「ごんぎつね」の発問例

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多様な発問

ごんぎつねに関する発問は、たくさんの参考例があると思います。子ども達から「疑問に思うこと」を募っても、興味深い疑問がたくさん出てくることと思います。それぞれの文の頭に「どうして」を付けるだけでも主題に迫るような話し合いに導くことができるのではないかと思えるくらい、たくさんの面白い疑問ができます。例えば、はじめの方に出てくる文に「どうして」を付け、「『どうして』中山から少しはなれた山の中に住んでいるの」という問いかけを作れば、ごんの孤独な境遇を想像するきっかけとなると思います。

だからといって、全てを疑問形にして授業の中に取り入れることは無理です。限られた授業時数の中で、子ども達にこの物語を有意義に読み取らせていくためには、多様な発問の中から精選することが必要になってくると思われます。1時間の中での主要発問と小発問をどう絡ませながら授業をしていくかという課題はその時々の授業の形態や子ども達とのやり取りの中で考えていく必要があります。

この記事では、ごんぎつねの授業の中で子どもたち投げかけてみると面白い流れが生まれてきそうな発問を並べてみます。特に「ごんがひとりぼっちであること」と、「兵十と仲良くしたいという気持ち」の表れとなる箇所についての発問を中心に選んでみました。

どうして山の中に住んでいるのかな

ごんの境遇を想像するのに適した発問だと思います。いたずらばかりしていて、村の人たちとの関係が良くなかったこと、ひとりぼっちで狭い穴で暮らしているごんに想いを馳せることが、その後に描かれる三日の雨降りがどれだけたいくつであったかにもつながりますし、さらに、だんだんと兵十に惹かれていくごんの気持ちにつながっていきます。

ごんは何をしに来たのかな。

各場面で、ごんは村に現れます。ごんはひとりぼっちなので、基本的に暇で、村に行くと仲間になれる誰かがいるのではないかという期待を持って現れていると考えられます。相手にしてもらいたいという気持ちがいたずらに結びついているということを考えさせるきっかけになる発問です。

また、村へ来た時には結局は必ず(いつの間にか)兵十の元へとやってくるごんの行動から、兵十が気になること、兵十に惹かれていることが読み取れます。

うなぎを盗んだ時点:「ひまだな、ちょいといたずらでもしに行こうか」

お葬式:「ひまだな、ちょいといたずらでもしに行こうか」「兵十は怒っているかな」

いわしを投げ込んだ時:「兵十はどうしているのかな、心配だな」

くりやまつたけを届けた時:「兵十を元気にして上げないと」

兵十と加助の話を聞く(往路):「気分がいいなあ。村にでも行こうか。」

最後の場面:「おれが栗を持ってきていることに気がついてくれないかなあ」

と、それぞれの場面での村へ来た動機の違いを考えてみると面白いです。

「円いはぎの葉が一まい、大きなほくろみたいにへばり付いていました」というのは、兵十のどんな様子を表しているのかな。

熱心にうなぎをとろうとしてはぎの葉に気付かない、気付いても取ろうとしない兵十が描かれています。「この他にも、うなぎを取るのに必死になっているところはありますか」「どうしてそんなにうなぎを取りたがっているのかな」といった発問につなげていくといいでしょう。増水した川の中に入っている姿や「そのうなぎやきすを、ごみといっしょにぶちこみました」という表現など、兵十が必死になっているところを邪魔をしてしまったごんの罪深さへとつながっていく場面です。

ごんと兵十の距離はどれくらいかな。(遠くなった・すごく遠い・遠い・近くなった・近い・少し近くなった)

距離について考えさせると面白い発言を引き出すことができます。タイミングとしては、「ごんは、二人の話を聞こうと思って、ついていきました。兵十のかげぼうしをふみふみ行きました。」がいいのではないかと思います。実際、このかげぼうしをふむという距離はかなり近いです。

具体的に何mと聞くのはがげぼうしの場面ぐらいでいいと思います。あまり具体的に言わせようとすると、3mや4mと、それほど根拠のない距離を言い合うような流れになるとやっかいです。かげぼうしの場面では、「そうとう近づいているね。」ぐらいでさっと流すといいと思います。よっぽど兵十と加助との話が聞きたかったのだろうと言うことと、「仲良くなりたい」という気持ちの上での距離が近づいていたと言えると思います。
その他にも、物語を追っていくとごんの兵十までの物理的な距離と、心理的な距離の両方が縮まっていくのがわかります。

冒頭:ごんと村の距離はかなり離れている

うなぎを盗んだ時点:遠くから見ている

お葬式:遠くから見ている

いわしを投げ込んだ:家の近くまで来ている

くりやまつたけを届けた:家の戸口まで来ている

兵十と加助の話を聞く(往路):話声が聞こえるくらいに近づいている

兵十と加助の話を聞く(複路):ばれるかもしれないくらいに近づいている

最後の場面:家の中まで来ている

そうしてごんと兵十の距離のことを聞いておくと、

打たれた後:死んだので天国に行ってしまうので離れてしまう。兵十が抱きしめてくれたのではないか。家のそばにお墓を作ってくれたのではないか。

といった物語の続きの想像の部分にまでつながる考えが出てくることもあります。

ごんが兵十にしたことは花丸ですか、二重丸ですか、丸ですか、三角ですか、×ですか、大×ですか?

あちらこちらでこの発問をすると飽きてくるので、ごんがいわしを投げ込んだ場面辺りで聞くといいと思います。その後、栗を持ってくる場面でもう一度聞いてみるといいと思います。
全員に挙手させた後、「僕は◎だと思います、その理由は~だからです。」と、形を決めて、発言させるようにすると、理由を付けて発言をする勉強にもなります。

ごんはお経を読んでいる間、何を考えていたのでしょうか。

ごんは話の続きを聞きたかったのでしょう。「栗をくれるのはごんじゃないか」という淡い期待を持っていたのではないかと想像できます。
いたずら好きのごんが、長いお経の間、じっと待っていた忍耐力についても考えさせるといいですね。

ごんが加助の「神様のしわざ」という話を聞いても、くりを届けに行った理由は?

神様ではなく、自分がやっていることを知ってほしかったという見方をする子どももいると思います。あるいは、神様の仕業と言われようが何と言われようが、ごんは償いがしたかったんだという好意的な見方をする子どもがいると(少し出にくい意見かもしれません)結末の悲しみがより増してきます。どちらも間違いではないと思います。

ごんが栗やまつたけを集めながら、独り言を言っていたとしたら、どんなことを言っていたかな。

物語の中には書き表されていない場面を具体的に想定してみるのもいいかもしれません。「今日もまつたけをそえてあげよう」「たくさんとるぞ」「兵十の喜ぶ顔がみたいな」「喜んでくれるかな」など、ごんが兵十を思いやる心へとフォーカスが合ってきます。最後の場面ではごんのその気持ちは無残にも打ち壊されながらも、「ごんおまいだったのか」とぎりぎりの所で気づくというすれすれの終わり方になっています。

なぜ、戸の中に入ってしまったのでしょう?

加助の「そりゃあ、神様のしわざだぞ。」が伏線となって、ごんはついに「うら口から、こっそり中へ」入ってしまいます。自分に気付いてほしいと言うごんの気持ちの表れを読みとることができれば、面白いと思います。

結末についてどう思いますか

かなりざっくりとした発問です。「悲しい」と言うのがごく一般的な感想でしょう。子どもはつい「悲しい」の一言で答えてしまいがちなので、もう少し突っ込んで「何が悲しいの」と、切り返して考えさせるといいと思います。ごんがと兵十のすれ違いの「悲しさ」を子どもの言葉で説明ができればいいのではないかと思います。

「悲しい」が大半を占める中で、「仕方ない」「罰があたった」「少しうれしいのではないか」などという見方をする子どもたちが出てきます。「罰があたった」はかなりシビアですが、最近の子どもはドライなので、時々そういう感覚でとらえている場合もあります。「罰があたった」は、新美南吉の意図するところとは違うと思います。そいう場合は、「少しうれしいのではないか」という子どもの考えを取り上げながら、「ごんは打たれてしまったけれど、それはつらいだけだったのかな」と、切り返してみるといいでしょう。
「どんなことがあっても(兵十はごんを)うってはいけなかった」「母もごんも死んでしまった兵十はかわいそう」等という意見が出てきたもありました。

新美南吉の初稿では、「ごんは、ぐったりなったまま、うれしくなりました」とあるそうです。その後の書きなおしによってこの直接的な表現は読者に委ねられる形に「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」に変わったそうです。

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