今こそ、社会科の先生に求められる「意識」とは(前編)

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目次

1 はじめに

 本記事は2022年5月10日に東京学芸大学にて社会科教育学を教えている渡部竜也先生にインタビューを行った際の記事です。今の日本の教育現場における「現場の先生方にはどのような意識が求められるのか」について、主権者教育を研究なさっている先生に、社会科の観点からお聞きしました。この記事は二部構成になっていて、第一部では主に授業評価について、二部では主にグループ学習について取り扱っています。こちらは第一部にあたります。

2 まず最初に、先生のご研究について伺いました

 私は社会が政策・規範・ルールをどのように作っていけるか、そしてそこに教育がどのように寄与していけるかという観点から研究していて、それが主権者教育のルーツになっています。

 フィールドはアメリカの教育で、普通は学問があって学問をどう国民に伝えていくかという発想なのですが、アメリカの場合は社会生活のなかで教育というものの意味を考え直すというところに特色があります。

 例えば「歴史学は学ぶ必要があるのか?」 と思ったことはありませんか。必要のない能力を問われて、減点されてしまう場合もあったと思います。それでもやるとしたら学ぶ理由をどういう風に伝えていかなければいけないのか、ということをアメリカは議論しており、戦後の日本もアメリカに占領された時に、その議論がありました。

 アメリカの議論から読み取れること

 私は主権者教育の中核を形成している、価値問題、価値が形成されてきた過程や議論をみていく学習法に興味があります。諸外国だと選挙の教育に熱心ですが、アメリカはあまりやりません。それよりもどういう政策や価値を自分たちで作っていくかに向き合っているのです。政策といったら政治の話になりますが、部活や学級のルール作りでもいいし、なんとなく正しいと思われている価値やものを問い直していくのでもいいと思っています。これらの問いには必ず議論があって、そこに注目していきながら授業をしていこう、自分たちで価値を作っていこうという教育に力点をおいて関心を持っていきました。

3 先生からの「評価」に関して

Q1 アメリカにて「政策内容を重視し、議論する」授業を展開していくなかで、それをどういう形で生徒の評価につなげているのですか。

 いきなり難しい質問ですね。評価に関してはまず、主権者になることをどうやって評価するのかという問題点があります。容易にはできないし、「3から6年間で主権者になるのか」と言われたらそこから怪しいと思います。「主権者になる」という言い方自体おかしいとも思います。みんな生まれたときから主権者であるはずです。主権者教育は、「主権者ではあるけれどもっと主体的に活動できる人たち、ないしは主権者として未熟な人たち」をフォローできる存在になれるようにしようといった教育だと思っています。

「主権者教育=主権者になる教育」ではない

 主権者教育は主権者になる人のための教育とすると、主権者ではない人が発生してしまい、格差問題を引き起こしてしまいます。「賢くない人に政治を任せてはいけない」 という発想は危険で、でも「何も考えないで判断していいですか」というわけにもいかないはずです。みんなで納得するものを作ろうと思えば、賢くなればよいだけではなくて、議論するなかで「議論が苦手な子」や「考えていなさそうな子」などもいれながら意見を言っていくような雰囲気を作っていくことが求められてくるのです。

知育だけやればよいのか

 一昔前は知育だけやればよいという時代がありました。評価でき、説明責任を果たせるのは知育だから、知育に徹底すればよいといった意見もありましたが、私としてはとても疑問でした。一つは、「市民=知識のある人」という議論になるだろうから、例えば勉強できない人は市民として参加したくないとなるでしょうし、「賢い人が決めればよい」という風になってしまいます。学校教育がそういう空間を作るのは違うかなと思っていて、学力がばらばらの人が議論するなかで、それぞれの人の根というものを出していき、いろんな視点を見つけ出していくということ自体が本当は大切だと思います。そのことを参加者たちは理解して、上手く説明できない人がいたとしても、代弁をするなどというところを含めて、みんなでいろんな視点を見つけ出していくということができる能力を育成しようと思います。

 学校教育は知育中心の教育から脱却していくことでそういったことを広くカバーしていけるのではないかというのがあって、アメリカでもそのような方向に議論が進んでいます。その通りだなと思いましたが、そうなればなるほど評価自体は難しいのです。

Q2 完全に主権者教育に重きを置いて、評価という方法自体をやめるべきですか。それとも、他の主権者教育を入れつつ、最低限の知識や大事なところを講義型の授業で補っていき、そこを評価していくべきだと考えますか。

 後者だと思っています。まず「主権者教育」に関しては主権者という理想像を決めすぎたり、具体化しすぎたりするのはよくないことと思うのです。「私はこんな形で社会に参加していきたい」というものを自分なりに描ければよいのです。そのなかで自己評価をする方が大切で、第三者が理想像を評価すべきではないと思います。

 その上で基礎となる部分については評価してもよいとも思っています。社会の諸問題について議論するなら、根本的知識からものの見方、グループ議論時の配慮やコミュニケーション能力などに関しては多少評価してよいと思っています。どこまで評価し、どこから評価しないのかという議論が難しいところです。

人それぞれが持つ、理想にできる人の存在

 社会を見たときに理想にできる人がそれなりにいると思っていて、誰を理想とし、自分がどこに近づきたいかはそれぞれの生徒に任せてよいのではないでしょうか。市民としてのあり方というのを描いてほしいと思っていて、一つ言えることは、どこかの集団に所属して集団の中である程度活動ができるようになってほしいということです。そのあり方については部活の先輩でもよくて、何か理想となるあり方を見つけて自己評価をしてほしいです。だから理想が変わるかもしれないし、変わってもよいというのが私の考え方です。

評価に関してのご意見

 評価というのは怖くて、あまりやりすぎると洗脳や統制になってしまう側面があります。しかし評価を全然しないと、無責任となります。そのバランスが私にも分からないところがあって一番難しいです。実際どう評価しているのか、外国の情報も集めながら、大いに議論していかなければいけないと思っていますが、そもそも主権者教育を行っているところが少ない現状があります。一方で、評価をしなくてもよいのではないかといった考えもあって、評価することが大切だと思うのなら、自分の中で自己評価をするのではないか、「自己評価に重きを置くべきだ」というのが本音ではあります。ただ、何か成績をつけないといけないはずなのです。学校の先生、ないしは学校という組織が外部に説明責任を果たしたいと思ったとき、評価を全くしないわけにはいかないでしょうから。

不自然なパフォーマンス評価

 評価できることしかしないという発想は危ないと思います。結局見えるものだけを評価して、それができればいつか使えるようになるはずだという議論は結局、旧態依然の教育論になってしまうのではないかと思います。しかしながら今流行っているパフォーマンス評価などに対しては、何か違和感があります。とても不自然なのです。例えば、「江戸幕府が300年続いた理由を記述せよ」という問題が「〇〇博物館で今度君たちは発表することになりました、プレゼンしてください」と変化しただけであって、あまり本質的には変わってないのではないかと感じるのです。

 このような変化はプレゼン能力がついてきただけで、「それがアクティブラーニングだ」というのはどういうことかと思ってしまいます。「何のためにあるのか、学ぶのか」が伝わらないところが一番の問題です。それならば、「なぜ東大・京大はこんな問題を好むのか」、「どこの入試問題で出されているか」という話をした方がましです。この江戸時代の例でいえば、支配する側にとって考えなければいけないテーマなのです。東大・京大の学生は為政者になるのですから、世の中を治めてシステムをどう作るかを考えるときの参考になるということです。そして、一般市民も同じ視点でやれた方がよいとは思ってます。エリート層はどのような「ものの考え方」をしていこうとしているのか、自分はどうその問題について考えるのかという風にした方が自然な文脈だと思うのです。

「何のために学ぶのか」を伝えるべき

 まず、「何のために学ぶのか」がわからないと、子ども自身が納得いかないと思います。例えば「タイムマシンにのって歴史上の人物にアドバイスを行う」という未来の目線から語る授業などがありますが、「未来の人は結果を知っているからいろいろ言えるよな」と子どもでも思うはずです。生徒も受験が近づくまでは「なんで学んでいるのか」を考えるなどします。なぜ学んでいるのか見つからないから受験と接続して考えさせるケースさえあります

 学校は「こういう場面で使うんだ」や「こういう日常で使っている」というものを見せていかなければいけません。だからこそ私は、みんな最初から主権者なのですから「主権者」という観点がとてもいいのではないかと思っています。この問題は、これから社会というところに自分が出るなかでどんな場面で実際に使われたり、問われたりするのか、そしてそれはなぜなのかということを考えてみる行動は非常に大切です。

 なぜ考える必要があるのかという説明を先生ができないまま、授業を続けてしまうというのは最悪です。先生自身が「実は意味がわかっていません」と言っているのと同じだとも思います。先生自身も自分で考えるようになってほしいです。

 Q3 主権者教育を展開していった場合、「評価」以外に考えなければならない問題にはどのようなものがありますか。

 1つは政治的中立性についてで、これを必要以上にふりかざす人、そして必要以上に恐れる人がいます。私はダイアン・ヘスさんの本の翻訳を行っていて、そのヘスさんは学校の先生が授業中に政治的に中立とは思えない発言をするという実験をしたのです。ある党や政策の批判をして、子どもが先生に意見を求めてくることもありました。そして先生が政治的に中立でないことがどれだけ子どもに影響を与えているかを高校生を対象に調査していて、アメリカの事例ではありますがほとんど影響していないといった結果が出ているのです。日本に当てはまるものかどうかは私のゼミ生のOBが調査して進めていっている状況です。この問題はデータを取っていくべきです。

子どもは友達の目の方が怖い

 また、子どもは高校生になると先生の目ではなく友達の目が怖いそうです。先生がどう思っているかについて先生の顔色を窺っている人はあまり多くないですし、議論をする人は大なり小なりバランスを取ろうとします。全くバランスを取ろうとしない人はあまりいないし、いたとしても子どもは「バランスを取らない、偏った考えを持っている人物だ」と思って聞いています。子どもは合わせているだけなのです。先生が政治的中立を取っていないと「洗脳だ」といって外で議論しているケースがありますが、データを見る限り議論に値しないと思います。むしろある発言をしたときに、「引くわ」や「あいつ全然考え方違うから付き合いたくない」といった友達の目を怖がってしまっています。特に少数派の意見を持っている場合は、相当言いにくいのです。

4 (授業における)「生徒からの評価」に関して

Q4 授業を振り返るという意味合いも含めて、「生徒からの授業評価」を取り入れていくということに関してはどう思いますか。

 生徒からの授業評価に関する研究は海外にも存在しますが、子ども自身、自分の評価を行うことがとても難しいのです。それは子どもが先生の目線で考えることを意味するからです。まず先生側から明確に「何のための授業なのか」や「どのような狙いで授業をやっているのか」というのは言うべきで、評価基準も示すべきです。その上でどう思うかを聞いていくべきでしょう。

実現することの難しさ

 一昔前に日本では教育委員会も選挙だった時代があります。アメリカがデータを取っていたことから、教育行政についてみんなで選挙して決めようとしましたが、ほとんどみんな選挙に行かなかったそうです。みんな「わからなかった」から。大人でも評価の実践というのはなかなか難しいことなのです。だから今は学校評議会という形で地域に参加するなどしている状態です。子どもも文句があれば親を通して、または直接先生に言ってくださいという対応はどんどんやっていると思いますが、そこをオープンにしてもなかなか議論できないと思います。批評会ができるところは本当に上層部か意識が高い学校になってしまうのが現実です。だから実際に「生徒の自己評価」に関する研究も日本の場合、付属学校の実践事例ないしは進学校のものばかりで、海外でもそのことが報告されています。理想ではありますが難しいのだろうと感じています。

5 プロフィール

渡部 竜也様

 東京学芸大学人文社会科学系人文科学講座社会科教育学分野准教授
広島大学大学院教育学研究科博士課程後期修了。博士(教育学)。
専門は社会科教育学、米国の教育思想、シティズンシップ教育論。
『主権者教育論』『Doing History:歴史で私たちは何ができるか?』『“国境・国土・領土”教育の論点争点』等、多くの著書を執筆している。
自身のHP等でも盛んに自身の主張を表明している。

6 関連記事

〇本記事の後編(後編では主にグループ学習について伺っています)

〇過去に渡部先生にインタビューした際の記事

7 編集後記(前編)

 受験期が近づくと「なぜその授業を受けているの」という問いに「受験で使うから」という答えが即座に返ってきますが、それ以外の時期では生徒は生徒同士でも「この授業何のために受けているの」と会話することがあります。そしてその意義を感じる授業と感じない授業とでは臨む姿勢が根本的に変わってきます。今後「生徒に伝える」という先生としての役割は授業目的の観点にとどまらず、「なぜそのような評価方法をとるのか」「どういう観点で評価しているか」といった観点からも必要になってくるのではないかとも感じました。
(編集・文責:EDUPEDIA編集部 石川智治、柳川悠月)

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この記事を書いた人

社会科教育学、哲学に関心があります。趣味はサッカーと「にしな」さんの音楽を聴くことです。

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