「学ぶということは」どういうことか,これは,教育の原理にかかわることです。また,哲学にもなります。最近,このことについて考えることが多くなっています。それは,学校教育のあり方にかかわる様々なことについて考えているからでしょう。
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子どもたちは,毎日,学校に登校してきます。
その思いはどのようなものでしょう。
さまざまな思いで登校してきているように思います。
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「義務教育だから,学校に来るのは当たり前。」
「親も,子どもに教育を受けさせる義務がある。」
などの,政治的・社会的でもっともらしい声が聞こえてきそうです。
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しかし,子どもは,そんなふうには思っていないのではないでしょうか。
毎日が楽しい,という肯定的な思いもあるでしょう。
行くのがしんどい,という後ろ向きな思いもあるでしょう。
学校は,子どもたちが学ぶところです。ですから,学ぶことの楽しさやその意義を理解すれば,もっと子どもたちは学校に対して,前向きになるのではないかと考えています。
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子どもたちの「学ぶこと」に大きな影響を与えるのが教師です。教師の力量で,子どもたちの「学び」は違ってきます。できれば,子どもたちに「学ぶこと」の楽しさから,登校することの楽しさにつながるよう,教師は指導の工夫をしなければならないのです。
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では,その楽しさは,どこにあるのか。
それは,「自分が,学ぶ前の自分と異なっていること」の楽しさなのです。
つまり,「学ぶということ」は,「これまでの自分と違っていること」なのです。国語を学べば,それまで自分が使ったことのないような言葉で語ったり,算数を学べば,それまでできなかった計算ができたり早くなったり,社会科を学べば,新たな社会的事象に気づくようになったりと,いずれも学ぶ前と後とでは,同じ自分が違ってくるのです。
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そして,「これまでの自分と違っていること」をメタ的に見たり,実感したりすることで,子どもの学習意欲は高まります。この学習意欲の高まりは,子どもの認識や技能をより高めることになります。このプロセスが出来上がれば,雪だるま的に学力は向上するのです。
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しかし,この指導ができる教師がどれだけいるかというと,かなり数は限られてくるように思います。その理由は様々あります。まだ,きちんと整理できていないので,ここでは控えたいと思います。
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「学ぶ」ということは「以前の自分ではあり得ない」ことなのです。
それをどれだけ保障できるかということで,教師の力量が問われるのです。
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