中学歴史〜聖徳太子と大化の改新〜(自主学習用教材「こころの窓」第6回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第6回「聖徳太子と大化の改新」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

こんにちは。それでは今日も一緒にがんばりましょう。

今日のお題は「聖徳太子(しょうとくたいし)と大化の改新(たいかのかいしん)」です。

6世紀になるとヤマト王権のもとで、豪族たちの対立が激しくなっていきました。中でも蘇我氏(そがという名字で、馬子<うまこ>や蝦夷<えみし>などがいます)が、対立する物部氏をたおして、最も大きな力を持つようになり、蘇我馬子の姪にあたる額田部王女(ぬかたべおうじょ)を天皇に押し立てました。この天皇が推古天皇(すいこてんのう)です。さらに、この天皇の摂政(せっょうといい、天皇を助ける役)となったのが聖徳太子です。(下の絵の人です)。

この聖徳太子は、すばらしい政治家で、十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)を定め、役人の心得を示しました。また、冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度をつくり、能力のある人を役人にして、高い位につけていきました。さらに、中国の隋(ずい)という国に遣隋使(けんずいし・・隋に役人を送って、進んだ政治を勉強させました)を送って、隋の政治や仏教を取り入れて、日本の国を安定させました。すごい人でしょう。それまでヤマト王権の時代は、豪族の争いが絶えませんでしたが、聖徳太子が政治をしてから争いはなくなり、平和な国になっていったのですよ。この時代を飛鳥(あすか)時代と言います。

しかし、聖徳太子が亡くなると、また蘇我氏(この時は、蘇我蝦夷<えみし>とその子、入鹿<いるか>の時代です)が勢力を強めて、自分たちの都合のよいように政治を動かしていきました。

そこで、聖徳太子のもとで学んだ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじといい、後の天智天皇です)と中臣鎌足(なかとみのかまたりといい、後の藤原鎌足です)は、前のような正しい政治にもどすために、645年に蘇我氏を倒しました。そして、中国の唐(とう)の国づくりにならって、新しい政治を始めました。これを大化の改新(たいかのかいしん)といいます。豪族の争いや、蘇我氏の勝手な政治など、いろいろなことがありましたが、ようやく日本は天皇を中心とした、新しい平和な国づくりが再び始まっていくのです。

ところで、昭和の時代の一万円札の肖像は、長い間、聖徳太子だったことを知っていますか。上の絵は当時の一万円札の肖像をもとに描いた絵ですよ。私などは、昭和のど真ん中に生まれましたので、一万円札は今でも聖徳太子のイメージが強いです。

はい、お疲れ様でした。では復習問題にチャレンジしてください!

復習問題

1.蘇我馬子はなぜ、自分の姪(推古天皇)を、天皇にしたのだと思いますか。

蘇我馬子は、自分の都合のよいように政治を行いたかったのです。そのために、物部氏を倒し、対立する敵がいなくなったので、姪を天皇にし、姪を使って自分のやりたいようにしようとしたのです。

2.聖徳太子は、何のために推古天皇の摂政となったのでしょうか。

聖徳太子がなりたいと言ったのではなく、蘇我馬子が勝手なことをすると困るので、推古天候が聖徳太子に摂政になってもらうように依頼し、正しい政治が行えるようにしたのです。実は、聖徳太子も蘇我氏の一族なのですが、彼はたいへん正義感が強く、決して自分勝手な政治ではなく、国のために政治をしようとしたので、多くの役人から信頼されていたのです。

3.聖徳太子や中大兄皇子や中臣鎌足は、なぜ中国の隋や唐に役人を送った(遣隋使、遣唐使のことです)のでしょうか。その理由を書いてみてください。

中国(隋の次が唐)のほうが、政治の仕組みや文化が進んでいたので、その進んだ政治の仕組みや文化を日本に取り入れるために、役人を送って勉強させたのです。

今日もお疲れ様でした。

聖徳太子の歴史は、結構おもしろいでしょ。この聖徳太子さんは、一度に10人の話を聞いて、それぞれに、しっかりと返事をしたと言われる伝説があります。いろいろ調べてみると、いっぱいおもしろいことが出てきますヨ。
では、今日はこれでおしまいです。また、「こころの窓」でお会いしましょう!

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第6回「聖徳太子と大化の改新」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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