教育の本質を今一度問い直す~成績評価編~(沖田先生インタビュー)

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目次

1 はじめに

本記事は、2017年7月12日に、同志社大学の沖田行司教授にインタビューをした際の後編記事となります。本記事では成績評価の手法について伺いました。
 本記事の前半はこちら↓
教育の本質を今一度問い直す~AI編~(沖田先生インタビュー)

2 インタビュー

成績評価の手法について

〇量化できないものこそが教育の根幹

ーー合理的以外の部分というのは?
 私たちは学校で評価されますが、評価というのは量化されたものですね。アインシュタインは1+0を考えるときに、「0を足す」という概念を理解できなかったため数学の落ちこぼれとされました。しかしのちに、相対性理論を発見するという業績を打ちたてました。つまり合理的に考えていくということが必ずしも良いこととは言えないということがわかります。量化された評価が今の学校教育の主流ですが、例えば、優しさはどう評価するのでしょうか。このような、量化されないものが教育の根幹にあるべきなのです。

〇何かを評価しないといけないという考えは現代人の思い込み

ーー量で評価できない部分をどう評価したら良いのでしょうか?
 量で評価できないものを持っていても、評価されず劣等感を抱いてしまう子どもがいる要因というのは、学校で成績を出して誰が一番かを決めようとすることです。例えば音楽の評価は量化できませんよね。
大正時代に山本鼎さんという方は自由画教育運動をしました。それまで山は三角、太陽は赤とされていましたが、「時には太陽が真っ黒に見えてもいいじゃないか」と言って、子どもに自由に書かせることで、子どもの感性を伸ばしていこうとしました。
 現代においては、作文を色々書く中で「てにをは」と格助詞を書かないといけなかったり、句読点を打ちなさいと言われたりと、様々なことが言われていますが、もっと子どもたちが自由に表現していいのではないかと思います
 今の学校教育の中では、授業や塾などでやったことのみを評価しますが、それは偏りすぎていると思います。江戸時代には成績なんてありませんし、「てにをはいろは」と書いて誰々が上手というレベルでした。近代になり、それ以前の教育にはない成績評価という制度ができて、いわゆる「できないやつ」は落としていくようになりました。学校が将来的な人材の配分を考えていくシステムになったためです。今の学校システムは、国際化する社会に日本が生き残るための人材を輩出していくことが目的となっています。

ーーでは、成績を評価しようとすることそのものがおかしいとお考えですか?
 「何かを評価しなきゃいけない」というのは近代人の思い込みです。例えば、「優しさ」をどう評価しますか?「優しさ」と「数学ができる」は同等の評価がされるべきではないでしょうか?そう考えた時に、我々の頭にはきっと、既存の成績評価内で好成績を取ったものが偉い、という固定概念があるのでしょう。そういった考えを解体しないと本当の個性なんて評価できません。人間の能力や評価というのは、絶対的なものではありません

〇教育の目的は幸せになること

ーー成績評価におけるフィールドが違うということですか?
 いいえ、教育の目的が違います。幸せになることが教育の目的ですが、幸せとは偏差値の高い学校に入って就職してたくさん給料をもらうことでしょうか?教育の目的だけを考えた際に今の教育は子どもたちの幸せを非常に限定してしまっています。例えば、「良い場所」に行くために学校に行きなさい、塾に行きなさいなどです。ただし、もちろん最低限度の勉強と、大学に行くことは大切だと思います。

3 沖田先生のプロフィール


1948年京都府生まれ。同志社大学社会学部教育文化学科教授。高校教師の経験も持つ。教育史学会理事、教育文化学会会長。大学入試センター委員、作問部部長。公益社団法人スコーレ家庭教育振興協会理事。保育所つくしの会理事長。著書は、『増補版日本近代教育の思想史研究』、『人物で見る日本の教育』、『日本国民をつくった教育—寺子屋からGHQの教育政策まで』など多数。(2017年12月29日現在のものです)

4 編集後記

教育史を専門とされている先生に質問をぶつけてみることで、現代では当然と思われていた制度が実は昔は存在しておらず、教育の目的も時代の変遷により変化しているために現代との齟齬が起きているということがわかりました。

(取材・編集:EDUPEDIA編集部 加藤舞、下地瑞穂、井上渚沙)

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