「大造じいさんとガン」の戦いは以後どうなるのか?

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戦うのか、戦わないのか

ラストシーンで大造じいさんは傷が癒えて空に飛んでいくガン残雪に向かって

「おうい、ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。な、おい。今年の冬も、仲間を連れてぬま地にやって来いよ。そうして、おれたちは、また堂々と戦おうじゃあないか。」

と言っています。以後がどのような展開になっているのか、作者である椋鳩十さんは1987年に亡くなられており特に詳しくラストシーンに言及しているようではありません。

「大造じいさんとガン」は現在でも光村図書国語の教科書に掲載されており、私の知りうる限りでも20数年は教科書に載っている教材です。たくさんの研究事例があり、「以後の話を考えさせる」というような授業記録も散見されます。
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「以後の大造じいさんとガンの戦いはどのような戦いになるのでしょうか」「今後の戦いで、どちらが勝つと思いますか」
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などという、「戦うことを前提」にした発問やディベート形式で討論させた授業もあるようです。これでは少し、乱暴なような気もします(「戦わない」という意見を封じたつもりの発問ではないにしても。)。どちらが勝つかという二項対立的な話し合いをする前に、「戦わない」という選択肢も拾い上げた上で、考えさせるといいのではないかと思います。
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この「戦うのか、戦わないのか」は、物語の主題や作者の意図を考えるに当たって大切な課題だと思います。
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教師の中にも様々な意見が

実は「戦うのかどうか」という事も含めて、教師の中にも様々な意見があります。当然、子どもたちの意見も分かれます。教師の授業の持って行きようによって、意見の分かれ方も様々です。
猟師である限り、残雪をいくら「えらぶつ」と思おうと、来年は銃で仕留めるというのが、一般的な考えかもしれません。「それが猟師というものだ」と。しかし、それで議論を終わりにしてしまっては勿体ないように思います。

1.本当にこれ以降、戦うつもりなのか

好戦的な大造じいさんの描写のせいで血気盛んな男子は「戦う」方にこだわるかもしれないです。実際、大造じいさん自身の言葉として文中に「また堂々と戦おうじゃあないか。」と言っています。それでも、本当に戦うつもりなのだろうかという疑問を持ち、「戦わない」という可能性を感じている子供は少なからずいると思います。
「戦うわけはない、動物(残雪)の本能的に仲間を守ろうとする姿に心を打たれた大造じいさんが、今後もまた残雪と戦おうとするわけはない」という意見は子供の感想の中から大切に拾い上げていく必要があると思います。

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2.堂々と戦うとは?

物語の流れからすると、大造じいさんの言う「堂々と戦う」は、仲間を助けている残雪を撃つようなことはしない、怪我をしている残雪を撃つようなことはしない、という意味に読みとれます。

そうすると、徒手空拳で戦う残雪に対して、飛び道具を携え、隠れたところからつけ狙う方法は果たして堂々としたやり方なのだろうかという意見が出てきます。「そもそも、『堂々と戦う』という言葉は、鉄砲を持った大造じいさんが言い放つ言葉ではないように思える」という見方もできます。

大造じいさんの「堂々と戦う」が、「今後は丸腰で残雪と戦う」というように考えているとは読み取ることができません(それはそうでしょう)。猟師が鉄砲を持つと言う事は、当時の人間社会では「堂々とした戦い」と認められているのかもしれません。「大造じいさんとガン」の時代背景的には生業としてガン狩りは正当な行為ではあったでしょう。

では、今の社会から見た場合、狩りは正当なのでしょうか??
現在であればもっと精度の高い武器があるわけで、それで「ダダダダダ」とガンの群れを一気にやっつけてしまったとして、それを堂々と戦ったと言えるのかどうか。もっと広げて考えると、野生の動物であれ、飼育した動物であれ、食肉という行為自体が正当な行為なのかどうかと言う議論に発展してしまいます。どこまでが『卑怯』で、どこからが『堂々』なのか。大造じいさんは鉄砲を持ってガン狩りをすることを卑怯と考えてはいなかったにしても、椋鳩十はどのように考えていたのか、疑問が残ります。

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3.戦うとして大造じいさんはどういう行動をとるのか

もし、大造じいさんが以後の戦いでいつか勝ったとして、その戦いはどういうものなのかを考えると、どうも妙な気分になってくるのです。大造じいさんは来年以降もまた「銃口をぶるぶると震わせ」「舌なめずりをしながら」「罠の工夫を凝らして」、やっつけてしまうのでしょうか。勝負は勝負、職業は職業と、割り切って、残雪を撃ってしまうのでしょうか。もし、残雪を仕留められたなら、その後の大造じいさんは感極まって成就感にひたっているのでしょうか。それとも寂しいと思っているのでしょうか。
少なくとも「ゲヘヘヘ」と笑って勝利を喜ぶというのは、違うような気がします。ちょっと混乱してしまいます。

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4.残雪はどう考えていたのか?

大造じいさんの言葉にとらわれていると、もう一人の主人公の気持ちを忘れがちになります。考えてみれば、ガンにとって鉄砲を持った人間など「侵略者」であり、姑息な罠と銃器で弱き動物を撃ち殺す「卑怯者」ではないでしょうか。傷ついた自分を助けてくれたものの、残雪にとっては執拗に自分をつけ狙っていた不気味な大造じいさんです。「堂々と戦おう」などという呼びかけに対し、残雪は
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「もー、こりごりだよ!」「この爺さん、なんてしつこいんだ!冗談じゃないよ。」「銃を持っているくせに何が『堂々と戦う』なんだよ、俺は丸腰なんだよ!」
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と、思っているかも知れません。

生け捕りにして飼っていた「おとりのガン」が大造じいさんに飛びついてくるほどなついていたのに比べて、残雪は一直線に大造じいさんの元から広い空へ飛び立ちます。そういうふうに考えると、残雪はあまり大造じいさんになついていなかったのではないかとも考えられます(椋鳩十がそのような対比を意図していたかどうかはわからないです)。

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5.ずっと戦うのではないかという意見

好敵手である大造じいさんと残雪は、「トムとジェリー」や「ルパンⅢ世と銭型警部」「のび太とジャイアン」のように、時にお互いを尊敬しつつ戦っているのではないか。このあといくら物語が続いても決着を見ることはなく、お互いが決着を付ける一歩手前で決着を先延ばしし続けると言う考えです。戦いながらお互いが成長すると言う前向き?な意見ですね。それを椋鳩十が織り込み済みでこの物語を書いていたとは考えにくいかもしれないけれど・・・。

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6.椋鳩十はどう考えていたのか?

「大造じいさんとガン」(1941年)は光村図書5年生の教科書に載っており、他の教科書会社では宮沢賢治の「注文の多い料理店」(1924年に発表)が掲載されている場合もあります。猟師が「食べられる立場」になり、怯える様子を滑稽に描き、殺生を戒めたと考えられる「注文の多い料理店」と比較して読んでみると、「大造じいさんとガン」はかなり好戦的なイメージであるように思えてきます。物語自身も大造じいさんVS残雪、残雪VSハヤブサのリアルな「命のぶつかり合い」を描いている部分があり、この部分に関しては間違いなく好戦的です。仲間を守る残雪の姿に銃口を下ろすシーンはあるものの、ラストシーンの「また堂々と戦おうじゃあないか」の言葉が印象に残ります。子どもたちが好戦的なイメージを持つのは仕方がないかもしれません。授業の進め方によっては、単元の終盤で「今後も戦うのか」という問いを発すると、「今後も戦う」と答える児童は少なくないです。実際に、主人公がそう言っているわけですから・・・。

「大造じいさんとガン」は15年戦争の真っただ中、太平洋戦争の直前に発表された作品です。そのため、椋鳩十が戦後、「大造じいさんとガン」に関連して、好戦的であるとの厳しい批判を受けたという経緯もあるようです。
椋鳩十は「戦争反対の雰囲気をストレートには盛り込みにくかった」(#1)といった内容の話を戦後になって残しています。

本当は、「『堂々と戦おう』という大造じいさんの言葉に、言論の自由を戦わせることのできなかった時代への抵抗を示しているのだ」(#2)という、本人談もあります。実際の椋鳩十は反戦的であり、戦後に書かれた、「マヤの一生」等は反戦の色が濃く、これらの椋鳩十作品を併せ読めば、「大造じいさんとガン」に対するとらえ方は大きく変わってくるのではないかと思います。

それにしても、「また堂々と戦おうじゃあないか。」という言葉は、椋鳩十や作品の書かれた時代背景を知らない子どもが「大造じいさんとガン」だけを読んだ場合に、好戦的なイメージを持つことは否めないように思います。
椋鳩十は作品解釈に対しては「それぞれが捉えればいい」といったスタンツであるようなのですが、教科書にこれだけ長い間載っている作品が教師を含めて「作者の意図せぬ好戦的なイメージ」を引き起こすようでは、ちょっと困ったものだと思います。子どもに読ませる作品は、授業で教師が注釈を付けなくても、単独で読んで十分に意図が伝わる書き方でないといけないのではないかと、私には思えます。だからこそ、(#1)(#2)の言葉は、教師は補足として子供に提供する方がよいのではないかと思います。

私個人としては、椋鳩十は戦争が終わった時代を生きたのだから、「また堂々と戦おうじゃあないか。」を

「もうここには二度と帰ってくるな、お前とは戦えないよ」「これからはもう、お前を撃つことはできそうにないな」

といった「不戦」の言葉に書き換えてもよかったのではないかとおもってしまいます。児童文学を書いてきたのであるから、一度下ろした銃口を再び向けるようなイメージを残すのは避けてもよかったのではないかと。
それとも、もしかすると椋鳩十は敢えてあのようなラストシーンを設定したままにして、「堂々と戦うこと」について教室であれこれ議論が起こることを想像し、期待していたのでしょうか?だとすると、それはそれで面白いですが・・・いやいや、それにしても屈折しすぎです。このラストでは子供に椋鳩十の思いは伝わりにくいように思えます。

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7.光村図書の作品群

「大造じいさんとガン」を長い間掲載している教科書会社光村図書は、2年生で「スイミー」4年生で「ごんぎつね」、5年生で「大造じいさんとガン」、6年生では「やまなし」と「海の命」を載せています(2012年現在)。これらはどれも、動物の生と死をテーマに扱っており、「ごんぎつね」「大造じいさんとガン」「海の命」は武器を持った人間が動物と対峙する物語です。これらの作品群は、子どもたちに「弱肉強食」と「共生」について考えさせる機会としておそらく意図的に並べられているのではないかと私は思っています。特に最終学年である6年生に掲載される「やまなし」と「海の命」はかなりはっきりと殺生を否定しています。これら光村図書の小学校国語教育の意図をくみ取りながら、6年間の作品を振り返りながら授業を行うというのも、面白いかもしれません。

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では、どう授業を進めるか?!

もし、授業でラストシーンから大造じいさんと残雪の物語以降の戦いの行方を考えさせるのであれば、「マヤの一生」等、反戦色の強い椋鳩十作品を読ませることは必要だと思います(ただし、この物語はやや長いです)。加えて、動物(生き物)の尊厳について描かれている椋鳩十作品を読ませることも大事でしょう。授業後に読ませるのではなく、授業に並行して読ませた方が分かりやすいと思います。

「今後も戦うのか」「今後はどんな戦いになるのかな」という発問では、「戦う」とする意見が優勢を占めてしまいます。教師は普段から文中の言葉を引用して理由づけをすることを推奨しています。その手前、大造じいさん自身が「戦おう」と言っているのだから、戦う事が必然であるようなムードに流れがちです。

やや誘導的になりますが、
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「大造じいさんは“本当”に今後も戦うのかな」
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という発問にした方がいいと思います。すぐに挙手をして多数決や強い意見を求めるのは避けた方がいいです。「今後も戦う」という考えに懐疑的な子どもがいるのであれば、その子どもの考えを発表させ、それに似た意見を持つ子どもの発表を優先させるなど、少し冷静に考えさせてみましょう。個人個人が考える事なので、特定の結論に持っていく必要はないだろうけれど「こんな戦いが繰り広げられる」や「○○が勝つ」という意見に終始しないよう、一定の配慮は必要であると思います。
また、光村図書の教科書では、小学校の最後の教材として「海の命」を掲載しています(2017年現在)。大造じいさんが「戦おう」と言っているのに対して、「海の命」ではクエを仕留めることを回避するという結末になっています。このことについての対比も、面白いと思います。

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コメント一覧 (1件)

  • この記事を書いた私自身、この結末の解釈について混乱しています。ご意見をいただけると有難いです。

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