失敗を嫌がる子供たち ~トイレ編
最近気にかかることがあります。休み時間や給食を食べ終わった時間帯に、「先生、トイレに行ってもいいですか」と聞きに来る子供がけっこういます。はじめのうちは個々に「どうぞ」と送り出します。そうしているうちに、いつまでも、何人も許可を得に来ます。どうやら子供たちは事前に許可を得ておいて、叱られないための保険をかけているようです。
そのうちに個別に許可を出すのが面倒になり、全体に対して、「休み時間や給食を食べ終わった後は、いちいち先生にトイレに行っていいかどうかを聞かなくてもいいよ、行きたければ、行けばいいです。」と、宣言します。すると少し許可を求める子供は減りますが、いつまでたっても何人かの子供は聞きに来ます。
私にだけ子供たちが気を遣っているのかなと思って、同僚やほかの学校の知り合いにトイレの許可について聞いてみたら、どうもこれは「あるある」なようです。
失敗を嫌がる子供たち ~道徳の時間編
他のクラスに道徳の授業をしに行きました。ローテーション道徳で、担任だけではなく学年の全担任で各クラスを回ってゆく形にしていました。「公平」について考える授業をしたときのことです。私が「クラスで生活していても、不公平だと感じることってありませんか」と、聞いてみたところ、何人かの子供が「うちのクラスではそんなことはありません」と真顔で答えました。その隣のクラスでも同様の反応です。「給食で人気のメニューがあったら、誰かだけが大盛りにしてもらっているとか・・・」と誘い水を撒いても、「うちのクラスではそんなことはありません」と、言い張ります。
どうやら子供たちは、「自分たちのクラスではそんな不正があってはならない」と、担任に強く思わされているようです。
失敗を嫌がる子供たち ~叱られ編
また、人の失敗にも敏感です。時々、クラスで何かトラブルがあると、当事者を呼び出して話を聞くことがあります。そうすると周りの子供たちが過剰にそれに反応する様子が見られます。「あいつら、おこられているな・・・」といった視線が一斉に呼び出された子供たちに集まります。彼らは失敗したクラスメートを「負け組」と見なしているかのようです。
そのため、ただの用事で「○○さん、ちょっと・・・」と、声をかけただけで半泣きになる子供もいます。呼び出されるイコール叱られるイコールみんなから負け組と認識される・・・どうやら子供たちにはそんな感覚があるように感じます。
失敗に寛容であるとどうなるか
以上3点、子供たちの様子を書いてみました。これら以外にも気になる様子はたくさんあります。私には最近の子供たちが何かにおびえているように見えます。低学年でも、それを感じます。では、こうした子供たちに、自由にやっていい、失敗してもいいというような「寛容な構え」で対応すると、どのようになるか。下記のようになりがちです。
【トイレ編】
トイレに関して、「生理現象なんだから行きたければ行ってもいいよ」といった構えで対応すると、何度も授業中に行くようになります。子供に好きな時にトイレに行っていいのだと考えられてしまうと、教師側はしんどいです。「トイレは休み時間に行っておく」というルールが崩れてしまうと、授業中に1人抜け、2人抜けが続きます。誰かがトイレに行くと、続けざまに2・3人が「トイレに行ってもいいですか?」と、聞きに来ます。いわゆる、連れションです。全体の集中力が低下してゆきます。
こんな事例もありました。校内で授業研究があって教室が自習になった時の事です。自習の時間の前に、担任が自習内容を説明していると、子供が「トイレに行きたくなったらどうしたらいいの?」と質問したので、担任が「どうしてもトイレに行きたい場合は言ってもいいよ」と説明したそうです。自習が始まってから、担任がクラスの様子が気にかかって途中で見に行くと、隣のクラスがなんと32人中13人もトイレに行っていました。
【道徳編】
「自分たちには悪い所もある、失敗もある、あってもいい」と少し緊張を和らげてあげると、子供たちは本音を言い始めます。「不公平の話」も一旦、話せる雰囲気になると出るわ、出るわ。醜いぐらいに噴出してきます。
【叱られ編】
学校・教師は「捜査権」も「逮捕権」も「裁判権」も「懲戒権」も実質的に保有していないことがばれてしまうと、学級の無秩序化が一気に進みます(詳しくは、下↓のリンクをご参照ください)。表面上だけでも、叱られたときにはシュンとしてくれないと成り立たないです。開き直って失敗し放題で叱られても聞き流せばいいという空気に傾き出すと、収拾がつかなくなり、かなり怖いです。
ローカルルール(校則)を守らせるという困難 ~学校・教師と懲戒権 | EDUPEDIA
学校にはたくさんのローカルルールがあり、ある程度これを守ってくれないと、無秩序化が止められない状況になることがあります。子供が本音で話し、本音で動き出すと、一気に「ローカルルールなんか守ってられるかよ」となっていく怖さがあります。道徳の時間に子供が建て前を放棄し、ただただ本音を述べ、本音で行動されては、授業が成立しない感じになります。
失敗をしないことが目的化
実際問題、あまりのびのび、自由にさせて、「失敗オッケー」な雰囲気を作ってしまうと、数々の失敗が頻繁に起こって対応しきれなくなってしまいます。だから教師は自分の力量に応じて「失敗に対する許容範囲」を考えざるを得なくなります。教師は安全策を取りたいので、ローカルルールを張り巡らせて許容範囲を狭める傾向にあります。
しかし、ローカルルールが張り巡らされ、それを守ることに重点が置かれると、子供たちが委縮するようになってきます。子供たちの中に同調圧力が生まれ、失敗に怯え、安心して過ごすことができない状況が生まれます。学校で成長の機会を得て、互いの成長を喜び合うことよりも、誰かが失敗していないかが気になるようになってゆきます。そうするうちに「失敗しないことが目的化」する状況が生まれてしまいます。近年、失敗しないことが目的化してしまっている傾向があるクラスをよく見かけます。
そうなってしまうことの原因の一つに、担任の学級崩壊への恐怖があるのだろうと思います。トラブルが横行し、失敗に慣れてしまって感覚が麻痺した子供たちが雪だるま式に増えてしまうと、対処が難しくなるからです。後述しますが、教師側にも「失敗をしないことが目的化」してしまっている現状があるのです。
失敗をした時にはいじめの対象になり、それが輪番化する
失敗をして叱られている子供に「あいつ、おこられているな・・・」といった視線が一斉に集まるということを前述しました。そこには、失敗して叱られることが怖いという心理と同時に、叱られているクラスメートを見るのが楽しいという心理も多分にあると思います。横並びの状態を強いられる学校(社会もそうですね)で、そこから落ちてゆく人を見るのは怖いと同時に楽しい気がします。それは、いじめの心理に近いような気がします。
そして、ある程度の年齢までは、教師が放つローカルルールが「成功・失敗」の基準となっているのですが、それが子供たちの中でぼんやりと形成されていく裏ローカルルールが「成功・失敗」の基準に置き換わってゆきます。裏ルールは様々なのでしょうが、例えば「ゲームやファッションで同じ話題を話せないのはアウト」「人気者の○○さんと違う意見を言うとアウト」「本音を言うとアウト」など人と違う行動をとってしまうのがアウトの対象になりやすいようです。しかし、人と人が違うのは当たり前です。誰もが横並び状態から外れる要素は持っているので、誰でもアウトになる可能性があります。そうすると、いじめが輪番制のように次から次へと被害者が変わるケースがあります。いじめられた側がいじめたグループの誰かをいじめの対象にして報復しようとする心理も働きます。そうなると失敗していじめられてはならないという気持ちはさらに強まり、失敗しない事だけに腐心するようになってしまいます。恐怖政治が始まり、「失敗しない事が目的化」がさらに進むのです。
子供たちにとって、横並び隊形の維持に失敗しないことが第一目標となり、個性を出すことを億劫がるように育ってゆきます。狭い人間関係の中でいい子ちゃん(≒失敗しない人)でいようとするようになります。
下記の書籍「先生、どうか皆の前で褒めないで下さい~いい子症候群の若者たち」は、近年の学校の空気の中で育ってきた若者(大学生)の行動様式を鋭く分析していて、とても面白いです。「ほめられる」ことは、「目立つ」ことであり、「横並びから外れる」こととなり、それすら若者にとっては「失敗」であるようです。
先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち [ 金間 大介 ]
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失敗を嫌がる教師たち
教師集団も、団塊の世代や高度成長期世代がいなくなってきており、いじめが輪番制になっていた世代が過半数を占めるようになっています。「学級崩壊」という失敗は教師にとってとても辛い状況ですが、寛容性のない職員室では学級崩壊を起こしてしまうと居たたまれない気分になり、場合によっては辞表を出さざるを得ないという結果になります。
ある学校で、異動する若手教員が後輩教員に「この学校は失敗しても誰も助けてくれないよ。自分でなんとかするしかないよ。」と言い残していったという衝撃的な話を聞きました。
教室内カースト(スクールカースト)は職員室内でも引き起っており、権力のある先輩教員には平身低頭、同世代に対しては横並びを強く意識している感じがあります。(私自身はそんな雰囲気にならないよう、ピアサポートができる職場づくりを目指し、フラットな人間関係を築くことができるように努めています。)
その一方で、学校の出入りの業者(年上)にタメ口で話している若い教師がいて、驚くことがあります。職員室で失敗をしないように、「いかに相手の位置情報(上下関係やポテンシャル)を見取って対処するか」が教員の処世術になってしまっているように感じます。
こうした教師は当然、教室での失敗も嫌がります。教室内にローカルルールを敷き、同調圧力を産み出し、子供たちが失敗に怯えるようになった結果が冒頭の「トイレ編」「道徳編」「叱られ編」へとつながっているのではないでしょうか。
職員室の同調圧力がとても強くなっている学校も少なからずあり、そんな職員室で失敗が露呈し非難されるのはとても辛いことです。職員室の空気を換えなければ、教師はどんどん委縮してゆきます。
校長先生、職員室が学級崩壊状態です! ~職員室の学級崩壊チェックシート付 | EDUPEDIA
忖度をさせる教師
あの教師はすごいとか、スーパーティーチャーだとか言われる教員の教室を覗くと、なんだか子供たち宗教化されているような雰囲気を感じることがあります。教祖である教師が設定するローカルルールを守ることに子供たちが腐心し、教師の一言一言を正確にキャッチして忖度しているような雰囲気です。同調圧力が強く、忖度ができないことは失敗であると見なされ、それが怖いようです。
逆に教師と子どもたちのパワーバランスが壊れて、「教師に忖度する奴はカッコ悪い」となると、忖度をすることが失敗であるとみなされ始めます。教室ではAとBという価値が衝突するシーンがよくあります。例えば「学校にお菓子を持ってくるのは?」→→→「A:よい」「B:悪い」とかです。教師側が全体をAに導こうとして、Aを主張してくれそうな子供を指名して、Aという子ども側から導き出した答えを大袈裟に褒めることは授業あるあるです。この時にパワーバランスが子供たちに傾いて同調圧力のベクトルが逆向きになっていると、
「Aです」
と、答えることは失敗となるのです。
教師側の「忖度してほしいベクトル」と子ども側の「忖度すんなよベクトル」が拮抗している場合は「褒めないで」ではなく、「もう指名しないで」となってゆきます。
・・・程度の問題ですが、少なからずそうした度合いが強くなっているように思います。
失敗をする権利、失敗を許す寛容な組織
教師が学級崩壊や親からのクレームを受けるという失敗をしたがらないようになり、子供にローカルルールの遵守を求めて忖度をさせ、子供が失敗を恐れるようになる。
1990年代の後半から始まった学級崩壊とモンスターペアレンツの登場とマスコミによる学校バッシングの末に、2020年前後の学校には「失敗しないことが目的化」現象が深く進行しました(※筆者の体感です)。本当に一つ間違えると長く辛いクレームを受けるし、学級崩壊には本当に遭いたくないです。
しかし、子供は失敗をしながら成長をしてゆくものですし、教師だって失敗をしなければ成長できないと思います。子供にも大人にも、失敗をする権利があると言ってもよいと思います。失敗する権利を奪ってしまい、失敗を許す寛容性を失った学校・社会は窮屈なものとなります。「失敗しないことが目的化」した組織では「失敗しないことぐらいしか能がない人間」ばかりが育ってしまいます。それは長い目で見ると、社会の損失であるように私は思うのです。失敗してみる権利・自由の保障をどうするのかというのは、今の教育現場ではなかなか難しいです。下の2つの記事は国語の授業で取り扱った物語の内容で、自由(自由には失敗が伴う)について考えたものです。是非、ご参照ください。
まいごのかぎ(光村図書3年国語)~うさぎを書いてもいいのかな? | EDUPEDIA
「まいごのかぎ」(光村図書3年国語)の授業の流れと全板書 ~自由っていったい何だい? | EDUPEDIA
失敗を許さない社会
失敗に対して不寛容になってきているのは何も教育現場だけでの話ではなく、社会全体が不寛容になってきているように思います。マスコミやネットがある時期は有名人を持ち上げていたと思っていたら、何かの失敗をした瞬間から大バッシングが始まるのを何度も見せられてきました。
文科省や教育委員会は社会からのバッシングに怯え、管理職は教育委員会からのバッシングに怯え、教師は管理職や保護者、場合によっては子供たちからンおバッシングに怯えています。そして子供たちが教師からのバッシングに怯えてしまう。
また、親も失敗に怯えているように思います。ママラインで調子を合わせて、話題に乗り遅れないようにする。子供が浮かないことを心配する・・・。子供を叱ると自分の子育ての失敗を叱られたような気分になって落ち込んだり、教師にクレーム電話をかけてきたりする・・・。子供は失敗しながら学ぶ存在だし、子育てに正解などないと思うのですが。
それぞれの立場・階層でお互いの視線が気になって仕方がない。四六時中、失敗をしないことに腐心しているのは残念な状態に思えます。
失敗から学ばせる余裕を
私は、ある程度の失敗をさせる余白を残して学級経営・授業をしたいと考えています。そうした方が、長い目で見れば子供たちは強くなるし、自分たちで解決してゆく力も身に着けてゆきます。成長や発展のためには、失敗しても挽回ができるタフさとフレキシブルさを育てて、ある程度のリスクを背負える人材を育ててゆかなければならないと思っています。
ただそれはとても難しく、教師側の実力がないと1年を持ちこたえられません。子供たちに対して寛容になりすぎたり自由度を高めすぎたりすると、堰を切ったように、あるいは加速度的に「荒れ」が増加する場合があります。あまり頻繁にトラブルが起きると落ち着きがなくなり、クラスががたつくので防がなければなりません。重大ないじめ案件や取り返しのつかない事故が発生するような事態は避けなければなりません。ローカルルールもある程度は必要ですし、少しは忖度してもらわないと学級崩壊に陥ります。クラスががたついていると、子供の失敗を全部教師のせいにされる怖さがあります。
例えばこんな感じです。
Aさんが教室で暴れまくって遊んでいて、友達が机の上に置いていた水筒が床に落ちて蓋の所が割れてしまったことがあります。Aさんの保護者にその旨を電話連絡すると、「それは学校の管理が悪いのではないか、クラスががたついているのではないか」と強い口調で訴えられたことがあります。蓋を割られたBさんの保護者はAさんの保護者からの謝罪がないことに憤慨し・・・
ほとんどの教員には少なからずこうした経験があると思います。もっと厳しいモンスター級のクレームや学級崩壊を経験している教員も多いと思います。そういったクレームや学級崩壊へ過剰対応をしようとした結果、今のがんじがらめのローカルルールが張り巡らされる結果になっているのです。「もっと自由に、学級の雰囲気を緩めてもいいのじゃない?」と若い教員にアドバイスすると、「いやいや、それはあなた(筆者)がベテランだからできるのですよ。一旦、クラスが崩れ出すととんでもないことになりそうで怖いです。」と返されたことがあります。
子供が静かにチンとしておいてくれると楽です。際限のないワガママや好き放題に付き合うだけの時間や余力はありません。だからと言って、エネルギーにあふれる子供の良さを殺してしまうのも残念です。ギリギリの自由度と緩さを保ちながら、失敗から学ばせるという方針で何とか耐え凌ぎたいです。それぐらいの度量(実力)を持ちたい・・・というのが私の個人的な想いです。
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