はじめに
当記事は、令和5年に開校した北海道の安平町立早来学園(あびらちょうりつ はやきたがくえん)にて、安平町教育委員会井内聖氏にインタビューした内容を記事化したものです。後編では、教育における場づくりの大切さや幼児教育をベースとした子ども観の重要性についてお話を伺いました。
当記事は2部構成の後編となっています。前編はこちらをご覧ください。
教育の対象は子どもではない!?〜「学校」ではなく「場」をつくる〜
学校の新設は世紀の一大事業
早来学園に存在しているものは、すべてそれぞれの意味を持っています。新設にあたり、多くの学校では考えないようなことまで熟考しました。なぜそんなことをしたのかというと、学校をつくることは世紀の一大事業だからです。基本的に、学校は10年や20年で建て替えません。現代の技術があればなおさらです。だからこそ、先を見据えた計画が重要になります。30年後の社会をつくるベースとしての学校を考えたのです。
今回学校を新設するとき、ツールにこだわりました。学校で使う道具の色を熟考したこともありました。最終的に、カラーサンプルを全色取り寄せて検討しました。デザイナーが「これは何色」「あれは何色」というように、学校全体のカラースキームを決めて統一感をもたせました。「なんでこの色なんですか?」と聞かれたときに、ひとつひとつに対して答えられるくらい環境に意味付けをしました。
教育の対象は「場」
教育はミクロな視点で考えられることが多いです。教室での授業や児童生徒の活動などがその例です。けれども、私は教育を「教育を提供する側が大切だと思う価値を、被教育者に与えること」と定義づけています。例えば、「新人教育」といいますよね。新人教育はその会社が大切にしている価値や、必要だと思う知識などを被教育者に提供することですし、「家庭教育」だと家庭が大切にしている価値やマナーなどを被教育者である子どもに提供することです。
つまり、教育は教育者が何を考えていて、何の価値を大切にするかで内容が決まります。これは、リズム学園(井内氏が学園長を務める学校法人)の考えになってしまいますが、教育の対象は子どもではないのです。なぜなら、子どもが対象だとして、子どもに価値や知識を埋め込んだとしてもそれで終わりではないからです。例えば、「この子にコミュニケーション能力をつけさせました」としても、その能力は雰囲気の悪い職場や人間関係のよくない集団でも発揮されるのでしょうか。人の資質・能力は、周りとの相互作用や相関関係において発揮されるものなので、個人の絶対的な能力でもなければ、個人に対する客観的な評価もしがたいです。それよりも「教育の対象は場」とし、「この場にどんな価値を埋め込むか」を考えられるかの方が重要です。価値が埋め込まれた場では、人は自然と育ちます。なぜなら、人は環境や人との関係性において、それぞれが育つ力を持っているからです。子どもの能力は、誰かが育てる、能力を伸ばすといった人的要因に左右されるというより、環境によって発揮されるものです。
そう考えると、この学校ではそういった場をつくらなくてはなりません。図書室は誰もが入りやすくて、居心地が良い場所になっています。環境はハード面だけではありません。「どうぞ、くつろいでいってください」という職員の雰囲気も環境であり教育の対象の一つです。
象徴としての図書室という場
前述した通り、施設環境だけでなく、人の言葉づかい、服装などを含めたすべてが教育の対象です。改めて言いますが、教育の対象は子どもではありません。こうした考え方が根本にあり、早来学園ができています。
「では図書室は教育的にどのような役割をもっているのですか?」というと、象徴的な役割です。教育の対象である場、ここでは早来学園を象徴するのが図書室です。「居心地いいよね」「誰が来てもいいんだよ」「自分らしくていいんだよ」というように。そうした価値観をここに埋め込む、という意味で教育的な役割をもっています。
主体性〜主体と客体の関係〜
ここまで、教育の対象は必ずしも子どもではないという話をしてきました。では、教育の対象を場ではなく、子どもにするとどうなるのでしょうか。答えはシンプルです。子どもの能力主義になってしまうのです。子どもが活動している場や周囲の環境、接している大人との関係性など関係なく、できる、できないの二元的な評価しか行われなくなってしまいます。主体性の問題も同様に考えられます。よく「主体的に」や「主体性をもって」などと言われることが多いですが、主体性とはどのようなものなのでしょうか。
主体性について考えるとき、多くの人は主体の話しかしません。「主体があるなら客体があるのでは?」と思いますよね。つまり、客体という周りの存在や主体と客体の関係に目を向けていないのです。
幼児教育では、子どもを見るときに、その子だけを見ていても主客の関係性はわかりません。「この子は何と繋がっているのかな? 何に興味や関心をもっているのかな?」と見ていくと、「泥団子なんだ」「子ども用バイクなんだ」というように「この子はこれなんだ」というのが見えてきます。その子がどの客体とどれくらいの興味の太さで繋がっているのか、それがどう変化していくのかを見ていくと子ども自身が見えてくる、というのが私たちの幼児教育の考え方です。
本来は、「主体性がどのような状態で発揮されているか」が重要なのです。しかし、主体性という言葉は、能動性や自発性と混ざってしまうことが多いです。主体性を論じるときに、客体という言葉が一切出てこないことに私は違和感を抱いています。これは、教育の対象を子どもにしていることと根本が同じです。「子どもしか見ていないのではないか?」ということですね。「もっと全体を見ましょう」。そして、「子どもが何を見ているのかに注目しましょう」と思うわけです。
反省から考察へ
リズム学園には「反省」が存在しません。「考察」からは学びを得られますが、「反省」はそうではないからです。考察は「なるほど、ここはうまくいかなかったけれど、ここは良かったよね」「これをもっと良くするためにはどうしよう」のように建設的なものです。一方で、反省は終わったことに対して減点評価で「ここが駄目でした」という批判的なものが多いです。学校にはまだまだ「反省」させる文化があると感じています。それも学校の先生の価値観に沿った反省です。子どもたちが「反省」ではなく、「考察」を通して自らの視点の少なさ、狭さ、浅さに気づき、自分で自分を律し、向上できるように支援する関わりが必要なのだと思います。
教育観・子ども観の重要性
地域全体での学校運営に取り組もうとしている地方公立校の先生へメッセージ
現場の先生方が、まず最初に変えられるのは授業だと思います。それは方法を変えるというのではなく、自分が今までもっていた教育観や子ども観を一度見つめ直し、そこから授業を再構成してみるということです。つまり、どれだけ学校施設を作りこんだとしても、授業が一斉指導・一斉授業の管理型で、児童生徒は未熟な存在という子ども観や教師の直接指導でしか児童生徒は育たないという教育観では何も変わりません。幼児教育では、0歳児や1歳児も有能な学習者という子ども観をもっています。小中学校の先生がどのような教育観や子ども観を持つかは、個人や学校に委ねられますが、自身の教育観や子ども観を見つめる機会を持ってほしいと思います。もし、教育観や子ども観を「見つめ直すきっかけがほしい」という場合は、ぜひ早来学園を一度見に来てください。揺さぶられるところは何かしらあると思います。
プロフィール
井内聖氏
安平町教育委員会 子育て・教育総合専門員
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早来学園インタビュー 前編
子どもの居場所と学びに関する記事 地方公立校の事例
編集後記
私は、早来学園を訪問させていただくまで、地方公立校の限界にばかり目を向けていました。しかし、訪問後の今は地方や公立だからこそできる地域全体での学校づくりがあると思い、地方公立校に可能性を感じています。また、地方と都市、公立と私立で行われている教育の内容を比較したときに、その違いを格差ではなく特徴として捉えられるようになりました。これからは、まちや学校に合った教育が行われ、教育の多様化が進むよう、全国の教育現場で子どもたちのための場づくりが行われていけばと思います。(知野)
早来学園を実際に見学するまでは、早来学園はごく一部の特殊な例であり、ほかの公立校や自治体で同様の取り組みを行うのは難しいのではないか、と感じていました。しかし、実際に訪問した後の今では、井内氏のおっしゃっていたように個人レベルからであれば早来学園のベースにある「子どもはすべて有能な学習者である」といった教育観を反映して行動に移すことができるのではないかと考えられるようになりました。この記事を読んで早来学園の行う教育に興味を持った方はぜひ一度訪れてみてほしいです。(角谷)
実際に校内を見学させていただきましたが、従来の公立学校とは全く異なる空間が校内に広がっていて、今までもっていた学校に対する私の価値観が大きく変わりました。井内氏の教育学への造詣の深さに感銘を受け、たくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。(吉田)
(編集・文責:EDUPEDIA編集部 知野皆弥・角谷圭太・吉田悠真)
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