中学歴史〜班田収授法と奈良時代のくらし〜(自主学習用教材「こころの窓」第8回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第8回「班田収授法と奈良時代のくらし」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

こんにちは。今日も「こころの窓」を開けてくれてありがとう。

では、今日もがんばりましょう。

今日のお題は「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と奈良時代のくらし」です。

この前の時間に出てきた律令政治がはじまると、それまで豪族たちが支配していた土地や人々を、いったんすべて天皇に返しました。これを公地公民(こうちこうみん)といいます。なぜこんなことをしたかというと、天皇のものとなった土地を、6歳以上のすべての男子に口分田(口分田という田んぼのこと)として与えたのです(女子は男子の3分の2でした)。そして、与えた田んぼから、毎年決まった税(租、調、庸)を国に払わせたのです。この制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と言います。また、死んだらこの土地は国に返したのです。こうして集めた税金で、天皇は政治をしました。

下の表がその税の種類です。

しかし、よく見てもらうと、ものすごく不平等な制度だということが分かりますか。そうなんです。女子は、租だけ払えばいいのですが、男子は調や庸の税と、さらに、雑徭(ぞうよう)や兵役(へいえき)の義務があったのです。また、租はそんなに高くなかったのですが、調や庸はものすごく高く、さらに、雑徭や兵役はたいへん厳しかったのです。あまりにも男子に厳しい制度でしたので、戸籍の性別や年齢をごまかしたり、土地を捨てて村から逃げ出す人も出てきたのです。これでは税が集まらないので、天皇は、734年に、墾田永年私財の法(こんでんえいねんしざいのほう)という法律を決めて、新しく自分で開墾した土地は、税は取りますが死んでも国に返さず、永遠に自分の土地にしてもいいことにしたのです。これで少しは、逃げ出す人も少なくなったのですが、自分の土地を持つことを認めたので、これが後に出てくる荘園(しょうえん・・私有地)の始まりなのです。

話は変わりますが、下の絵は、当時の庶民の食事です。玄米のご飯と青菜の汁物と塩です。今の食事と比べると質素(しっそ)ですね。しかも、一日2食でした。一日3食になったのは江戸時代からだそうです。この食事で、一日中働かされていた当時の人々の生活は厳しかったでしょうね。

はい。お疲れ様。今日も新しいことがいっぱい出てきましたネ。難しかったですか。

では、復習問題へどうぞ!

復習問題

1.班田収授法がつくられると、農民は戸籍の性別をごまかしたり、口分田を捨てて逃げ出すようになります。これはなぜでしょうか。

租は収穫高の3%でしたので、そんなに農民にとって厳しい税ではなかったが、男子だけに課せられた調や庸は、とても厳しい税でした。さらに、男子には、雑徭や兵役の義務まで課せられたので、生まれた子どもが男子でも、女子だということにしてごまかしたり、それでも、どうしようもない時は、口分田を捨てて村から逃げ出したのです。

2.班田収授法は、なぜこんなに男子に厳しい制度だったのでしょうか。自分なりに想像して書いてみてください。

当時はまだまだ、男性中心の社会だったので、女子には口分田を与えても、そんなにたくさん税はとれないと考えました。また、雑徭の仕事や兵隊の仕事も、男子にしかできないと考えたから、女子には厳しい税や兵役の義務を与えなかったのです。

3.当時の庶民の食事を見ると、現代の私たちの食事とどのように変わったと思いますか。

一般の庶民は、今みたいにたくさんのおかずを食べなかったのです。玄米のご飯と汁ものと塩だけで済ませていたのです。また、税も高かったので贅沢はできず、一日2食だったのです。

日本人は、江戸時代まで一日2食だったのですね。お腹がへりそうですが、一日2食の方が、健康でいられるのかも知れませんね。

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第8回「班田収授法と奈良時代のくらし」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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