場をよむ(感化の教育)

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「場の空気」を判断することの連続

「KY」という言葉が流行ったことは記憶に新しいところです。
では、KYの反対は?「場の空気をよむ」ということになるでしょうか。
教師にとって、このKYが意識されているかどうかは非常に重要なことだと思っています。授業も指導も教育は日々、この「場の空気」を判断することの連続だと思うからです。

私が教師として、「場をよむ」ということを強く意識するようになったきっかけがあります。私が勤務していた学校では、毎年、教育機関誌を発行していました。その中に、掲載された先輩教師のあるエッセイを紹介します。

『(略)7月のある日、県内の先生方を対象にした公開授業研が行われた。その日はあいにくの雨で、教室はひどい蒸し風呂状態だった。私は赴任1年目ということで授業公開はなく、少しでも同じ教科部の先輩教師の授業に学ぼうと指導案を片手に教室で意気込んで参観していた。すると、そこへ、教務主任の先生が来て、私の手を引っ張り、廊下へと連れ出した。そして、「何しとんぞ」、「場をよまんか」、「扇風機を運べ」とえらい剣幕で叱られた。そんなに怒鳴らなくても・・・と心の中で思いながら倉庫へと走った。大型の扇風機は重かった。しかし、それ以上に「場をよまんか」という言葉はとても重かった。(略)実は、授業をするたびにそのことを思い知らされていた・・・その言葉は私の的を得ていたのである(略)』

この先輩教師は、「授業はもとより、子どもたちの間に生起する出来事への指導も、多面的で、複眼的で、総合的な思考のもとに適切になされることが要求される。一言で言えば、場がよめるかどうかが問われているのである。」と述懐されていました。

私はこのエッセイを初めて読んだ時、教務主任の動きや先輩教師の受け止め方に、大きな衝撃と深い感銘を受けました。

私は今、いろいろな学校や教室におじゃますることがあります。
そこにはそれぞれの「場の空気」が流れています。勢いを感じたり、重さを感じたり、絶妙なやりとりやズレを感じたりと様々です。その中で、私が授業力・学級経営力が高い教師、子どもを育てていると感じる教師に、共通していると思うことは「気配りや心配りがある教師」ということです。先輩教師の言葉を借りれば、「場をよむ教師」ということです。子どもたちにとってよりよい環境や授業を創り出そうとする気配りや心配りが感じられ,子どもの今に向き合い、そこから学ぼうとする謙虚で真摯な姿勢のある教師ということです。

状況の把握、客観的な視点、当事者の立場に立つ

偉そうなことを言っているように思われるかもしれませんが、実は、私は、以前、この「場をよむ」ということにコンプレックスを感じていました。いわゆる気がきかない自分を自覚していたからです。「場をよむ」には、状況の把握、客観的な視点、当事者の立場に立つ、という

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