この記事は以下のように、シリーズになっています。
「読書」こそ、国語力の礎 ~ 「読書」する楽しさを求めて ~ Part1 | EDUPEDIA
「読書」こそ、国語力の礎 ~ 「読書」する楽しさを求めて ~ Part2 | EDUPEDIA
「読書」こそ、国語力の礎 ~ 「読書」する楽しさを求めて ~ Part3 | EDUPEDIA
2. 「読書」を「読書体験」化するために、支援者は、まず、良き読書人であれ
○文学的文章・表現と論理的文章・表現との重層性について
=作品世界における「想像性」と「論理性」の交錯について
概して、
あ)文学的文章
…書き手の意識や比重は、「想像力」(イメージ)にウエイトシフトして、描かれている。
い)説明的(論理的)文章
…書き手の意識や比重は、「思考力」(論理)にウエイトシフトして、書かれている。
と、一般化して語られるものであるが…。これはアマチュア的指導の域である。
一方、生きた言葉による書物の中の「内面世界」は、そんな簡単で単純ではない。
…説明文分野と物語文分野という固定的でつたない仕分け!?を、「読書」は、遥かに凌駕していることが多い。
●実のところ、文章空間には「想像力」と「思考力」とが常に交錯し、相等しい分量で重層化しているものであり、平盤な「ジャンル分けハウツー読み」は、読書が持つ「浸りきって読む」「作家の感性や考えと対時する」等の読みと遠く隔たる。
(例)宮沢賢治「やまなし」
〜〜〜〜
「兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら」
「三びきは、ぽかぽか流れていくやまなしの後を追いました。…その横歩きと、底の黒い三つのかげ法師が、合わせて六つ、おどるようにして、やまなしの円いかげを追いました。」
〜〜〜〜
について考えてみよう。
赤字は数学的で、青字は自然科学的幾何描写である。つまりは客観的で論理的である。また、緑字は描写の濃い文学的叙述であり、想像性に満ちている。
しかし、意外なことに、赤字や青字箇所の数学的で自然科学的描写の総和が、逆の結果として、見事なくらい『限りなく透明な清流の川底』を強烈に想像させずにはおかない。「四本の足の中の二本を、底に投影したその「かげ」「合わせて六つ」が川底に映る「やまなしの円いかげ」を鬼ごっこのように追いかける。なんとユーモラスな光景であることか。つまり、数字や形といった数学的・自然科学的客観記述の「論理」が、結果として「非合理的な想像性(イメージ)」としての「清涼感」「透明感」ある光景に転移する瞬間である。『これほど微細に隈なく見えるのか…』という思いの醗酵を数学的で自然科学的描写の総和は、読者に促して止まない。
一方、「ぽかぽか」と流れていくやまなしの様態や「おどるようにして」やまなしの丸いかげを追うカニたちの様態が、描写性色濃い故に、当然ながら、これら二者の様子を軽妙に文学的な「想像」に駆り立てることは自明である。
しかし同時に、「ぽかぽか」と流れていくやまなしと「おどるようにして」やまなしの丸いかげを追うカニたちの様態を客観的に背骨から支えるものは、一体何か…。
…自然の摂理(客観論理)が見えてはこないだろうか…。
それは、決して緩やかではない清流の流速であり、川床の起伏なのである。
川床の凹凸は、流水の水面を上下動させ、「やまなし」を「ぽかぽか」させる…。
また、決して緩やかではない清流の流速は、真横に移動しようとするかに達の歩みを、「おどるように」あおり続けるのである…。
読者の目が「文学的まなざし」から「自然科学的まなざし」に転化する刹那である。 そして、「かげ法師」という素敵な文学的比喩は、透明な清流のかに達の上方から日光が差し込んで「そのかげ」を「川床に映し」ていることを、「自然科学的」に読者に気づかせてくれもするのである。二次元的画面に「水の深さ」や「空中の高さ」が加わり、「場面」が、漸く立体空間化される。
つまり、描写の濃い文学的叙述が、その対極にある自然科学的な条件規定へと読者の目を誘いもするのである。自立的に動くというよりは、他律的に動かされることの質量が限りなく勝る二者、やまなしとかに達…。
「想像力」(イメ一ジ)と「思考力」(論理)の相互転移の妙…。
「想像性」や「論理性」を一本ずつそのまま読むだけでは、「平面的構図」と二次元的な配列しか見えない。
「想像力」(イメ一ジ)と「思考力」(論理)の相互転移の妙に気づいてこそ、作品世界は立体空間を手に入れる。作品空間の縦軸である高さが、初めて意識できるのである。
更には、「ぽかぽか」と流れていくやまなしと「おどるようにして」やまなしの丸いかげを追うカニたちの様態から、「流速」と「時間の流れ」が感得され「時間軸」が加わる。
ここで、読み手は、初めて、その作品の立体的空間中に、もう一人の登場人物の ように作中で遊び始めることができる。また更には、作品世界をもう一人の「書き手」のごとく、「再構成」し始めることができるのである。
「読書」の深い楽しさは、ここにある…。
「読書」というものは、このようにアンビバランツな二極である「想像力」と「思考力」の双方を動員し、掻き立て、深く広い「読み味わい」を私たちや子ども達を誘い、迫り続ける…。
「読書体験」には、そんな奥行きと拡がりとがあるものである。
5・6年教科用図書の教材としてしばしば配当される宮沢賢治の「やまなし」について、教師主導・児童不在の難解な読解抽入指導を架けなさいといっているわけではない。
ふり返れば、長い教師経験の中で言えるのは、「読み」が深さを増して競り上がってくる子ども達の中には、深い「読書体験」から得た智恵で、上記した内容を看破し、意見・ 感想としてその気づきを述べる5・6年生が幾人かクラスにいたものだ。勿論、私のようにこね回した修辞句や概念語による理屈の姿をとらず、極めて直感的であったり、可愛い懸命な論理であったりもしたが。それらは、間違いなく活きた気づきの実感としての発露であった。
こうした子ども達の出現の可能性に備えてどのような反応も受けとめ得る支援者でなければならないし、だからこそ私達は誰よりも良き読書人でなければならない。
書物という「川」を流れ行く「いかだ(筏)」である子ども達を暗底から目立たず支える「船頭」こそ、私達である。
上記の小理屈も、実のところ、過去の子ども達の反応の数々を整理し、小賢しく論理化したに過ぎない。
読書指導に当たって最も大切なことは、指導者の深く広い支援の掌であり、子ども達の「読書体験」は、この一点に掛かっているのである。
3. 読書における自由性に保証された子どもたちの言語陶冶
読み方や選び方も含め、本来的に読書は個々の子どもの手に総て委ねられている。
蘆田恵之助ではないが、書物の「川」をなすがままに流れゆく「いかだ(筏)」は、子ども達に他ならない。しかし、一方、瀬や淵に隠れる岩をめざとく見つけ、船が座礁しないように、経験知からそっとそれらにサオを差し入れ、
「流れの為せる仕業かな…」
と、ぼけてみせる「船頭」は、我々指導・支援者に他ならない。
誉め言葉や励ましの評価は、唯一、豊かな「読書体験」への促しとそれと一体化した言語陶冶に向けられたものである。以下提示するワークシートも、これ以上の意図を持たない。
「読書」は常に「ひとり読み」に始まり、そして、「ひとり読み」で終わる…。
船頭は、「読書」を「読書体験」化させることに、暗闇で、てぐすねをひきつつける…。
「読書体験」化とは、筆者の内面に読み手の子ども達が触れることに他ならない。
引用元
第60回読売教育賞受賞論文 『「読書」こそ、国語力の礎 〜「読書」する楽しさを求めて〜』 興津洋男先生より引用
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