「一つの花」(4年物語教材)をいかに授業設計するか?

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目次

1 そもそも、国語指導者が持つべき力は何か?

児童の学年段階に応じて、指導目標も変化します。それは国語指導においても、もちろん当てはまることです。たとえば、「読むこと」ひとつにしても中学年次の指導目標と高学年次のそれとは異なります。(下記の※を参照)例えば「一つの花」や「ごんぎつね」の教材学年配当が3・4年であったとしても、高学年においてでも、あるいは中学校においてでもそれらの教材を用いて指導することは可能です。重要なのはその構想力・授業力が、指導者にあるかどうかです。

《 ポイント 》 ⇒ 指導者は豊かな読み手であれ!
「教材を」「教科書を」教え込む
↕ 対立極にあるのが…
「この教材で、何を・いかに学ばせるのか!」という観点を具体的に持った授業

と言うことができます。

例えば、様々な文学作品教材について当てはまることですが、作品論(どのような描き方で作者は話の主題を構築しているのかを追求活動)や作家論(話の主題や作品の描き方から見えてくる、作者自身のものの見方や考え方についての追求活動)等について、児童・生徒による主体的な学習を展開させることができれば、小学校6年でも、中学1・2・3年でも学年に応じた学習が組めることができるでしょう。

2 「一つの花」を通じて、指導者が教材を「読む」際に留意すべき点とは

「一つの花」という題名から、素朴に感じることは?

日本語には存在しない「一つの花」という作者の命名から、その題名に指導者は作者のテーマ性を予感する必要があります。日本語では普通、花を「一輪」や「一本」と数えますから、「一つの花」というのは不自然な数え方です。なのに、どうして作者は、題名をあえて「一つの」花としたのでしょうか?指導者にはこのような細やかな部分にこだわっていくことが求められます。

⇒作者があえて付けた題名の意図について、気付くことができるか、あるいは題名に投影される作品の主題性について、思いを馳せることができるかが指導者として勝負になってくるポイントです。

・何故、「一つの」花なのか?

→1)作者があえて付けた題名の意図について、気づけるか。
2)題名に投影される作品の主題性について、思いをはせられるか。

・「一つの花」は結局、一体、何のことなのか? 

→愛娘「ゆみこ」を深く思う世界で一つしかない父親の心である。

・「一つの花」という物語は結局、一体、どうなったのか?

→別れ際、父親は愛娘「ゆみこ」を深く思う自分の心を一輪のコスモスに託し、最終場面では、成長した「ゆみこ」が暮らす貧しいが小さな家をコスモスの花でいっぱいに取り囲んでいる。

この作品(話)を冒頭から終末までダイナミックに牽引する事が出来た叙述上の「バネ」は、どこにあるか?

(バネ…児童・生徒が乗り越えれば、後は一気に読み味わいに突入できる語句や文のこと)

私は、「そんなとき、お父さんは、決まってゆみ子をめちゃくちゃに高い高いするのでした。」であると思います。

国語の指導においてもっとも問題であるのは、指導者の作品の叙述を越えた読み、あるいは作者の意図を超えた解釈によって生徒の思考を引き回すことにあるでしょう。文章の叙述や作家が作品に込めたテーマをはるかに越えた理念学習を児童に注入・展開すれば、国語科の力は決して着くことはありません。文部科学省や国語教育学会が50数年かけて言い続けてきた、「叙述に即しながら」という意味を、授業準備の際には常に想起したいものであります。

作者の今西祐行氏が「一つの花」について「…エネルギー不滅・物質不滅を中学時代(旧制)に習ったが、…私はそれにもう一つの不滅を加えたいと思うのです。人の心もまた不滅であると信じたいのです。」と後年に語りました。

この作品の流れを最終場面まで引っ張るバネ(エネルギー)となる叙述であると私が従来考え続けてきた、「そんなとき、お父さんは、決まってゆみ子をめちゃくちゃに高い高いするのでした。」の部分は、『自分の無力さへの嘆き、戦争という時代への憎しみ、これしかしてあげられないといういらだちなどが混ざり合い、「めちゃくちゃに」という行為に表れている。』という解釈ではないはずです。この解釈は「お父さん」の心が、一向に見えていない「読み」のあらわれではないかと考えます。

今西祐行は、「もののない」「命も危うい」時代にあっても朽ち果てない、時代を超えて生き続ける人の「心」を説いています。実は有形で、限りある「もの(物質)」ではなく、「人の心こそは永遠!」という作者の文学的パラドックスを、指導者は見抜かなければならないのではないでしょうか。
「一つだけ」
→「みんな一つだけ」
→「いや、喜びなんて、一つだってもらえないかも」
→「いったい、どんな子に育つだろう」
→「そんなとき、決まってめちゃくちゃに高い高いする」
という一連の叙述の内に、お父さんの心の内を垣間見ることができると思います。

児童生徒は、勿論、戦時下での父親の嘆きと取ります。しかし、その嘆きの中身をさらに追求させれば、戦争の悲惨さや物資の欠乏への嘆き生命への不安以上に何も出てくることはないでしょう。つまり、児童達の議論は低く楽なものに終始しがちで学習停滞に陥ってしまうのです。

親が、「決まって」(しょっちゅう)「高い高い」する理由は?

「どんな子に育つ」のか。「どんな子に育つ」のかとは、「わが娘がどんな人間になるのか、心配でたまらない」ということと同義であります。当時の子ども達は皆等しく、ゆみ子同様でありました。食べ物について、「一つだけ頂戴」が口癖になろうとなるまいと日本国中の子ども達の典型としての「ゆみ子」は存在したし、心ある親ならゆみ子の両親同様、「どんな子に育つ」のかとわが子の行く末を案じて止まなかったでありましょう。

「つまり、とことん「もの」に執着するわが子を日常的に見るにつけ、ゆみ子の両親、取り分け父は、将来育つであろうその「心」を憂いたのではないでしょうか。

3 「一つの花」という教材の中心核は?

紛れもなく、「そんなとき、お父さんは、決まってゆみ子をめちゃくちゃに高い高いするの」は、どうしてだろう?を考えることであるでしょう。

これを主要発問に掲げ、子ども達が各々磨き合い、この小高い丘を彼らが突破すれば、「一つの花は、一体どうなったのか?」という本作品におけるクライマックスでの子ども達の学びが、見えてきます。

4 プロフィール

興津洋男(おきつ ひろお)

  • 大阪府島本町立第二小学校 常勤講師
  • 「読書こそ、国語力の礎」で第60回読売教育賞国語部門優秀賞 受賞
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