中学歴史〜日露戦争〜(自主学習用教材「こころの窓」第53回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第53回「日露戦争」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

こんにちは。今日もがんばりましょう!

今日のお題は「日露戦争(にちろせんそう)」です。

清が外国の侵略を受け続けるなかで、清の農民たちが立ち上がり、外国人を追い出そうとする動きが起こりました。これを義和団事件(ぎわだんじけん)といいます。この反乱を日本やロシアやヨーロッパの国々が軍隊を送り込んで鎮めました。その後、ロシアが兵を引き上げずに満州や朝鮮に勢力を広げようとしたので、日本はこれを阻止しようとしてロシアと対立しました。また、日本と同じようにロシアが満州や朝鮮に勢力を広げることを良く思っていなかったイギリスと考えが一致したため、日本はイギリスと日英同盟(にちえいどうめい)を結びました。そして、イギリスの後ろ盾を得た日本は、1904年に、とうとうロシアとの戦争を始めたのです。これを日露戦争(にちろせんそう)といいます。

朝鮮半島と満州が戦場となり、戦況は一進一退でした。日本軍は旅順(りょじゅん)や奉天(ほうてん)で、勝利しましたが、長引く戦争で日本もロシアも戦争を続けていくことが、だんだんと難しくなっていきました。しかし、そんななかで東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が指揮した日本艦隊が、ロシア最強のバルチック艦隊を撃破したのです。このことで、ロシアは戦争を続けることが完全に不可能となり、1905年にアメリカが仲介に入り、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ日露戦争は終わったのです。ここで結ばれた条約をポーツマス条約といいます。この条約で、日本が朝鮮を支配することをロシアが認め、旅順と大連とその付近の鉄道を日本に渡しました。また、樺太(サハリン)の南半分を日本に渡しました。しかし、賠償金をロシアから取ることができませんでした。そのために、これに不満を持った日本の民衆が、日比谷焼き討ち事件という暴動も起こりました。ただ、日清戦争に続いて、弱小だった日本が、大国ロシアを倒したというニュースに、世界中がびっくりしたのですヨ。

これらの戦争とは別に日本政府は、日本が外国と結ばされた不平等な条約を改正するために、いろいろな取り組みを続けてきました。欧米人を迎えて舞踏会を開いてもてなしたりもしました。しかし、なかなか改正までは進みませんでした。そんな中で、清やロシアとの戦争で日本が勝利したために、日本の存在が外国に認められはじめ、1894年に陸奥宗光(むつ むねみつ)によって、治外法権の廃止に成功しました。さらに、19191年には小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって、関税自主権の回復にも成功したのです。よかったですね!

いかがでしたか。では復習問題へ!

復習問題

1.なぜ、日本とロシアが戦争をすることになったのか。その原因と結果についてまとめてください。

清が外国の侵略を受け続けるなかで、清の農民たちが立ち上がり、外国人を追い出そうとする動きが起こりました。これを義和団事件といいます。この反乱を日本やロシアやヨーロッパの国々が軍隊を送り込んで鎮めました。その後、ロシアが兵を引き上げずに満州や朝鮮に勢力を広げようとしたので、日本はこれを阻止しようとしてロシアと対立しました。また、日本と同じようにロシアが満州や朝鮮に勢力を広げることを良く思っていなかったイギリスと考えが一致したため、日本はイギリスと日英同盟を結びました。そして、イギリスの後ろ盾を得た日本は、1904年にロシアとの戦争を始めました。これを日露戦争といいます。朝鮮半島と満州が戦場となり、日本軍は旅順や奉天で、勝利しましたが、長引く戦争で日本もロシアも戦争を続けていくことが難しくなりました。

しかし、そんななかで東郷平八郎が指揮した日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を撃破したため、ロシアは戦争を続けることが不可能になり、1905年にアメリカが仲介に入り、ポーツマスで講和会議が開かれ日露戦争は終わりました。

2.ポーツマス条約の内容についてまとめてください。

この条約で、日本が朝鮮を支配することをロシアが認め、旅順と大連とその付近の鉄道を日本に渡しました。また、樺太の南半分も日本に渡しました。しかし、賠償金をロシアから取ることができませんでした。

3.日本が結ばされた不平等な条約の改正について、その内容をまとめてください。

欧米人を迎えて舞踏会を開いてもてなしたりしましたが、なかなか改正までは進まなかった。しかし、清やロシアとの戦争で日本が勝利したために、日本の存在が外国に認められはじめ、1894年に陸奥宗光によって、治外法権の廃止に成功しました。さらに、19191年には小村寿太郎によって、関税自主権の回復にも成功しました。

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第53回「日露戦争」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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