関があると私は思っています。

おそらく戦後経済が発展して社会が裕福になったことと、親に戦争(≒飢餓・物資の不足)を経験していない(経験していても記憶にない)世代が増えてきたことが仮面ライダースナック破棄事件と校内暴力の両方に少なからず影響していたのではないかと思います。

校内暴力の実態

校内暴力がどんな状況であったのかなどとても一言で語れるものではありません。詳細を書き始めると大変な長さになってしまいます。露悪趣味ではありませんが、書かねばならない、伝えねばならないと思うので、かなり際どい内容も含めて箇条書きで列挙することにします。すべて自分で見たわけではなく、友人の中学校教師・報道から得た情報もあることを断っておきます。また、地域によって程度の差・発生頻度の差はかなりあったのではないかと思います。

● 教師が殴られた、蹴りを入れられ骨折した、土下座させられたなどは枚挙にいとまがない。暴言やいやがらせ、暴行は日常茶飯事であった。
● 生徒間のいじめも悲惨を極めた。虫や排泄物を食わされるようなこともあった。・・・「いじめ自殺」でネット検索すると詳細がわかる。
● 職員室の机の上を中学生が走り回っていた。
● 校長室のソファーで生徒がタバコを吸っていた。校長は側にいて黙認(せざるを得ない状況)。
● 夜間に学校に侵入し、全ての窓ガラスを壊して回した。(尾崎豊「卒業」にもその様子が描写されています)
● 教室の壁を蹴りまくる、壁に机椅子をぶつけるを繰り返し、とうとう隣の教室と貫通した。
● 「中学生が窃盗したバイクを乗り回していた」「それで学校に乗り付けた」というのはよくある話だった。「信号待ちで停車していた車のガラスを破壊し、ドアロックを外して運転手を引きずり下ろし、車を窃盗し運転した。」という案件も。
● シンナーを吸って窃盗車に乗り、学校の周りを暴走した。
● 授業中の教室で花火をしていた。
● 授業中の教室で焼き肉をしていた。
● 生徒が教師に刺された。・・・「忠生中学生徒刺傷事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 教師が生徒に刺殺された。・・・「栃木女性教師刺殺事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 生徒が生徒を惨殺した。・・・「女子高生コンクリート詰め殺人事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 不純異性交遊の横行。・・・修学旅行の宿舎で女子が男子を部屋に呼んで売春行為をした(男子のお土産代を巻き上げた)。修学旅行でなくても普通に男女が乱交状態に至る学校は少なくなかった。
● ある女性教諭は出勤前に時間をかけてピチピチのジーンズをはいた。ピチピチな上にチャックの部分がボタンになったものを選んだので、止めるのにたいへん時間がかかったという。何故そんなものをはいたのか。それは、(集団)暴行に遭った時にすぐには脱がすことができないように自衛していたのである。脱がされる前に誰かが職員室に通報してくれるかもしれないという「淡い期待」を持ってのことだったそうだ。「生徒−生徒間」「生徒−教師間」の性的暴行は性質上表に出にくい犯罪であり、闇に葬られて実態はつかみにくい。
● 酒たばこシンナー、クスリの濫用。
● これらの違法行為・犯罪行為の多くが一般社会のルールにのっとって警察沙汰として処理される事が少なく、放置されてしまう結果となった。器物が壊され、暴行を受けても被害者(学校・教師・生徒)が泣き寝入りする事が多かった。泣き寝入りをしてしまう事が結果的に荒れる生徒たちに足元を見られる結果となり、校内暴力を助長させた。

一般社会では逮捕されるだろうと思われるような行為でさえまかり通っている状況で、授業や集団生活を成り立たせることは至難の業です。法律ですら守られていない状況で、法律ではない校則をはじめとしたローカルルールを守らせることは、非常に難しいのです。学校は無法地帯と化しました。

ローカルルール(校則)を守らせるという困難 ~学校・教師と懲戒権 | EDUPEDIA

→→→1990年代になってからは犯罪行為に関しては学校側が被害届を出すようになってきて、これは一定の歯止めとなっていると思います。

言い方が悪いかもしれませんが、荒れている児童生徒たちの目つき・顔つきは、獣のように見えてしまうことがあります。ブレーキが利かなくなり、人が人でなくなってしまうことの恐ろしさ。
校内暴力において人が人でなくなってしまう状況は、戦争に似ていると思います。戦争も伝えていかねばならない出来事の一つです。それについては下↓の記事で述べていますので、是非ご参照ください。

教育現場で戦争を伝える難しさ ~太平洋戦争アーカイブ | EDUPEDIA

中学校教師として見た光景

私は中学校から要請されて、心労と過労で倒れた先生の代替教員として荒れた現場に着任しました。1時間目(教師として初めての授業)、チャイムが鳴って教室に入っても教室は騒然としており、着席をさせるまでにかなり時間がかかりました。何人かの生徒がいない上に、廊下がまだ騒然としていました。教室の戸を開けて廊下を覗いてみるとまだ10人ぐらいの生徒がたむろして騒いでいたため「教室に入りなさい」と注意すると、「シバクドォ」と、食ってかかられました。「シバクドォ」が私が教師になって初めて子供から声をかけられた言葉です。一触即発の空気でしたが、向こうも様子を見ている感じなのでひとまずそこは引いて授業を始めました。生徒たちは勝手なおしゃべりをして時に立ち歩き、指示に従う者は数名。授業は全くコントロールが効かない状況でした。

そこの中学校で同僚となったM先生は私の中学校時代の恩師で、8年ぶりぐらいにお会いすることができました。授業がたいへん楽しくてお上手で情がある先生でした。私にとってM先生は「教師のモデル」の一人であり、尊敬していました。ベテランになっても授業に行く前、休み時間に職員室で教科書のこれから教えるページを一生懸命に見ておられる姿を見て、再び尊敬の念を強めました。しかし、聞くところによると、その中学校ではM先生の授業も全く成り立たない状況だったようです。M先生は苦々しい顔で私に「これでもずいぶん・・・かなりましな状態になったんだよ。以前は・・・」と、語ってくれました。
「そうか、これでもましになったのか」と思っていたら、赴任して1日目に先輩教師が生徒に顔面を殴られました。生徒が大きな指輪をしていたため、ひどい出血でした。

それが初日の話です。その後もあまりにも酷く(M先生によると「ましな状態」ということなのだが)、目を覆いたくなるような出来事が起こる毎日でした。3学期の終業式までの約5か月間、本当に毎日学園ドラマか映画の中にいるような気分でした(それでもまだ対教師暴力は少なくなっていた時期で、「かなりましだ」ということでした)。
起こったことの全てを書き記すと一冊の本になるぐらいの分量があります。
強烈だった一件を、書き記しておきます。

身長が180cmを超える生徒Sが金属バットを振り回しながら廊下を歩き、次々と両側のガラスを壊していく場面が今も目に焼き付いてます。止めに入った教師たちに「どけ、殺すどぉ」とSは金属バットを振り上げました。中堅の女性教員、K先生が彼に「S!!また少年院に戻りたいのかぁ!」と言い放った決死の姿。それを聞いて真っ赤な顔で、振りかざしたバットを握りしめながら泣き出した身長180cmのS。二人の姿は、絶対に忘れてはならぬと思っています。K先生が「S!!また少年院に戻りたいのかぁ!」と立ちはだかった姿は、脅しではなく慈悲としてSの心に響いたのだと思います。K先生がSとの間に培ってきた信頼感が彼を思いとどまらせたのであろうと推測しています。

無力感

結局、そこの中学校には年度終わりまで5カ月ほど勤めましたが、自分にできる事はほとんどありませんでした。若かったので、はじめのうちは自分にも何かできる事はないのかと必死に考えていました。「何か俺にもできることがないのか、誰か、指示をしてくれ」と思っていました。

ある日、教頭から呼び出されたので「やっと俺にも出番が!何の仕事を与えてくれるのかな?」と期待して校長室に入りましが、指示をされたのは、「朝早く来て、校庭、校舎の周りに落ちているタバコの吸い殻を拾って回ってくれ」でした。あまりにも些末な作業を命じられたことに少々がっかりしました。

次の日からそれが日課となりました。毎朝、無力感に苛まれ、下を向きながら吸い殻を拾いました。吸い殻でバケツはすぐにいっぱいになりました。なぜ不良生徒(不良という呼び方は人格否定のようであまり好きではありません。でも、当時の雰囲気をお伝えするために、敢えて「不良」を使います。)は授業についていけないのにわざわざ学校に登校してきて、わざわざ仲間同士で煙草を吸って吸い殻を捨てていくのか。注意をされたら逆上するのに、注意をされるようなことを学校でやり続けるのか。「『不良』と切り捨てる教師」と、「切り捨てられるようなことをさんざんやっておいて切り捨てられると寂しがる(そして寂しさを暴力へと変換する)不良たち」。小学校レベルの簡単な計算もできず、小学校レベルの漢字も読めない生徒たちに一体、何をしてあげることができるのか。当時の自分にできるのは、煙草の吸殻を拾いながら自問自答を繰り返す程度のことでした。

ある日のこと、顧問をしていたクラブ(毎日ほとんどの部員が欠席する)のキャプテン(まともではないが少し真面目)がいっしょに吸い殻を拾ってくれたこともよく思い出します。悲しげな顔で拾った煙草の吸殻を私に差し出してくれました。惨めな顧問の姿に少し同情してくれたのでしょう。その生徒に対して、私は申し訳なさを感じながら「ありがとうな」と言ってあげる事しかできませんでした。不良生徒にも何もしてあげることができませんでしたが、やる気のある生徒・まともに学校生活を送りたいと思っている生徒もまた救うことができない自分の無力さを痛感しました。「完敗だったな」というのが、教師となって1校目の感想です。
この敗北感は教師として忘れてはならない事のひとつであると今も心に留めています。

あれから30年以上経った今でも、学校でゴミが落ちていれば必ず拾うことは習慣になっています。

救い

結局、その中学校に在籍した5カ月間はほとんど何もできずに過ぎました。授業は毎回うまくいかず、何一つ生徒を成長させたという実感がありません。まさに無力でした。しかし、少しだけ、救いを感じる事もありました。

その中学校は何と私の母校であったので、男子の不良のナンバー2の生徒の兄は私の同窓生でした。兄もかなりやんちゃだったのですが、小学校の終わりから中学校にかけて逆転現象が起こっていじめられていました。私はその兄をいじめから守ってあげたことがありました。ナンバー2の生徒は、私がナンバー1(前述のSです)の生徒に胸ぐらをつかまれ、殴られそうになった時に「おい、そいつ(私のことです)はやめとけ」と助けてくれました。兄から「手出しをするな」という命を受けていたそうです。まさに「情けは人の為ならず」でした。

またある日、3年女子不良女子のナンバー1が私の授業(生徒が経ち歩き、騒ぎまくって騒乱状態でした)に乱入してきて「おい、お前らこの先生(私)には逆らうんじゃないよ!先生の言う事聞けよ!」と本気で脅してくれたこともありました。それで教室の騒乱はずいぶん収まりました。

この2件の出来事はどん底の中でせめてもの救いでした。自分はなるべくどんな生徒であっても彼らの側にも立ってみて、彼らをできるだけありのままに受け入れるように接しました。若かった私には、(君らは教師に逆らって無茶苦茶をしているけど、俺は決して君らを敵とは思っていない。むしろ、救済されるべき弱者だ。)という想いがありました。この想いが荒れている彼ら、彼女らに少しは伝わっていたのだと思います。このことが「自分の教師としての目的は、弱者救済だ。そこに焦点を合わせよう。」と考えるようになったきっかけでもあります。

TVの罪(社会の罪)

校内暴力が同時多発的に全国津々浦々まで広がった原因はとても複雑です。学校だけに原因があるわけではないことは明らかです。学校だけに原因があるなら、あのように同時多発的な広がり方はしないはずです。社会の罪も大きいと思います。1975年半ば以降、ロッキード事件を始めとする不正がまかり通る世相が学校に影響していたと思います。江川卓の巨人入団時の際の揉め事(1978年)も、社会への不信感を煽ったニュースの一つでした。「弱者は置き去り、強ければそれでいい」「法に引っかからなければ、バレなければそれでいい」という風潮が強まっていったと感じています。どこか戦時下と似ている気がします。

社会の罪の中でもとりわけ大きく児童生徒に影響したのが、「TV(メディア)の罪」ではないかと私は考えています。放送してはならぬものを全国津々浦々まで放送してしまったTVの罪。何故下記のような番組が放映されてしまったのか、甚だ疑問です。列挙してみます。

● ダウンタウンブギウギバンドの「スモーキン・ブギ(1974年)」→→→ 子供ながらに驚きました。こんな歌詞「授業をサボって喫茶店で(タバコを)一服」が堂々と放送されてよいのかと思いました。
● 横浜銀蝿の「ツッパリHigh School Rock’n Roll登校編(1981年)」→→→ 「今日も元気にドカン(違反とされる学生服)を決めたら ヨーラン(違反とされる学生服)背負って リーゼント(違反とされる髪型)」という日常を描写した歌詞がヒットチャートをにぎわしていました。
● 3年B組金八先生の第2シリーズ(1980年)→→→ 酷かったです。第24話は中学生(沖田浩之・直江喜一)が放送室を占拠します。バリケードを築いて立てこもります。警察が出動、立てこもりを主導した2人は手錠をかけられ逮捕されます。しかしながら、逮捕騒動を起こした2人は担任(武田鉄矢)の除名嘆願で学校に復帰、感動的な卒業を迎えることができます。・・・このストーリーは、「自分たちが主張したいことが正しいと思えるなら、どんな手法を採っても押し通してしまえばよい」「先生がまともならついていく、まともでなければどんな方法を使って反抗してもよい」という身勝手な論法を子供たちに植え付けてしまったのではないかと思います。誤学習をさせてしまった。女子高生コンクリート詰め殺人事件(1988年)の犯人は収監されたのちに「金八先生みたいな先生がいてくれればよかった。」と言っていたそうです。金八シリーズは「まともな先生(親)がいないから自分達は非行・犯罪に走っているのだ」という子供たちの責任転嫁の思考回路を育んでしまったように感じています。
● 欽ちゃんのドンとやってみよう!(欽ドン)(1985年)→→→ 「赤信号みんなで渡れば怖くない」の作者は、ビートたけしであるかのように言われていますが、そうではなかったと記憶しています。萩本欽一が視聴者からの手紙に書かれていたこの一句を広めていました。こんな標語のパロディが公共の電波に乗せられて一気に広がることには当時、大変違和感をおぼえました。
● お笑いブームで漫才ブーム(1980年前後?)→→→ 1980年代に入り、漫才ブームに火が付きます。人を茶化すこと、小馬鹿にすることが常態化していきます。真面目なことを言う者や弱者を馬鹿にして、面白いことを言わないと「暗い(ネクラ)」と排除されるようになっていきます。「8時だよ全員集合」(ドリフターズ)が「欽ドン」(萩本欽一)に追い落とされ、「欽ドン」が「オレたちひょうきん族」(ビートたけし・明石家さんま)に追い落とされる格好となり、「オレたちひょうきん族」は「みなさんのおかげです」(とんねるず)に追い落とされた感があります。より「毒」が強くなる形でお笑いが世間を席巻していった印象があります。詳しくは、↓リンク先に譲ります。

何を「笑ってはいけない」のか?線引きを! ~クラスの「笑いの質」をコントロールする(2) | EDUPEDIA

● 尾崎豊「卒業」(1985年)→→→ 「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」と歌われています。「信じられぬ大人との争いの中で」やってしまったことのようですが、抗議の方法が間違っています。何をしようと勝手だし、何を言おうと勝手だとは思います。しかし、「人に迷惑をかけない範囲で」という大原則を踏み外してはなりません。「人に迷惑をかけている者」に免罪符を与えてはなりません。
● はいすくーる落書き(1989年)→→→ 「3年B組金八先生の第3シリーズ(1988年)」は不良の味方金八先生の「浪花節的なノリ」が世間に受け入れられなくなり、初めて卒業式シーンまで放映されずに12回で打ち切られました。世の中がどんどんドライになってゆきます。「3年B組金八先生」の入れ替わりで始まったのが斉藤由貴を主演にして新しい感覚の学園ドラマとして登場したのが「はいすくーる落書き」です。金八先生に比べてより軽薄でより刺激的な路線であったと思います。ウィキペディアによると第1話が『先生、もんでやるぜ!』、最終回は『いづみちゃんが先公ならオレは更生する』となっています。タイトルだけでもこのドラマがより刺激的であることによって受けを狙っていたとが分かります。最終回のタイトルはまさに「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の被告生徒の理屈です。生徒の身勝手な論理に寄り添うことで受けを狙ったのでしょう。番組が流行った時期に私は中学校現場にいました。明らかに子供たちの様子がおかしくなっていった時期と重なっています。中学校の教室で生徒たちがこの番組の主題歌「TRAIN-TRAIN」(ブルーハーツ)を歌って盛り上がっていたのが印象に残っています。この番組のパート2が放映されていた1990年には、私が勤めていた中学校(郊外にある中学校で1989年まではそこそこ落ち着いていた)は市内で最も荒れた中学校となりました。都市部で顕著だった校内暴力は1980年代末には一時的に鎮静化していました。ところが、1990年に入って、それまで荒れなかった郊外ののほほんとした学校へと延焼していきます。TVの影響力は確実にあったと思っています。

1980年代を中心にざっと自分の心に留まっている「メディアのお笑い化・軽薄化」について触れてみました(個人の感想です)。語りだすととめどないのでこれくらいでやめますが、メディアの迷走と暴走が校内暴力に与えた影響、罪深さは計り知れないと思います。

教育の罪

校内暴力の背景には、間違いなく「学校の罪」「日本の教育の罪」が存在していると思います。(前述したように金八先生の悪影響は大きいと思いますが)確かに、金八先生第2シリーズが指摘していたことは相当的を射ていたのでしょう。例えば、「金八先生」では現場の「落ちこぼれの切り捨て」を「腐ったミカンの方程式」と表現して批判していました。「腐ったミカンから健常なミカンへの伝染を阻止するために、腐ったミカンは排除すべし」といった懲罰的な考えに、教育現場は陥りやすいです。大学受験を頂点とする日本の教育の「レッテル貼りの論理」「排除の論理」は子供たちばかりに責任を負わせる酷いシステムです。

「落ちこぼれたのは自己責任」と言わんばかりの教師の態度はかなり改められてきたと思いますが、今もなお続いています。児童生徒が勝手に落ちこぼれたのだと教師が他責にしているのを、自責(落ちこぼし)であると認識しない限り、学校教育の改革は難しいでしょう。どうすれば「落ちこぼし」を救済できるのか、システムを作り出すことは日本の教育の最大の課題のひとつだと思います。ここで詳しく書くと長くなるので、下のリンクをご参照ください。

学力保障 ~学校の荒れを防ぐための最優先事項 | EDUPEDIA

総括的評価から形成評価へ重心を移す | EDUPEDIA

1980年代に校内暴力が吹き荒れた背景は、多方面からの指摘があり、一言で説明がつく話ではありません。早い学校では1975年あたりには相当荒れ始めていたと言われます。複合的な要因が絡んで徐々に広がりを見せていた現象が、1980年代に入って一気に爆発したのではないかと思われます。小学校でのコントロールが徐々に効かなくなってきた1970年代の状況が、中学校の凄まじい荒れに結び付いたとも考えられます。前述した通り、仮面ライダースナック事件(1972年)は中学校の大荒れに繋がっている「予兆」であったと思います。複雑に絡まり合う「教育の罪・社会の罪」を丁寧に紐解いてゆかねばなりません。

継承されにくくなっていく記憶と記録

以上、私の記憶にもとづいた所感を述べてきました。
世代論で考えると、「戦争を知らない子供たち」世代がすっかり学生になった時点で大学における学園紛争が起こっています(1969年がピーク?)。そして、「戦争を知らない子供たち(戦後生まれの子供たち及び、戦時中生まれであっても幼かったので十分に戦争について分かっていなかった年齢の子供たちも含む)の子供たち」の比率が高まったことが、中学校における校内暴力が起こった誘因となったのではないかと考えています。ついでに言うと、小学校の学級崩壊が顕著になったのは、校内暴力世代の親の比率が高まった時期から(1997年頃~)です。学校は児童生徒学生やその保護者の変化、そして時代の変化に対処しきれなかったのだと思います。小学校の学級崩壊も、川の堤防が決壊するような形で同時多発的に学校がクラッシュしたようなイメージがあります。これに対して、中学校が小学校の学級崩壊が盛んであった時代に大崩れしなかったのは、1980年代に過酷な経験をしたことによって、危機管理体制が整えられていたからだと思います。

私は学者ではないので統計的なデータに基づいてこれらの現象を説明し、確かな原因を示すことはできません。また、図書館やネットで当時の様子を調べようとしても、具体的な内容にアクセスすることは今や難しくなってきています。特に校内暴力に関する書籍は図書館では書庫に眠っています。廃版となってしまってネット(書店)でさえも手に入れることができません。上で述べた具体的な例は、質的にも量的にも、私が知りうる情報の一部を取り上げたに過ぎません。

生徒に殴られたりひどい仕打ちを受けたりしたつらい記憶を自ら発信する教師は少ないでしょうし、校内暴力を体験した世代の教師の多くが高齢化してしまっています。当時は文部省もお手上げ状態で、「データを取り、共有し、残すという責務」を果たせていませんでした。多くの事件はお蔵入りし、現在の認知方法で当時の学校における暴力・非行事案の統計をとれば、とんでもない数字が示されることとなるでしょう。

まともなデータが残されることなく40年近い年月が過ぎ、「1980年代の中学校校内暴力と教育」という暗黒史はかなり伝わりづらい情報となってしまっています。若い世代、特に若い教師には学園紛争・校内暴力・学級崩壊の詳細や背景について、学んでもらう必要があると思います(どうして教育大学でこのことについて扱わないのでしょう?)。若い教師には年寄りの武勇伝と聞こえてしまうかも知れませんが、歴史として語り継ぎ、残してゆかなければならないと考えています。学術的な研究によってもう一度「何故1980年代に校内暴力の嵐が吹き荒れたのか」が研究され、教育関係者及び一般人に分かりやすい形で共有されることを願います。

終わりのない破綻

現在(2018年)、不気味なのは、生活習慣の状況や不登校などしばらくの間落ち着いていた小学生の問題案件の発生率が2012年から悪化していることです。特に深刻なのは、小学生の暴力事件の発生率。2012年から悪化しています。しかも2014年から急激に悪化し、一気に高校を上回り、2016年には高校の3倍近くに急上昇しています。(この段落は陰山英男先生のFACEBOOKより引用させていただきました)
下記リンク↓↓↓を参照してください。その後も小学校に関しては上昇し続けています。

令和元年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について

1980年代の校内暴力のような爆発的な現象(急激な伸び)ではなく、じわじわと上昇している状況であることを考えれば、1980年代の校内暴力時代以上に多数の複合的な要因が影響していると思われます。1980年代の中学校ほどの狂気ではないにしても、学校の荒れはもう40年にわたって続いています。多忙化も重なって、現在まで学校現場は「終わりのない破綻」を繰り返しているかのようです。過去の暗黒史と照らし合わせながら、きちんと現在の状況を把握することが急務であると思っています。

関連記事

中学校校内暴力に続いて巻き起こった小学校の学級崩壊現象に関する記事もあります。下記関連記事のリンク先を是非ご参照ください。

学級崩壊という悪夢 ~いったい何なのか、どうやって立て直すのか | EDUPEDIA

ローカルルール(校則)を守らせるという困難 ~学校・教師と懲戒権 | EDUPEDIA

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コメント

コメント一覧 (10件)

  • 初めまして。私は1981年生まれですが、私がこの世に誕生する前に、校内暴力の嵐が吹き荒れていたというお話に憤りを感じました。そしてmatsuiさんの教育現場における、涙ぐましい努力と苦労のお話におかけする言葉も見つかりません。

    私事ですが、中学高校は中高一貫教育の私立の男子校に通っていました。高校1年生の時に、クラスのほぼ大半の生徒からいじめを受けました。いじめられたら、殴り返したり、「何か俺が悪いことしたか!俺がそんなに憎いのか!何でお前らにいじめられないといけないんだ!」と反論しました。

    すると、返ってきた答えは「今のはシャレだよ。お前のこと嫌いなら、殴ったり、蹴ったりしてるよ。ほんとシャレが通じんやつだな。」と言い返されました。校内暴力を起こす生徒は、人間ではなく獣。matsuiさんはそう書かれましたが、それと同じでいじめをやる奴も動物園のゴリラそのものでした。或いは、薬物中毒者と同じ原理でいじめも相手の反応が面白いから、一度やり出したら、やめられないのかもしれません。

    また、担任教師にも裏切られました。担任はいじめに関して、見て見ぬふりでした。そればかりか、高1の1学期の父母面談の時に出席した母親に対し、「お宅の息子さんは、勉強のやり方を間違えています」と言ってきたのです。

    これに対し、「それでは先生の方から直接、息子にどこを改めればいいか教えてくださればいいじゃないですか?」と母親は反論。しかし、「私から直接その事を口にすると、息子さんに失礼だから、ここでは申し上げられない。息子さんの方から質問が来るまで私は待つだけです」とその教師は口にしたそうです。

    中学では、そこそこ勉強ができました。しかし、高校ではその教師の発言により、親と勉強や進路のことで揉めることが多くなり、学業不振に陥ってしまいました。親には、高い授業料を払って学校に行かせてもらいました。だからこそ、生徒はそれに見合った教育を受ける権利があるはずです。それなのに、そういう生徒を平気で落ちこぼす陰険教師のおかげで学校そのものが信じられない心境に陥りました。

    それでも、私立の薬科大学に合格し、進学しました。しかし、待ち受けていたのは単位取得に苦労したことでした。薬剤師国家試験の合否どころか、卒業も進級もかなり危ない状況でした。それでも、留年はせず、4年で無事卒業。国家試験も無事合格し、薬剤師として今は仕事しています。

    最後にmatsuiさんが指摘されたTV番組の悪影響について。matsuiさんがあげられた、金八先生第2シリーズやはいすくーる落書き。これらは、いずれも校内暴力や不良生徒を美化した屑番組ですが、制作したのはいずれもTBSです。

    実は、TBSというTV局自体が悪そのものだと私は断言します。問題の1つに、長期間に渡る様々なドラマのシリーズ化。金八先生に限らず、水戸黄門や渡る世間は鬼ばかりなど。こういったドラマを見ていると、主人公をはじめとする登場人物のキャラクター劣化や主役級の役者さんの有頂天ぶりなど。とにかく色々な弊害を感じずにいられません。

    おまけに、オウム真理教の一連の事件の発端となった坂本弁護士一家殺害事件。事件が起きる直前に、当時同局のワイドショーで放送する予定だった坂本弁護士のインタビュー映像をオウムの幹部に見せていた問題です。この一件が坂本弁護士の事件をはじめ、一連のオウムの事件の引き金となってしまいました。

    この点でも、TBSは罪な会社であると言わざるを得ません。以上、長文失礼しました。

  • Nobuo Nakaharaさん、色々と憤りを感じておられるようで、コメントを読ませていただいて心が痛みます。
    子供にとって逃れようのない狭い「学校」という世界は、同時に教師にとっても逃れようのない狭い世界です。教師は大人なので「辞める」という選択肢が見えるだけましですね。ただ、校内暴力期には、まだ日本人に勤め先を辞めるという発想ができなかった時期で、「本当に生命の危険を感じる状況」の中、思い悩んだ中学校教師は多いです。
    TVも最近はコンプライアンス違反を気にして規制する動きが出てきていますが、まだまだ平気で差別的な発言を許容していますね。「お笑いは笑い飛ばして痛みを緩和する緩衝材であって・・・」といった理屈を並べる芸人は多いですが、「ブス」とか「ハゲ」とか、公共の電波に乗せるべきではないと思います。

  • 長い話で、どうもすみませんでした。TV番組の悪影響…それは否定できませんね。

    教育現場を取り巻く問題で、もう一つ見逃してはいけないのは「モンスターペアレント」です。校内暴力の嵐が吹き荒れていたとされる時代に学齢期だった人たちの多くが、90年代に入り親世代となり、いわゆる「モンペ」としてなんやかんやと学校にクレームをつけるようになった…そのような話を聞いたことがあります。

    しかし、親たちは問題が起きるたび、学校に責任を押し付ける主張ばかりして身勝手もいいところだと思います。日本の学校教育をダメにしたのは、そういう屑親が増えたことも大きいと私は考えています。

  • Nobuo Nakaharaさん、ご指摘は当たっていると思います。https://edupedia.jp/article/5d90499a2731cf0000571221
    に、「学級崩壊という悪夢 ~いったい何なのか、どうやって立て直すのか」という記事を書いています。校内暴力世代が親世代となった時期と学級崩壊が頻発した時期は、重なっていると思います。ぜひ、記事をご覧になってみて下さい。

  • TBSばかりではなく、コメンテーターの仕組みを作ってしまったり、お笑い(漫才・ひょうきん・・・)ブームを生み出してしまったり、収拾がつかない時期もあったとは思います。しかし、各局どこでも、幹の部分(ニュース・天気・音楽・・・)は健全であった面もあったはずと信じておりますが・・・。たしかに絶望的になることもありますが、スポーツ分野での若者の活躍には目を見張るものがあります。あくまで一個人の意見ではあります。

    • 地引歩さん、マスコミの功罪については、
      https://edupedia.jp/archives/23487
      でも記述しています。最近(令和に入った辺りから)はBPOが効いてきているようで、あまり酷い描き方をする番組は少なくなったような気がします。

  • 興味深く拝見しました。校内暴力の前には、今もずっと続く教師からの暴力もあり親からの虐待も多くの原因があますね。教師が生徒を愛人にするたに探しに学校に来てレイプしていることがかいてあったスクールセクハラの本をみました。今ならわずかながら明るみに出るけど、以前はやまほどあったのでは。レイプでも警察はなかなか逮捕しません。昔はよりひどかったでしょう。制服の少女を性的対象にしているのが大っぴらにポルノの一大ジャンルなのに、未だに学校で強制的に着せているのも理解できません。だれもがそうなっているとは知らないとは言えないと思います。1978年頃の茜さんのお弁当というドラマは、保護司も出てきて触法少年に寄り添う内容だったとおもいます。子どもの権利条約の施策ができて子どもの環境をまともにしてほしいです。

  • 高畑さん、
    おっしゃられること、分かります。学校ってずっと密室文化でやってきていていますから、狭いところで何かと問題が起こるのだと思います。じゃあ、この文化をごっそり開放路線に転換できるかというと、それにはお金も時間も、エネルギーも、ずいぶんかかりそうで・・・難しそうです。

  • 校内暴力は終戦直後と1958年から1964年までも凄い件数です。少年の殺人も443件と記録していて、80年代より激しいです。ただ当時は校内暴力と呼ばず、暴力教室とよんでましたが、新聞も扱いが小さ過ぎて、信じられないほど世間に認知されてません。

    • モンタモンタさん、
      終戦直後は勿論のこと、その時期、少年の殺人が多かったという話は聞いています。
      戦後20年ほどは「局地的な治安の悪さ」や「日本の伝統的な暴力性」が残っていたという事なのでしょうか。戦中~戦前いやもっともっと前の時代も含めて、「暴力の歴史」がどういったものであったのか、調べてみたいです。

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