みんなでつくろう!「特別の教科 道徳」(畿央大学「学びを結ぶ」ワークショップV 島恒生先生)

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目次

1 はじめに

本記事は、2017年8月9日に畿央大学(奈良県)で行われた「学びを結ぶワークショップV」において開催された、島恒生先生の講座を取材・編集したものです。

「学びを結ぶワークショップV」は、教育現場における教育力向上の一助となることをねらいに、畿央大学現代教育研究所が主催するワークショップの第5回目です。

  • ワークショップ①「聴き上手になろう!話を引き出すコミュニケーションの基本」
  • ワークショップ②「始まる!小学校でのプログラミング教育~Scratch体験~」
  • ワークショップ③「みんなでつくろう!「特別の教科 道徳」」

の3講座が開催され、うち実際にパソコンを用いたプログラミング体験が主なコンテンツとなるワークショップ②以外の2講座を、EDUPEDIAで記事として公開しております。

畿央大学現代教育研究所→こちら

2 ワークショップ

①特別の教科 道徳

「特別の教科 道徳」という教科は、次期学習指導要領の先取りだと考えています。

「考え、議論する道徳」というのは、次期学習指導要領と照らし合わせて考えると、「自立的に考え、協働的に議論する道徳」と言い換えることができます。
 これがどういったものか考えるために、真逆の授業を考えます。真逆の授業とはなんでしょう? それは「先生が一方的に喋り、教え込む授業」です。「伝達型」と言ってもいいでしょう。

それを越えた「主体的で深い学び」を目指していくわけですが、実は「主体的・対話的なだけ」の授業、あるいは「深い学びだけ」の授業というのは簡単なのです。

前者の例として、上手くいかなかった総合的な学習の時間があります。子どもたちは喜んで、友達と楽しく活動しているものの、結局何を学んだのかよく分からないという状況ですね。後者の例としては、進学塾で徹底的に解き方を教え込むことが挙げられるでしょう。子どもたちは深い学びができますが、学ぶ喜びや意見交換の楽しさといったものを味わうことは難しいでしょうね。

②喋らない授業

道徳の授業の理想形として、「教師が喋らない授業」があります。喋らない授業というのは、教師が何もしない授業とは違います。喋る方が楽なのです。喋らない授業ではたくさんの仕掛けを打たないといけないので、時間も手間も掛かります。

喋らない授業を実現するために大事なのは、「問いの質」と「考え合う集団をつくる」ことです。教師が説明しないわけですから、子どもが「えっ?」と思わなければ、授業が進みません。2020年からの大学入試では、答えが1つに定まらない問題が主流になると言われています。こうした問題に立ち向かうためには、道徳のように、答えが1つではなく、最終的には自分自身が納得できる答えを探す学習が重要になってくると思います。

【ワーク『ブランコ乗りとピエロ』】

それでは実際に、ワークをしてみましょう。
教材は『ブランコ乗りとピエロ』、小学校高学年の「広い心・寛容・相互理解」の単元です。この教材を用いた授業の中心発問を考えましょう。『ブランコ乗りとピエロ』の内容は、以下のリンクをご参照ください。

参考リンク:文科省HP「私たちの道徳 5・6年(PP.84-87)

この単元の目標は「広い心・寛容・相互理解」です。
 日常生活の中で、子どもたちはいろいろと対立します。「あいつ腹立つなあ」と、自分と考えが違ったら腹が立つんです。カッカカッカしてます。そんな相手に対しても許しあい、相手の考えをしっかり聞くことが大切だということをみんなで考えるわけです。

「サムはどうして最後まで演技をやりきったのだろう」
 「サムとすれ違ったとき、ピエロは何を考えていたんだろう」

なども決して悪い発問ではありませんが、ねらいにつながるかと言われると、果たしてどうでしょうか。もう一つ考えてみましょう。

「サムとピエロの仲が悪いままだったら、サーカス団はどうなっていただろう」

はどうでしょうか。おそらく、サーカス団はぐちゃぐちゃになってしまいますね(笑)

しかし、「喧嘩ばかりしていたら集団が上手くいかずぐちゃぐちゃになってしまう」ことは、高学年が学ぶことでしょうか。少し質問が幼くないですかね。低学年の子が喧嘩をしているとき、2人の手を取って握手させ、仲直りさせたことが皆さん一度はおありかと思います。
 高学年の子は、許しあった方が上手くいくなんてことは知っているんです。でも腹が立つんですよ。許せないんです。それでも、教師はそれをどう乗り越えるか、教えていかなくてはいけません。

ずばり、中心となる問いは「ピエロの心から憎む気持ちが消えたのはなぜだろう」などが考えられるでしょうね。

そして、この問いが子どもたちにとって主体的・対話的になるためには、​第一発問は非常に重要です。

第一発問は、「カーテンの隙間からサムの演技を見ているピエロはどんな気持ちだっただろう」が一例です。ある授業では、子どもたちから「むかつく」「許せない」「追い出してやりたい」といった答えが返ってきました。子どもたちも、腹が立つ相手には同じようなことを思っているのでしょう。

だからこそ、この発問は非常に重要です。子どもたちがサムに共感しているときに、「でも、この気持ちが消えてしまったっていうんだ。どうしてだろう」と問いかけることで、頭の中にクエスチョンマークを浮かばせるのです。聞かれたから答えるのではなく、自然と考えたくなる発問が大事です。

③聞きたくなる、言いたくなる

こうした発問ができたときの子どもたちの反応には特徴があります。
 一瞬「えっ?」と動きが止まり、次の瞬間には隣の子と「こうだよね?」「どう思う?」と話しはじめるのです。他の人の意見を聞きたくなる、あるいは自分の意見を言いたくなるのです。

このことを考えると、道徳の授業をするときは、隣の子と机がくっついている方がいいと思います。子どもたちが主体的に話したいと思ったときに、一人で考えざるをえない席配置は得策ではありません。対話的な学びの機会を奪ってしまいます。

④氷山モデルで考える

道徳科というのは、物語のなかをうろうろしているだけでは学びになりません。
もちろん物語の筋がとらえられていることは必要ですが、それは道徳の学びではないのです。

では、どのように学びを深めるのでしょうか。

「ピエロの心から憎む気持ちが消えたのはなぜでしょう」

という問いに対して、子どもたちは一生懸命考えて「自分も目立ちたかったから」「サムの演技がすばらしいと思ったから」といった答えを返してくれます。これに対して、「そうだね。では、君たちは許しあえているかな?」という授業が、現在多く行われているパターンではないでしょうか。

現行の道徳の授業は、登場人物の心情の「読解」にとどまっていることが多いのです。

上記のような授業では、「許しあった方がいいのは分かっているけど、でも許せない!」という子どもたちには響きません。もうひと押しが必要です。自分も目立ちたかった、あるいはサムの演技がすばらしかったことが、なぜ憎む気持ちが消えることにつながるのかということを考えさせるのです。

私たちはとかく人を非難しがちですが、そのようなときは、自分にも何か足りないものがあるのです。相手に腹を立てることで、自分の足りないところを隠しにいくわけです。ここを話し合います。
 さらに、意見が対立することはよりよいものが生まれるチャンスなのです。違いは豊かさになるのですね。広い心はそのために大切であることをみんなで話し合うのです。

⑤できるだけ話させる

考え、議論する道徳の授業を作るとき、先生が子どもたちの言いたいことをすぐ理解してしまうのはよくありません。子どもたちにできるだけ喋らせないといけません。
 そのための一番簡単な方法は、「先生が分からないフリをする」ことです。幼稚園や保育園の先生は分からないフリを演じることに非常に長けているので、ぜひ見習うべきだと思います。

教師がねらいとしている意見が出てきても、さらに「どういうことなの」と粘りましょう。
 子どもたちから「先生、例えば……」という言葉が出てきたらしめたものです。

「この前の児童会で1組と2組の意見がぶつかったんだけど、司会の○○くんが2つの意見のいいとこ取りをしてくれて、すごくいいものができたんだ。それと同じだね!」

なんて言ってくれたら素晴らしいですね。

こういった深い発問をしたとき、子どもたちは物語と自分の経験を引きつけて考えはじめます。なぜなら、本文に書いてある内容を超えているからです。これこそが、自分たちの心の中にも素晴らしいものが育っていると気づくこと、すなわち「道徳的価値の自覚」なのです。道徳の答えは、本文の中ではなく、子どもたちの経験や考え方の中にあるのです。

これからは、無いものを教え込むのではなく、育ててきたものに気付かせる、「開発リソース」の考え方が必要になってきます。プラス思考で子どもたちのいいところを見つけるという考え方は、幼児教育や特別支援教育などをはじめとした教育に浸透してきていますが、道徳はいまだにその対極にあります。そこを変えていかないといけません。

皆さんの学校にも、道徳教育重点内容項目がありますよね。全国どこでも「友情・信頼」「思いやり・親切」「規則の尊重」「生命の大切さ」あたりを定めているところが多いと思います。どの目標でも、何故その目標を定めたかと問えば、おそらく「子どもたちに欠けているから」という答えが返ってくるでしょう。欠けているものを身に着けさせようとする教育は、すべからく伝達型の教育になってしまいます。教育活動全体で育ててきたものを子どもに気付かせる、それが重要なのです。

今の子どもたちは「他の子からどう思われるか」を基準に行動を選択しがちです。しかし、様々な道徳的価値を自覚して、様々な考え方を知っていればいるほど、子どもたちは主体的な判断ができるようになります。これこそが道徳教育の目指すところです。

⑥道徳の「指導」

道徳の授業の「ねらい」は、学習指導要領のまま書いたり、方法について書いたり、国語のように読解について書いたり……といった形では、なかなか上手く焦点化できません。

例えば同じ「正直」について扱っている単元でも、低学年、中学年、高学年、そして中学校では当然「ねらい」は変わってきます。道徳では、発達の段階を踏まえた指導が重要視されています。実際に、新しい解説書では、「正直」の項目の中に低学年から高学年まで並べることで、違いがはっきり見えるようになっています。

この板書は、心情理解の授業になってしまっていますね。

この板書なら、「ねらい」が構造的にわかるので、とてもいいと思います。

⑦道徳の「評価」

最後に道徳の評価についてお話ししますが、そもそも道徳は成績をつけるわけではありません。道徳の評価は「児童・生徒の理解」です。そこのところを外してはいけません。そして、指導あっての評価、評価あっての指導ですので、ここも大事なところです。

幼稚園の先生の評価を思い浮かべてもらったらいいと思います。幼稚園の先生は、子どものよいところをしっかりと見つけて、「○○ちゃんすごいね、こんなことが出来るようになったね」というのを保護者に伝えますよね。それと同様に、その子の真価や成長を見つけ、励ますのが道徳の評価です。

評価には以下の3つがあると言われています。

  • evaluation(値踏み)
  • assessment(診断)
  • appreciation(真価を認めて励ます)

道徳は2つ目のassessmentととらえることもできますが、やはり3つ目のappriciationに一番近いでしょうね。

道徳科の評価をする際には「大くくりに考える」ことが必要になってきます。
 大くくりにして考えるというのは、個別の内容・項目について評価するわけではないということです。もちろん毎時間の授業では個別の内容・項目で児童生徒理解をしていく必要がありますが、道徳性そのものを評価するのではないので、指導要録では学習状況や成長の様子を大くくりにしてとらえることが求められています。通知表も、それを参考にすることになるでしょう。道徳科での学習状況や成長の様子を大くくりにとらえながら、その子どもの励みになるような通知表になればいいですね。

ここまで評価について話してきましたが、結局のところ一番大事なのは、授業で子どもを本気にさせられるかです。

子どもたちにとっても、大事なのは授業です。子どもが思いっきり考えられる授業では、子どもたちはどんどんと乗ってきます。そして、先生方も楽しくなってくると思います。ぜひ頑張ってください。

3 プロフィール

島 恒生(しま つねお)
 畿央大学大学院教育学研究科 教授

<経歴>
* 奈良県公立小学校、奈良県立教育研究所を経て、現在に至る。
* 中央教育審議会専門委員(初等中等教育分科会道徳教育専門部会)
* 文部科学省『小学校学習指導要領解説 総則編』『同 特別の教科 道徳編』作成協力者
* 文部科学省「道徳教育に係る評価の在り方に関する専門家会議」委員

4 著書紹介

5 編集後記

道徳の教科化の最前線に立っていらっしゃる島先生のお話には、具体的なコツや心構えがたくさん紹介されており、ワークショップに参加された先生方も楽しそうにワークに取り組んでおられました。道徳科の導入に際して悩んでおられる先生方には、是非参考にしていただければと思います。

(取材・編集:EDUPEDIA編集部 中澤歩、髙木敏行)

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