まいごのかぎ(光村図書3年国語)~うさぎを書いてもいいのかな?

寂しい者たち・行き場所がない者たち


葉桜に心を寄せる人は、あまりいません。
満開で華やかな時期や儚く花びらが散る時期には、誰もが桜を愛でています。ところがこれを過ぎると、一気に注目度が下がり、桜はひっそりと次の春を待つことになります。
夜中のベンチは何を考えているのでしょう?はぐれてしまったあじの家族は?ひたすら決められた路線を決められた時間通りに走るだけのバス。りいこがかぎあなを見つけるのは、何かが足りていない者たちの所です。
日の当たらない、置き去りにされた者たちへ眼差しを向ける物語は、作者である斎藤倫さんの作風のひとつのようです。

子供たちには、「普段の葉桜/鍵を回された葉桜」というように「葉桜」「ベンチ」「あじ」「バス」それぞれの2つの様子・気持ちを考えさせました。子供たちは下の様な考えを持ちました。

桜の木はいつも一人で立っているからつまらない・桜の木はきっと寂しい・桜の木は春がすぎてからも、りいこと遊んで楽しかった。・ベンチだってたまには気楽にねころびたい・天気のいい日は、ベンチはふだんは動けない。いつもとちがうことをしたい・すぐに海に帰るのはもったいないから、空をとんでから海にもどろう・空の風、気持ちいいな。(あじの気持ち)・人間はいつも自由に動けてうらやましい・バスだってたまにはきゅうけいしたい・クラクションを大きく鳴らしたい

みんな、自由が欲しかったのでしょうし、寂しかったのでしょう。普段と少し違うことをしたかったのでしょう。りいこも、「自由にうさぎを書いた」ことでクスクス笑われて、寂しかったのでしょう。自分のアイデアが受け入れられず、自信を失い、うつむいて小さくなって歩いている時に、りいこは鍵を見つけます。

この記事には続編がありますので、是非、ご参照ください。続編はこの授業をした次の年にもう一度やってみた際のレポートです。


「まいごのかぎ」(光村図書3年国語)の授業の流れと全板書 ~自由っていったい何だい?


自制するりいこ、自制するバス、自制する作者


りいこは不味いと思いながらも好奇心を抑え切れずに「自由をもたらす鍵」を差し込んで回してしまいます。ところがりいこは①どんぐりを落とし始めた葉桜をすぐに止めるし、②ベンチに忍び寄って鍵を抜いて日陰に返すし、③飛んで行くあじにも飛びついて元に戻します。自分がやらかしてしまう(うさぎを描いてしまう、鍵を差し込んで回してしまう)ことに対して「わたしは、よけいなことばかりしてしまう」と思っています。つまり、りいこは自由過ぎる自分に対する自制心は持っているようです。
ところが最後に登場するバスを止めたのは、りいこではありません。バスは十何台もが集まってきて、ダンスをします。衝突するかもしれませんし、人を轢いてしまうかもしれません。実際に考えるとこれは本当にたいへんな状況なのだけれど、不思議と事故は起こりません。
これについて、ある子供(Mさん)が書いていたことが、たいへん心に残りました。
「みんなで遊ぼうよー。事故は起こさないようにするから。」
なるほど、バスは自由にしているのだけれど、人に迷惑をかけてはいません。
バスのダンスを見ていたりいこが何だか楽しい気持ちになって、「葉桜」「ベンチ」「あじ」「バス」の気持ちが何となくわかった時点で、バスたちは「満足したように一台一台、元の路線に帰って」行ったのです。つまり、バスもりいこに「自由でいいんだよ」というメッセージを送る目的以外には自制的に動いていたことになります。
まあ確かに、学校の帰り道で桜がどんぐりを落としまくり、公園中のベンチが辺りを闊歩して、食肉が空を飛び交い、バスが無秩序に踊りまくる世界は、カオスでしかありません。
光村図書の指導書に掲載されている作者の寄稿文によると、斎藤倫さんは「学校はある程度、社会性を学ぶところですから、自由にさせるばかりではいけませんし、かといって、主体性を奪ってもいけない。」と、書いています。斎藤倫さんは、「自由」であることと「自制」が求められること(人に迷惑をかけないこと)は、バランスが必要であると考えているようです。

うさぎと鍵


うさぎが現れた時には、りいこの手の中から鍵が消えています。授業中に「うさぎと鍵は何か関係あるのかも」と、言っていた子供がいました。そう考えていた子供はけっこう多かったようです。私は単純に鍵は神様がもたらしたと思っていましたが、ある子供は「鍵の正体はうさぎなのかも」とも言っていました。「鍵はうさぎ説」も、何人かの子供が「そう思う」に手を挙げていました。ファンタジーなので、受け止め方・感じ方は人それぞれでいいと思います。

鍵を回したことやうさぎを描いたことについて、こどもたちはどう捉えるのでしょう。自分がかぎを見つけたら、「まっすぐにかぎを交番にとどける」と発言する子供もいました。ちょっと真面目過ぎるなあ。ほかの子供も何人かその意見に賛同しましたが、それじゃファンタジーにならないじゃないか。「(そもそも)拾わない。落とした人が探しに来るから。」という子供もいました。うーん、話が始まりません。妙にまじめな子供たちは、斎藤倫さんが描く、「りいこのうさぎをくすくす笑うクラスメート」側にいるのかもしれません。
「最後の場面でうさぎが何を考えて手を振っていたのか」を考えることを通して、この作品のテーマに迫るという発問はどうでしょう。手を振るうさぎがりいこに
「図工の時間、私を描いてくれてありがとう。消さなくてもよかったんだよ。」
と、メッセージを送っていたと考える子供もいましたが、3年生の子供にはけっこう難しい発問でしょうか・・・。

また、物語の後日譚として、りいこが「うさぎを消してしまった絵」をどうするか、今はどう思っているかについて聞いてみると、
「もう一度、うさぎを描くのではないかな?」
といった意見に多数が賛同しました。「うさぎを消さなければよかったと(今は)思っている」「うさぎを書いてよかったと(今は)思っている」などの意見も出ました。

「トライしても、いいんだよ。」「自由でいいんだよ。」といった、うさぎあるいはこの物語を通して作者が(おそらく)伝えたメッセージは子供たちに届いていたのかなと思います。最後にバスに乗ったうさぎがうれしそうに手を振っているのは、「自由への誘い」ではないかと思います。ただ、「人に迷惑をかけない範囲での自由」「自分で責任をとれる範囲での自由」という【自由の原則】ついては、この物語を読んだ子供たちに伝わるのでしょうか。どうなんでしょう。私は一応、Mさんの「バスは『事故は起こさないから』と思っていた」という意見を引き合いに出しながら、「何でもかんでも自由なわけではない」ということも押さえておきました。

迷子の学校 ~自由は素敵なんだけれど、引っかかるなあ


寄稿文によると、実際に斎藤倫さんは、子供時代に校舎の絵にカラフルに色を塗ってみたことがあったそうです。そして、先生には「ふざけないで、ちゃんとやれ。書き直し!」としかられたと指導書に寄稿しています。寄稿文の題は「まいごになりながらおとなになる」です。「お豆腐みたいな校舎」にウサギの絵を描いてみるという行為は、多分、斎藤倫さんの杓子定規な学校・教師に対する批判が含まれているのだと思います。また、そんなりいこを嗤ってみる子供たちの同調圧力にも、やんわりと批判の矛先を向けているように思います。
確かに、学校にはルールが多すぎますね。私も、自由が大好きです。同調圧力が嫌いです。りいこはあじに飛びついて飛んでいくのを止めますが、私ならあじがどこに行くのか、「のんびりと眺めていたい派」です(笑)。
「あじは海へ帰って行くのかな、それとも鳥みたいに、いつまでも空を飛びまくり、時々、木にとまる生活をするようになるのかな・・・。」
などと、想像を膨らませてしまいます。自由って、楽しいですよね。作者は指導書への寄稿文で
「まいごになることだって、たのしんでいいんだと気づいてもらえたら、これ以上のことはありません。さくらの木や、ベンチや、あじの開きや、路線バスだって、ときには、いつもとちがうことをしてみたい。そう、まいごになりたがっているのですから。」
と、述べています。迷子になる(失敗する・はみ出す)権利は認めてあげたいと思います。迷い、悩み、試してみることは、たとえ失敗に終わっても、人生の糧となると思います。迷う自由は保障されるべきだと思います。
自由は素敵だし、大好きなんだけれど、教師として、校舎の絵にうさぎを描き足してしまう「自由なりいこ」がもし自分の教室にいたら、どう対応したのかなあと考えてしまいます。一応、図工の時間には、「アニメやゲームのキャラクターを描くのはやめてね。そこに一生懸命になって時間とエネルギーを使ってしまうと、この勉強のめあてがおろそかになってしまうから。」と、条件を提示しています。そうすると、子どもたちはキャラクターを描きません。では、それなら、写生で「うさぎ」を描いたら、どうする?多分、本人にうさぎを描いた理由を「うーん、そうか、あなたはそういうイメージを持ったんだね。んんー、そうか・・・。」と、否定はしないと思います。
学校という場所で自由を奨励するのは、けっこうきついものがあるのも事実です。学校には明治時代からの「勤勉な労働者生産工場」的な側面が強く残っています。予算がない中で、学校は昔からずっと工場のように四角四面な形のままです。ずいぶん個別化・多様化にも対応してきていますが、規格品や校則やローカルルールが散りばめられる光景は相変わらず引き継がれています。ローカルルールなしで成立させることは難しいです。また、個別化・多様化する子供にローカルルールを守らせることも非常にしんどいです。そのことについては、下記リンク↓↓↓をご参照ください。
ローカルルール(校則)を守らせるという困難 ~学校・教師と懲戒権
斎藤倫さんがおっしゃる「学校はある程度、社会性を学ぶところですから、自由にさせるばかりではいけませんし、かといって、主体性を奪ってもいけない。」は、とっても難しいです。だから、子供は「まいご」になるのでしょう。
教師として、教科書に載せられたこの物語の授業をしなくてはならない状況は、どうも居心地が悪かったです。この授業をしながら、45分間、固い椅子・四角い教室という「枠(ルール)」に子供たちを縛り付けている「教師という立場の自分」に、「何だかなあ」と、もやもや感が拭いきれませんでした。学校も教師もまた、まいごなのです。難しい指導、サービス残業、理不尽な要求・ルールに耐えねばなりません。学校を解放する鍵もあったらいいのに・・・

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