ローカルルール(校則)を守らせるという困難 ~学校・教師と懲戒権

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目次

張りめぐらされるローカルルール

社会のいたる所で「個別化」が進行しています。駅前の塾で「個別指導」を掲げていないところは見当たらなくなってきています。利益優先であるはずの塾でさえ、一斉指導がままならなくなってしまっているのでしょう。少子化による塾産業の過当競争に加え、子供や親への対応が難しくなってきており、コストが高くても個別指導に切り替えなければ生き残れなくなっているのだと思います。子供たちも社会も数年単位で大きく変化しているというのに、学校は 「ワンオペで」「多忙化を抱え」「昔ながらの手法と新しい手法を同時に求められつつ」「狭い教室に大人数を詰め込んで」「さしたる予算の増強もなく」「一日5・6時間も」一斉指導を続けているのです。
塾には、「最悪の場合は辞めて(退塾して)いただく」という切り札がありますが、学校にはそれができません。教師に暴力をふるっても、酷いいじめの加害者になっても、最高でも出席停止という懲戒処分を受けるのみです。しかも、出席停止は犯罪に相当するようなケースでなければ、まず発動されることはありません。
義務教育期間、小中学校の教師は最大40人の児童生徒を前にして、授業や学級経営をしなければなりません。音楽会や運動会となると、大規模校では150人を超える大人数を動かさなくてはなりません。

学力も育ちも考え方も違う大勢の児童生徒を集団で学習・生活させるために、様々なローカルルールを作ってトラブルを防ぎ、安心・安全に生活ができる環境を作り、効率よく学習の成果を挙げる必要があります。そうでなければたちまち学校・学級が荒れてしまいます。小学校教員がワンオペで手が足りていないことを子供たちはよく見抜いています。加えて、後述するように実質的な罰則規定がないので、手ぶらで一人、戦場(教室)に立っている感覚なのです。
ワンオペが破綻し始めると、保護者からのマイナス評価を浴びることになります。信頼を失うことによってさらに事態は悪い方向へと進み、負のスパイラルから抜け出せなくなります。場合によっては「担任降ろし」が始まります。ローカルルールを担保しているのは、保護者の信任でもあります。保護者の信任を失えば、子供たちにとっての罰則(学校での違反を保護者に怒られる)は全くなくなります。押し付けてきたローカルルールを守る理由がなくなってしまいます。ローカルルールは瓦解していきます。
学級崩壊や校内暴力とローカルルールの瓦解は深く関連しています。下記リンク先を是非ご参照ください。

学級崩壊という悪夢 ~いったい何なのか、どうやって立て直すのか | EDUPEDIA

校内暴力とは何だったのか ~1980年代教育暗黒史 | EDUPEDIA

学校・教師が設ける、ローカルルールが過剰になっているのではないかという指摘もあります。ルールが多く細かく厳しすぎると、ルールを守らせること、守ることに費やすコスト(時間や気力)が大きくなりすぎるという問題も出てきます。ルールの過剰が子供の成長をそいでいるという意見もあります。中学校の「校則」に関する議論もたびたびマスコミやネット上で取り上げられています。筆者が小学校教員のため、ここでは「小学校での細かいルール」に関する言及となりますが、「中学校における校則」を考える上でも十分に参考となる内容だと思います。
「授業中や給食の時間は立ち歩かない」「廊下を走らない」「消しゴムは1個だけ」「テストは黙って受ける」「職員室には『失礼します』と言って入る」「給食を減らした人はおかわりできない」「人の物を勝手に盗らない、使わない」・・・学校生活にはありとあらゆるローカルルールが張りめぐらされています。ほとんどのルールは「人に迷惑をかけない」「学習に集中できる環境を保つ」という主旨で設けられていると思います。が、中には「髪の毛が茶色い者は黒く染めなければいけない」など、元々茶色い髪の子供にとっては不条理でしかないローカルルールもあります(昔に比べればずいぶん不条理なルールはなくなったと思うけれど、けっこう酷いルールも残っています)。筆者はルールに縛られるのが嫌いで、「どーでもいいねえ」と思ってしまうローカルルールは多いです。

個々のローカルルールに関する議論をしだすと長くなりますので、市民社会でも必要と思われる「そこそこ妥当なルール」を守らせるという前提で話を続けます。「学級経営」のタグやワードで調べていただければ、EDUPEDIAでも様々なローカルルールについて書かれたものがたくさん掲載されています。

学級経営 | EDUPEDIA

罰則規定がないことがばれてしまう

教育は保護者にとっての義務(憲法26条)であり、教師にとっての職務上の責任ではあります。ところが子供にとって教育を受けるのは義務の様で本来、「権利」なのです。もちろん、教育を受ける際には、子供にも一般市民として最低限のルールを守る責任はありますが、実質的な罰則規定は出席停止しかありません。
ところが、犯罪として取り締まられるような事をやってしまわない限りは、出席停止が発動することはありません。出席停止は「教育委員会が判断し、その保護者に対して」発動するということになっています。出席停止に教育委員会の判断が必要となると、管理職は教育委員会の信頼を失いたくないと考えます。「学校が指導できなくてギブアップした」と受け止められるのが怖いのです。犯罪的行為が確定したときのみ発動され、事実上ないに等しい割合でしか適用されていません。
出席停止の難しさに関しては、下記の文科省サイト・ブログでもよく分かるように解説されています。

出席停止制度の適切な運用について
【コラム6】春名風花さん「いじめる側こそ学校に来ないで」から考えるいじめ対策の難しさ

法的な懲戒の方法は出席停止しかなく、その他の懲戒も限定的に認められている範囲でしかできません。これだけ契約社会へと日本社会が変貌している中、保護者・子供と契約書を作ってサインを交わしているルールなどほとんどなく、契約違反で訴えることもできないのです。
教育の難しさは、ローカルルールを守らせるための「罰則規定」は出席停止ということだけになり、実質的な手立てがほとんどないことです。
文科省は通知
体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)
によって、以下のように懲戒の範囲を示しています。
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懲戒が必要と認める状況においても、決して体罰によることなく、児童生徒の規範意識や社会性の育成を図るよう、適切に懲戒を行い、粘り強く指導することが必要である。
ここでいう懲戒とは、学校教育法施行規則に定める退学(公立義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、停学(義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、訓告のほか、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為として、注意、叱責、居残り、別室指導、起立、宿題、清掃、学校当番の割当て、文書指導などがある。
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注意や叱責等とありますが、荒れる子供たち、「聞き流せばいいわ」と開き直る子供たちには有効ではありません。
最近は消極的指導不服従(筆者の造語)が増えています。積極的不服従が「教師に対する反抗的・暴力的」な態度であるのに対して、消極的不服従は「暴力的ではないが露骨に指導に従わないポーズをとる」といった態度です。積極的にぶつかってこない分、対処が難しいのです。
例えば学校はいじめへの対処を求められていますが、捜査権も司法権も法律上は認められていません。現状では、いじめが深刻であればあるほど、加害者側を認定する段階で加害者側の子供や保護者から学校が責め立てられる恐れがあります。いじめへの対処に有効な懲戒を発動するとなると、さらにハードルが高くなります。
別室指導が時に有効かもしれませんが、それも学習権を保障した上で、別室で指導できる状況を確保しなければなりません。人手が足りない上に、別室に連れて行くことで良い方向に向かうとは限りません。下手をすると別室でさらに荒れるケースや、別室が心地よくなって教室に戻らなくなるケースもあります。
また、出席停止にしても別室指導にしても、それを発動させた時に親が「何故うちの子が?うちの子だけが?」と納得をせずに学校を責め立ててくるケースもあります。上記の私語の例であれば、「授業を聞かずに喋っていたのはうちの子だけではないし、つまらない授業だから私語をするんじゃないか!!」と、「学校が悪い」の一点張りで責め立てられる場合もあります。
こうした現状、つまり懲戒方法が限定されていることに気が付けば、子供たちが開き直り始めます。
例えば、授業中に教科書もノートも出さずに私語をしていても、出席停止という罰則規定が発動されるわけではありません。教師が本気で怒り始めるまでは喋り放題ですし、本気で怒り出せば「はぁ?」と開き直ればよいのです。「ナンカあのセンセー、ギャーギャーわめいてるわ」程度に聞き流していれば、教員にそれ以上の懲戒権がないことがばれてしまうのです。それでも厳しく指導をすると、今度は「強く叱られて精神的に傷を負った」「もう学校には行けません。どうしてくれるのですか!?」と教師の指導が過剰であったと訴えられるケースが増えてうます。
最近は文科省が許容する範囲程度の懲戒を発動しても、子供がそれを原因として教室に入ってこなくなるケースも増えてきています。保健室や別室へ頻繁に通うようになり、それが不登校へとつながってゆきます。子供も保護者も不登校になった原因が学校にあるとして、その責任をとれと迫ってきます。そうなると教師は「毎日授業記録を添えて手紙をよこせ」「毎日家庭訪問をしろ」「学習が遅れる分を個別指導しろ」などの重い負担となる要求に、苦しまされる羽目に陥ります。
平成の30年間を通じて、教師の言うこと(ローカルルール)など聞かなくてもいいと考えている子供や保護者が本当に増えてきました。
学校・教師は「捜査権」も「逮捕権」も「裁判権」も「懲戒権」も実質的に有していません。すでに学校が戦場と化していても、ひたすら和平を目指して、話し合いと努力でなんとかしようとしています。どこから撃ってくるかわからぬ相手が隠れる地雷原を丸腰で歩いている気分になることがあります。手足を縛られてプールに放り込まれ、「さあ泳げ」と言われているような気分になる時もあります。

子供にとってローカルルールを守ることは、「努力義務」でしかない


これまで述べてきたように、学校や学級担任が規定するローカルルールには実質的には何ら罰則規定がなく、文科省が許容範囲とする程度の懲戒では子供たちの荒れが収まりにくくなってきています。子供たちにとって罰則規定のない努力義務など、放棄してしまえば何も怖いことがありません。
「毎日、掃除をして、きれいな環境で学習できるようにしよう・・・学習をするには美しい環境が必要です!」
と、力説しても、「いや、自分は毎日掃除をする必要を感じません」「ゴミ捨て?行かないよ。」「掃除なんて先生がすればいいじゃん」「はあ?そんなの誰が決めたの?」「面倒草」等々と言われて開き直られてしまえば、清掃活動さえ成立しないのです。
ルールを作って示しておいたのに、守らせ切れないケースは不味いです。ルールを守らない児童生徒が好き勝手するのを目撃すると、他の児童も低きに流れ始めます。ルールを守らない子供が一定数を超えた時点で学級がコントロール不能となり、学級崩壊が進んでいきます。

「努力義務」でしかないローカルルールを守らせようと四苦八苦

教師は子供たちにとって「努力義務」でしかない数々のローカルルールを守らせるため、いかにそれらが「罰則規定付きの義務」であるかのようにふるまわなければなりません。あるいは「このルールを守っているといいことがあるよ」と、子供たちを納得させなければなりません。そうでないと、学級経営、授業運営がうまくやっていけないからです。納得させるといっても、数多くのルールをいちいち全員が納得できるまで話し合っているわけにもいかないので、学校・学級担任は苦肉の策として、次のような手法を採用しがちです。以下、どちらかと言うと、不味い手法を挙げてみます。

① ローカルルールを増やす

とにかくルールを増やします。たくさんルールを作ってがんじがらめにすると、ルール違反をしにくいような空気ができてきます。ルールを守ることを目的化するぐらいの勢いでたくさんのルールを作ります。そうするとルールに乗っかることに児童生徒が慣れてきます。
<<<欠点>>>
教員にとって、ルールを守らせることが目的化しやすいです。子供にとっても同調圧力が強まり、どれだけルールを覚えて確実に履行するかということが目的化される恐れがあります。

同調圧力的学級経営はいかがなものか | EDUPEDIA

ある種の洗脳になってしまう恐れがあります。子供の自主性や主体性が削がれます。ルールを守ることに気力と時間が費やされ、本来の「子供の成長」という大きな目的を見失いがちになります。あまりにルールが多くなると子供の中にも教師の中にもルールを守れない者が出てきて、周囲から非難を浴びる羽目に陥りがちになります。

② ルールを強める

より厳しいルールを作ります。ルールを厳しくすると何となく守らなくてはならないような気分になります。
例えば、学校が荒れている場合や荒れる予兆がある場合に、清掃活動が粛々と進行するように、「もくもく清掃」を取り入れている学校があります。清掃中に話をする事を禁じます。もくもく清掃には、やり過ぎだという批判の声がよく上がっています。是非はともかくとして、学級や学校が崩壊するのを防ぐ手段の一つとして有効ではあります。
<<<欠点>>>
ルールを「増やす」場合と同じです。同調圧力あるいは洗脳であるのかも知れません。

③ 懲戒を強める

厳しい目の指導をします。ゼロトレランスのように、ささいな違反にも例外なく懲戒を適用するという方法もあります。とにかくルール違反を見逃さず、厳格に懲戒を適用することによって、
<<<欠点>>>
懲戒を強めるといっても、前述したように体罰禁止にならない範囲でやらねばなりません。子供たちが互いに不寛容になります。学校として平和が取り戻せたとしても、ルールを守れない者が排除されて不良化して将来的にアウトローになる可能性が高まり、結果的に社会にとって損失になってしまう場合があります。

④ 洗脳する

恫喝や排除など、恐怖政治で同調圧力を作り出し、子供が教師に逆らえない雰囲気を作ります。
<<<欠点>>>
2つの不味い例を挙げます。
「K先生はニコニコしている時が一番怖い」という愚痴を子供から聞いたことがあります。確かにそうでした。K先生は「子供を褒めることが大事」と言っていましたが、K先生にとっての「褒める」は「『褒めない』を示す排除の論理」であるように感じました。K先生は「うちのクラスは主体的だ」と考えていたようですが、私には「忖度上手な子供を育てている」ように思えました。結局、クラスはK先生に反旗を翻した子供が1人現れたとたんに総崩れになり、K先生の指示を全く聞かなくなりコントロール不能に陥りました。
N先生は自分がカリスマ教師であることを自負していましたが、子供たちはN先生の前だけ良い子を演じていました。N先生が打ち立てたルール・作り上げた学級はN先生が体調を崩して数日間休んだとたんにトラブルが続発、総崩れになりました。例えば、N先生が打ち出した「黒板は好きに使っていいよ。授業が始まるまでにきちんと自分で拭くならね。」という一見、子供の自主性を尊重したように思えるルールも、N先生がいなくなると同時に好き放題の落書きが始まりました。授業が始まっても黒板がきれいになることもなくなりました。
属人的で洗脳に近い手法でローカルルールを打ち立て、それを守らせようとすると、その人に属する「魔法の力」が効力を失なった時点で無法化が始まります。
躓く同僚を尻目に、「私の前では子供たちはちゃんとする」と自負しているのは、たいていは洗脳型の教師です。

■■■欠点のまとめ■■■

上記①~④のどの手段を採るにしても、子供間・教師間の両方で同調圧力を強める結果になります。教室の中に息苦しい空気が漂い、空気を読めない子供が排除されます。結局、同調圧力はいじめや不適応の原因となり、学級が荒れてしまう場合もあります。
あるいは、積極的指導不服従・消極的指導不服従といった態度が現れ、同調圧力を無視できる子供たちに翻弄され始めます。そうなるとたちまち、「なーんだ、ローカルルールを守る義務なんてないんだ」「教師の懲戒などたかが知れている」と、多くの子供が気付き、不服従が蔓延します。一気に学級や学校は荒れてゆきます。
また前述したように、最近は同調圧力をかけすぎると、授業や教室から離脱して保健室や別室へいりびたり、最終的には不登校になってしまう子供が増えています。
従来の手法では通じなくなってきているのです。学校は困窮しています。

「努力義務」でしかないローカルルールをどうやって守らせるのか

上記①~④で、学校・教師が四苦八苦しながらも、必ずしもよい結果が生まれていない様子をお伝えしました。ではどうすればよいのでしょう。

(1)ローカルルールの修正・・・ルールを減らす、弱める

ルールが 過剰であったり、不条理であったりする場合は、守らせることが難しいのだから、ルールを修正することを考えるべきでしょう。ルールを減らし、弱める代わりに、「人に迷惑をかけない」「自分がされて嫌なことは人にしない」といった大原則を掲げます。この原則を外れた案件についてその都度、子供に考えさせ指導をしていくという方法もあります。
<<<欠点>>>
今まで張りめぐらせていた厳しく細かいローカルルールをいきなり取り下げると、下向きの加速度がついて悪い方向へと進む危険があります。あるいは学級間や学年間でルールの多さや厳しさが違うと、子供たちが相対的に緩さを感じ、自由奔放に行動をし始める場合もあります。収集がつかなくなってしまわないようにじっくり考えてルールの修正を行う必要があります。そもそもローカルルールが過剰になっているのは、学校の抱える困難の大きさが教師の守備範囲を超えていることが発端になっているという側面が強いです。教師側に十分な力があるわけでもないのにルールを取っぱらってしまうと、まずい結果になりかねません。

(2)ローカルルールに対する教師の認識を変える

子供にとっては努力義務でしかないローカルルールを多数張りめぐらせて守らせているというのが現状です。この現状を教師たちがあまり認識できてないように思います。「子供が教師やルールに従うのは当然」とか、「教師の立場は子供より上だからルール違反には懲戒を加えればよい」などと、昔ながらの認識を引きずっていてはうまくいかなくなってしまいます。清掃活動さえ子供にとっては「努力義務でしかないローカルルール」であるという認識の上で、いかに納得解を醸成しながら活動の成立へと導くかを考えることが大切です。「弓矢や鎧兜さえも身に着けず、ミサイルや銃弾が飛び交う戦場に手ぶらで立たされている」ぐらいのトンチンカンな自分あるいは自分達に気が付かないと・・・。
<<<欠点>>>
教育界には根強いローカルルール依存症が残っています。ローカルルールによって校内暴力や学級崩壊という現象をなんとか食い止めて平静を保っているという自負があります。平静はすぐに崩れてしまうという危機感があります。ローカルルールを守らせることに必死で、それを疑う心の余裕もありません。従来の意識・感覚を改革するのは難しいです。また、意識改革の結果、(1)で述べたようにローカルルールを一度に解除してしまうと下向きの加速度が生まれ、一気に崩壊へと向かう可能性も否定できません。

(3)別室指導の充実

文科省は下↓の通知で別室指導について肯定しています。
問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)
別室指導を支援する人員が確保できるなら、怒鳴ったり脅したり洗脳したりしなくても、一般社会で認められている程度のルール(迷惑行為の禁止)を適用することができます。委員会の判断が必要かつ実施がレアな出席停止ではなく、学校判断で適用が可能な別室指導は有効でしょう。「刑務所のような排除」を前提にしたイメージではなく、クールダウンをして自分の過ちを見つめ直す場として設定するならば、別室は「支援のイメージ」で存在することが可能となります。
いじめの加害者の子供には、「人の体や心を傷つけるのを止めない人は教室にいれません。しばらく別室で勉強してください。」「仲良くできるのであれば、教室に返ってきてもいいよ。」と、あくまで柔らかく指導します。授業中の私語を止めない子供には、「思う存分しゃべっておいで。気が収まったら戻っておいで」と、人に迷惑をかけていることを意識させます。別室と人員が確保できれば、別室指導はルール違反を矯正し、抑止する力になると思います。
また、教科担任制の導入に併せて別室指導を行うのは有効であると思います。複数の教員の目で見れば、「問題がある児童生徒の行動」を共有した上で別室指導の判断ができます。これによって児童や保護者が「●○先生の指導や見解がおかしい」という反発が抑えられます。別室指導にならざるを得ない児童生徒とその保護者に対する説明時に根拠—どの教員が見ても、別室指導が妥当である—を示しやすくなります。
<<<欠点>>>
前述したとおりです。別室を運営する人員の確保が難しいです。

(4)子供・保護者との信頼関係を築く

授業や学級経営をしっかりとやり抜き、学力保障をきちんとして「今日一日、成長したな、楽しかったな」という思いを持たせて子供を下校させる。そうすれば、おのずと子供・保護者との信頼関係を築くことができます。おそらくこれが最善の策で、当たり前と言えば当たり前のことです。下記の記事を是非ご参照ください。

学力保障 ~学校の荒れを防ぐための最優先事項 | EDUPEDIA

信頼を勝ち取れば、少々面倒なローカルルールであっても子供たちは「努力義務」を果たしてくれます。示された学習のルール・生活のルールを守ることで、自分や自分たちが成長し、快適な学校生活を送れることが分かれば、子供たちは落ち着いてゆきます。「まあ、先生がそう言っているんだから従おうか」という感じです。一昔前は、そんな感じでうまくいっていたのです。学校・教師が子供たちを伸ばすことにしっかりと向き合い、データを顧みて、授業改善・学級経営改善を進めることは、現状で考えられる学校の正常化への最短コースであると思います。
小学校も長く続いた学級崩壊のトンネルを抜け出しつつあり、対処法を身に着けつつあります。小康状態のうちに業務改善を進め、「子供を伸ばす」ことにリソースを集中する体制を整えることができれば、少しは明るい光が見えてくるかもしれません。
<<<欠点>>>
信頼関係を築くことは難しいです。再び書きますが、多くの細かく厳しいローカルルールが作られているのは、「学校が抱える困難が、学校や教師の力を上回っていしまっていることへの対応」に端を発しています。この困難な状況の中で、十分に信頼関係を築いて秩序を取り戻すことができる教師が不足しているのが現実なのです。
では、学校や教師の力不足が改善されるのを待っていればよいのでしょうか。いくら学校や教師の責任を追及してみても、現実に学校や学級が荒れており、損をするのが子供たちです。真面目に頑張ろうとしている子供が荒れた教室で苦しんでいる姿は本当に気の毒で申し訳ない気持ちです。
スーパースクールやスーパーティーチャーを取り上げて、そうではない学校や教師に「何とかしろよ」と言わんばかりの論調はおかしいと思います。「何で○○選手はイチロー選手や大谷選手のように努力ができないんだ?もっと頑張ればいいのに。」と言ってみても仕方がないのと同じです。本人が努力をすればスーパーティーチャーになれるわけでもなければ、研修を設ければスーパーティーチャーが育つわけでもありません。
多忙に追われる教師が、スーパーティーチャーを目指して成長と変革にチャレンジするインセンティブはあまりありません。教員にとっては、校長になることが給与的には最高の報奨ですが、その校長職も既に「ブラックポスト」と化してしまっています。数十年の間、現状はじりじりと悪化しており、多くの教師は「なんとか現状維持を」という思考回路に陥ってしまっています。

教育制度の疲労と破綻

一般社会(大人の社会)でさえ、罰則があることが分かっていても犯罪や紛争をゼロにする事はできていません。一般社会では問題が抱えきれなくなったときには職場やコミュニティーから脱退する、脱退させるという手立てがあります。しかし、児童生徒、学校・教師には「脱退という奥の手」を使うことは非常に難しいのです。たとえば児童生徒がいじめを逃れるには転校や不登校というたいへん厳しい手段を選ばざるを得ないのが現実です。あるいは教師が学級崩壊や保護者からのクレームに耐えきれない場合は、退職や休職という厳しい選択を迫られます。
義務教育は制度疲労を起こしています。1980年代の中学校は校内暴力という過酷な破綻を経験し、2000年頃からは小学校で学級崩壊現象が巻き起こっています。ピークを過ぎてはいるものの、教育現場の混迷は数十年間続いています。

校内暴力とは何だったのか ~1980年代教育暗黒史 | EDUPEDIA

義務教育の制度疲労は多臓器不全に陥っていると言ってもいいような状況です。教員評価、児童生徒への評価、業務の過剰、教員採用制度、ICT化、研修制度・・・等々に関して、数え切れないほどの問題・課題を指摘されています。令和になっても明治時代の富国強兵を目的としたデザインからそれほど変わっていないと批評されることもあり、確かにそうかなと考え込んでしまいます。
問題が山積していても、それらに対応するだけの予算措置や改革案が出されているかというと、何とも心が寒くなる話しか聞こえてきません。トップダウンで「主体的・対話的で深い学び」とか高尚なミッションを言い渡されても、現場は戸惑うばかりです。
太平洋戦争では、戦況に対して兵力が質・量ともに不足しているのは明らかであるのに、兵站(支援)を考慮せずに前進だけを求めてしまったために、現場である戦場は悲惨な状況に陥りました。状況を俯瞰できず、戦力・戦略を逐次投入するがいたる所で失敗、被害はとりとめもなく拡大しました。学校も、これと同様の「ミスリードパターン」にはまっているように思えます。
例えば、指導要領の改訂に伴って小学校に外国語が導入された結果、今の大学生(ちょうど小学校で英語教育を受け始めた世代)の英語力がどれくらい伸びているのでしょうか。現場の教師は何もエビデンスを知らされることがないままさらなる負担(3~6年で1時間増)を求められています。仮にエビデンスがあったとしても、伸びていたら「だからもっと頑張れ」と言われるのだろうし、伸びていなければ「だったらもっと頑張れ」と言われるのでしょう。実に不条理です。
ガンバリズムでは対応できないほど、制度疲労が深刻なレベルにまで達してしまっていることを自覚しなければなりません。

制度改革や学校への支援の強化

ローカルルールの過剰が批判される一方で、ローカルルールを守らせることが難しくなってきている(授業運営や学校運営が困難になっている)という現実にどう対処すればよいのでしょうか??
「子供に対する不信と不安に苛まれ、厳しく細かいルールを作りまくる」から、「信頼関係を築いて原則的なルールを示し、後は子供たちに考えさせる」に変えていければいいのですが・・・「信頼関係を築く」ことは難しいので、教員はついつい前者に走りがちです。そうしてローカルルールを守らせることが目的化してしまうのです。
ローカルルールを緩くしてもやっていけるように、教育制度を改革しなければなりません。行政の「具体的かつ総合的な制度改革や財政的な支援」は不可欠だと思います。人員を増やすことは言うまでもなく最重要課題です。教員に余力がないとどうしてもローカルルールが多く・強くなり、子供たちの失敗に対する寛容さもなくなってきます。下記↓↓↓リンク先は「失敗しないことが目的化」していることについて書いたものです。是非ご参照ください。

「失敗しないことが目的化」という現状 ~今どきの学校と子供 | EDUPEDIA

そして、大胆で聖域のない改革が必要です。千代田区立麹町中学校の工藤勇一校長が行っているような前例のない改革を多数の学校で実施して、成功例を共有してほしいです。

工藤校長は「担任制度を廃止し、チームによる指導」を実施しています。これをもっと進めて、学級・学年・学校という枠組みさえ、なくしてしまってもよいと思います。小学校も専科制にして単位制を導入しても良いのではないかと思います。

教員評価 ~個人を評価するよりチームを評価した方が良い | EDUPEDIA

思い切って学校での授業時数をカットし、「アート」「探究的学習」「外国語」「ICT」「スポーツ」「まったりお遊び」「補習」等を子供が選択して民間の教育機関でも学べる機会を与えてもよいのではないでしょうか。そうすれば学級・学年・学校という狭い枠組みに縛り付けるためのローカルルールは大幅に緩和することができます。前例踏襲主義・修正主義を捨て、大幅な発想の転換を図らない限り、制度疲労を乗り越えることは難しいでしょう。
“ 何をしないかを決めるのは、何をするかを決めるのと同じぐらい大切だ。” by Steve Jobs

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