プログラムの必要性を実感させるために

どうだろう。

お楽しみ会といえば、プログラム係は絶対必要。

そう決め込んでいることはないか。

子どもたちが言わなければ、何とか言わせようとして、『どんな順番でやるか、分からなくなってしまってもいいの。』などと言ってしまうことはないか。しかし、それでは、子どもの自主性、主体性は育たない。

—-

1学期末。夏休み前。お楽しみ会の計画をたてる時間のことである。

いろいろな係がいるということで、必要な係を出し合っていた。

司会。ゲーム。歌。・・・。いろいろ出たが、プログラム係が誰からも出てこない。どうしてだろう。幼稚園や保育園のとき、そういう経験はなかったのかな。

 とうとう子どもから出てこなかったので、わたしからは何も言わず、学級会は終わった。

さて、お楽しみ会はどうなったか。

初めは順調だった。司会の子も、そうでない子も、順番に文句もなく、進行した。『ああ。これなら、案外プログラムなしでもうまくいくのかな。』そんな思いにもなった。・・・。

ところが、やっぱり。

最後近くなって、やっと、もめだした。司会の子が言う。

「次は、○△グループの、紙芝居です。」「違うよ。△○グループの歌だよ。」「違うもん。△△グループの手品だもん。」自分のグループの出番だと言い出す子もいた。

けっこう言い合ったあげく、・・・、Aちゃんだ。「司会のBちゃんの言う通りだよ。ぼく、ちゃんと書いてあるもん。」メモ帳をそばの子たちに見せながら言う。それで、みんな納得せざるを得なくなった。

ほぼそれと同時に、Cちゃん。「何だっていいよ。早くやろうよ。」 その声がだめ押しとなり、それで、やっと、お楽しみ会に戻ることができた。その後はまたスムーズに進み、無事終了した。

—-

話はとんで、次は、2学期末。またまたお楽しみ会の計画段階だ。

係を決めているとき、Dちゃんが言った。「先生。1学期もお楽しみ会をやったでしょう。でも、あのときのお楽しみ会は変なことがあったよ。」 

内心、しめしめと思いながら、「そうかい。何が変だったのよ。」「だってさあ、次は何をやるかで、言い合いになったでしょう。紙芝居だって言う人もいたし、歌だって言う人もいたから、けんかみたいになっちゃったじゃん。」「そうだよ。誰も順番を書かないから、いけなかったのだよ。」「ええっ。Aちゃんが書いていたじゃん。」「でも、Aちゃんしか書いてなかったじゃん。」「そうだよ。みんなが書いておけばいいんだよ。」

あら、あら。せっかくいい意見が出て、プログラム係の必要性に気づくかなと思ったら、またまた、プログラムは出ないままになってしまった。

そして、学級会終了と同時に、決めた出し物の順番を、みんなが書くことになった。

さて、このときもお楽しみ会は、もめたのだ。

おもしろいもので、みんなが書いたことが、かえってあだになった。抜かして書いてしまった子がいたり、順番を間違えて書いた子がいたりしたのだ。

「toshi先生。誰か書く人を決めて、その人に書いてもらえばよかったね。」それで、わたしは答えた。「そうだね。じゃあ、3学期のお楽しみ会は、そうしよう。」

もう大丈夫。いよいよプログラム係の必要性に気づくなと思った。

—- そして迎えた3学期の計画づくり。

「誰か順番を書く人を決めないといけない。」それで、順番係という係が加わった。その係になったEちゃんは、自分のノートに、書こうとした。

そうしたら、Fちゃんが言う。「Eちゃん。だめだよ。ノートじゃあ。また、間違えちゃうかもしれないでしょう。大きな模造紙に書きなよ。そして、みんなが見えるように、貼っておけばいいのだよ。」「それなら、プログラムみたいじゃん。」

『なんだい。知っているではないか。知っているのなら、早く言えよ。』

そう言いたくなり、おかしくなったわたし。しかし、その言葉はぐっと飲み込んで、

「そうか。プログラムがあればいいのだ。なるほどね。」

 子どもたちは、プログラムなる言葉、また、その知識は持っていたのだ。しかし、それが、生きてはたらく知識とまではなっていなかったのだろう。我々はこういう状態を、『半知の状態』という。

『それなら、プログラムみたいじゃん。』という言葉。

この言葉によって、プログラムの真の必要性、プログラムのもつ意味、そういったものを実感したのではなかろうか。

順番係は、プログラム係に名称変更された。 そして、ていねいに縁取りする子まで現れて、きれいなプログラムができあがった。

わたしは、「おっ。いいのができたな。よし。こんな立派なプログラムができたのだから、もう、順番でもめることはなさそうだな。」と言うと、Gちゃんだ。

「うん。いいことは、まだあるよ。前のをやっているときから、次はぼくたちの番だって分かる。」「けんかしなくて済むから、安心だね。」

すごい。さらなる、価値の発見だ。

ところが、敵(?)もさるもの。

「toshi先生。プログラムができたから、司会はいらないじゃん。プログラムを見れば、分かるもん。」

さあ、またまたもめ出す。「それは、いるよ。『次は、○△です。』っていう子がいなかったら、始められないもん。」「始められるよ。プログラム見れば。」「でも、それじゃあ、そろって出られない。」

結局、司会はいるということになった。

先生から言われたプログラムではない。自分たちで試行錯誤し、自分たちで気づき、必要性を実感して決めたプログラムだ。子どもたちは、もうその必要性、有用性を忘れないだろう。

—-

初め、子どもたちは問題の存在すら気づいていなかった。この段階で、指導者が、『プログラムの必要性』を話して聞かせていたら、子どもたちは知識としては身についたかもしれない。しかし、それは、上記の半知の状態にとどまっただろう。

1学期のお楽しみ会の最中に、問題が発生した。

そして、問題解決を図ることになった。

でも、一筋縄ではいかなかった。

その経験が、3学期の実感的な問題解決につながったのではないか。

このような問題解決の経験は、他にも転移するに違いない。どんどん自分たちで難問を解決していけるようになるだろう。

こういうのが、『生きる力』となるのではないか。

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