1 いじめ・不登校のメカニズム その3 不登校をどう見立てるか
その2より
Facebookに書いているものをまとめています。
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個に応じた支援を
学校教育、特に義務教育においては、子どもたちが置かれている状況に応じて支援するということが当たり前です。特別支援が必要な子どもには、それに応じた支援、海外から渡日してきた子どもにも、それに応じた支援が必要であることは言うまでもありません。しかし、なかなかそれが充分に実行されていない現実があります。特に、不登校(年間30日以上欠席)の子どもについては、困難を極めています。わたしは6年間、ある中学校の不登校生等への支援コーディネーションをしていますが、その経験から言いますと、「不登校」を含む長欠生のことをどう見るのか、ここにもっとも困難な課題があるのです。
多くの教員が、不登校気味、あるいは不登校の子どものことを「自分勝手だ」「思い込みが強い」などと見立てます。それはそれで、現実として的を射ている場合が多いのですが、問題は、その後なのです。例えば、「自分勝手だからトラブルを起こす。」「思い込みが強いから、被害者意識をもつ。」→「だから自業自得だ。」となってしますのです。
これでは、不登校の子どもたちを支援することはできません、ね。
特別扱いをしない・・とは?
さて、前回の記事のつづきなのですが、「自分勝手」とアセスメントすることと、同じようにわたしが感じていることがあります。それは、若い先生によくあるケースなのですが、「わたしは、分け隔てなく接しているので、特別扱いはしません。」と宣言する姿です。この言葉には、わたしはかなり違和感を感じます。「分け隔てなく接して・・」というあり様は、子どもが感じて言ってくれる言葉であって、先生自身が発する言葉ではないと思うのですね。「わたしは、わたしのやり方でやっているので、特別なことはしません。」と表現しているように聞こえるのです。固定観念に侵され、成長が止まっている姿を感じてしまいます。このあり様は、不登校生支援にとって大きな妨げとなります。なぜなら、不登校傾向をもつ子どもは、なんらかの要因(原因=「きっかけ」ではありません)により、こころの成長が逆戻りしたり、止まったり、極端に遅くなったりしてるのです。「特別な(個別の)」その子にあった支援が必要とされます。
病欠への疑問
年間30日以上の欠席がある場合、いわいる長欠ということになるのですが、子どもを見立てることにより、1)不登校、2)病欠、3)その他(家庭事情等)、というふうに分類していきます。全国的に見ると13万9千人という数字を頂点にして以来、一昨年12万人を切るまで、不登校生は12万人台下回ることはありませんでした。子どもの減少を考えると不登校生自体は、この20年間で増加し続け、今では高止まりの状態であると言えます。しかし、子どもの見立てという観点で見ると、「病欠」という数字は非常に怪しい数字であると言えます。人間は心的な外傷を受けると、ストレス反応として、心や身体や行動に表れます。アンケートの結果から見れば、「悩み」と「ストレス反応」の数値には強い相関性が表れます。つまり、学校に行こうとしているときに起こる「腹痛」や「高熱」などは、ほぼストレス反応なのですね。これを病欠というふうに見立てると、子どもたちに的確な支援が行き届かなくなるのです。ですので、怪我や入院等、はっきりとした事実がない限りは、不登校としての支援が必要であると言えます。現在では、精神科や心療内科等の医療機関に受診している子どもたちも少なくなく、何らかの診断が下って長期欠席した場合も病欠ということになるので、こういう子どもたちにも不登校としての支援が必要です。その他(家庭事情等)で長欠生になっている子どもたちにも、不登校生としての支援が必要であることは言うまでもありません。一概に、不登校という数値あるいは出現率が減ったからといって安心することはできないのです。
不登校の要因と原因
なぜ、10万人を超える子どもたちが不登校になってしまうか・・ということなのですが、これについては、要因と原因とがあります。要因とは不登校になってしまう様々な要素のことです。原因とは、不登校になってしまった直接的な出来事です。つまり、原因とは「引き金」と捉えてください。不登校の場合、引き金となった原因を解決することは当然なのですが、その引き金になった事象を取り除いたとしても、不登校におちいってしまうケースが多々あるのです。子どもを取り巻く様々な要素に対して支援を入れない限り、原因(引き金)となってしまう事象は、いずれ何らかの形で起こってしまいます。
仮に、学校が落ち着いているとするなら(ざっくりとした仮定で申し訳ないですが)、子どもたちが不登校になってしまう要因は、かなり高い確率で保護者の「ネグレクト(育児・養育放棄)*虐待を含む」か「過干渉」です。ネグレクトや過干渉は、子どもの基本的なこころの成長を大きく妨げます。この「成長できなかったこころ」が、まわりとのトラブルを引き起こしたり、まわりに対する過剰な恐怖感となってあらわれてしまいます。小学校から中学校にあがってまもなく、「幼児帰り」をしてしまい学校に来られなくなるケースは、まさに、このことが要因なのです。子どもへの支援だけでなく保護者への支援が重要であることがわかるのではないでしょうか。
学校が落ち着いてなければ・・・
さて、昨日は「学校が落ち着いていたら」というふうに仮定をしましたが、これが「学校が落ち着いていなかったら(荒れていたら・学級崩壊を起こしていたら)」と仮定すると様相がかなり違ってきます。
こうなると、子どもどおしの関係性にルールが失われていますし、「強い者が勝つ」という弱肉強食の論理がまかり通ってしまうのです。暴力を含む「いじめ」が蔓延し、昨日述べた関係性に難しさをかかえた子どもはもちろんですが、対等平等なリベラルな感覚をもった子どもたちが標的にされたり、非常に居づらい状態になってしまいます。わたしや娘の例がそれにあたるのですね。いくらリベラルな感覚をもった子どもでも、子どもは子どもですから、納得のいく関係性を構築できなかった場合、「学校へ行かない」という選択肢を選ばざるをえない状態になってしまうことがあります。この状態は、様々な子どもたちが危険な状態に置かれているシグナルでもあります。早急な、大人の強力な介入が必要な状態であると言えるでしょう。
不登校のあらわれも、様々になってきます。保護者が要支援である子どもたちはもちろんのこと、リベラルな感覚をもった子ども、さらに、攻撃的な要素をもった「あそび・非行型」の不登校もあらわれてきます。地域の実態にもよりますが、学校の不登校率が5%を超えてくるような状況では、「あそび・非行型」の不登校の子どもたちが多く含まれている状態になっているはずです。
発達障害は?
発達障害をもつ子どもの場合、二次被害としての「いじめ」、三次被害として「不登校」とわたしは捉えています。発達障害をもつ子どもの不登校を三次被害として位置づけるということについては議論が起こるところだとは思いますが、わたしは、そう位置づけています。それは、不登校に至るプロセスが、いじめや「無理解のまなざし」が「引き金」になっているケースが多いからです。そもそも、発達障害という概念がこの国で確立してきたのが1990年代中盤以降です。脳科学の発展によるホルモンなどの神経伝達に関わる物質への知見が確立することにより、ADHD(注意欠陥・多動性障害)が解明され、fMRI(磁気共鳴機能画像法)やPET(ポジトロン断層法)等が開発され、脳の血流と働きがイメージングされたことで広汎性発達障害が解明されつつあります。「昔(20~30年前)は、発達障害って聞かなかったなぁ」などと言われることが多いですが、解明されていなかった概念だったので当然のことなのです。この分野においてはアメリカに20年遅れている、と言われているほどのことなのです。この国では、無理解が偏見につながっていると言わざるをえない現実があります。文科省の2002年調査によれば、子どもの約6%で発達障害が疑われると言われていますが、これは、素人の現場の教員によりチェック項目に従ってカウントされた率なのですね。
社会の理解は進んできたとはいえ、現実は厳しいものがあります。
発達障害は?
わたしが教員になったのは1979年なのですが、何年間かは不登校の出現率は非常に低かったように思います。現に、初任10年目くらいまでは、学校に来づらいということでの家庭訪問の記憶は1名のみでした。実際、出席簿は真っ白なのがあたりまえで、「学校には行くものだ」ということが、学校にも社会にも存在していたと思います。しかし、1990年を超えると、そんな常識も怪しくなってきました。しかも、1995年を過ぎると、各クラスに1名は不登校の子どもをかかえるようになり、ほぼすべての担任が不登校と向き合うということが、学級運営の課題となってきたのだと思います。「学校には来るものだ」という固定観念にとらわれていた学校現場は、不登校の子どもたちをきちんと見立てることができず、多くの子どもたちの学習権が奪われていったのです。不登校は、「子どもの責任」「担任の責任」という考えが充満していたと言えるでしょう。
不登校を見立てる時に、時代の変化に注目しなければいけません。成長社会を生きてきた人たちと成熟社会を生きている今の子どもを同一視するわけにはいきません。今の社会は、ある時点で大きく変化をしているのです。わたしは、その年を1995年と断定しています。大きな要素は二つです。まず、インフレがデフレへと変化をしました。つまり、「生活苦」が始まったのです。さらに、Win95や携帯電話の普及によって「高度情報化社会」へと移行しました。生活苦による家族破壊、高度情報化による孤族化の二つが決定的にコミュニケーション環境を変えたと言えます。さらに、外国の方の増加によるグローバル化、少子高齢化の顕著化というものが1990年代中盤に一気に来たのです。まさに、それまでの社会を支えていた「常識」というものが通用しなくなりました。社会の枠組みが堅持されていた頃は、「学校へ行くのがあたりまえ」でしたが、個の力が厳しく問われる「自由」になった今の社会では、全世代的な危機に襲われています。そんな中で「学校へ行くのはあたりまえとは言えない」社会に突入しているのです。いわゆる「学力低下」がここに起因することを「ゆとり教育批判」は見逃しています。社会を反映しているものが教育です。教育を反映しているものが社会ではありません。
今の社会を見立てる
今の社会がどういう社会なのかを見立てることは、教育にとって非常に重要なことです。この作業を行わないと、今の社会を一歩進める人間を育てることはできません。教育とは本来、そうであるべきものだと思います。今の社会は大きな相反するように見える二つの側面をもっています。高度情報化とグローバル化の進行などにより、一人ひとりが大事にされる社会になりました。SNSなどの発達は、このことを促進しています。今は、誰もが社会に向かって声を上げれる時代になるとともに、誰もがブランドになれる時代なのです。しかし、一方では、個の在り方が厳しく問われる受難の社会であるとも言えます。それが生活苦とこころの空洞化です。このことは、親から子へというこころの貧困を連鎖的に引き起こしてしまいます。不登校へのあらわれはこのことが起因する場合が多いのです。虐待の相談件数が、2012年にはおよそ6万7千件にまで右肩上がりにあがっています。虐待に対する関心が高まったことと、実際に虐待が増加しているという、まさにこの二つの相反する側面が影響しているのだと思います。
つまり、今の社会は、人間の成長の範囲というものが大きく振れているのです。良い意味でも悪い意味でも想定し得ないことが起こる社会なのです。
その4へつづく
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