「やまなし」で宮沢賢治が伝えたかった事は?

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「やまなし」の謎

光村図書6年生教科書に掲載されている「やまなし」(宮沢賢治作)は、印象深い挿絵とともに、長い間、教材として親しまれてきました。初めて掲載された年を特定することはできませんが、40年以上は掲載され続けているようです。

手元にテキストがない方は、「青空文庫」に「やまなし」が掲載されていますので、ご参照ください。
「やまなし」

また、インターネット上には様々な「解釈」をしたサイトが存在しますので、そちらも閲覧されるといいと思います。

難解な作品でありながらも、この不思議なお話の世界が大人になっても心のどこかに引っかかっている人は結構いるのではないかと思います。子供たちも一読しただけでは意味が分からないながらも、何かを感じているようです。名作の力と言うべきでしょう、教師の腕前に関わらず、読むこと自体が読者に何らかの作用を与える作品です。

ところが、この話を授業でどのように取り上げるかとなると、教師はとたんに首をひねることになります。“「やまなし」の授業ができれば一人前”と言われるぐらい、この教材は教師にとって難関です。

「結局、『なんだか不思議な話だよねー』という結論で終わってしまいました。」

などという教師の密かな告白もよく聞かれます。

作品としての解釈と教材としての解釈

宮沢賢治の作品には宮沢賢治の世界観が色濃く反映されており、この「やまなし」にも諸説があるようです。書物を調べると、どの説が有力であるかということは書かれていても、定説はないようです。つまり、宮沢賢治自身がこの作品についての解説らしき文言を残さなかったということのようです。

ある年の私のクラスでは、次のような疑問が出ました。こちらをクリック→

「やまなし」 子供が持つ疑問

一読した後にさっと書かせただけでも、これだけの疑問が上がってきました。
教師として、一つ一つの疑問に答えられるでしょうか。

まず、子供たちは「クラムボン」って何?ということが、ひっかかるようです。アメンボ、泡、ごみ、プランクトン、カニの幼生、光、波の動き…どこにも答えはないわけですから、想像させると多種多様な意見が出てきてしまいます。
それぞれが、それぞれに思っていればいいという教師もいますし、強硬にどれか一つに絞ろうと子供たちを話し合わせる教師もいるでしょう。かといって、多数決をとるようなものではありませんので、結局は、「~なので、私はこう思う」というところに落ち着かざるを得ません。

この記事では、「どんなふうに授業を組み立てるか」というテーマはいったん置いておき、「~なので、私(筆者)はこう思う」ということを書きたいと思います。

私は以下のような理由から、「やまなし」は「動物の諍いと弱肉強食の世界」としての5月と「植物の豊穣と自己犠牲の世界」としての12月が対比されており、この作品で宮沢賢治は奪うことではなく与えることの大切さを訴えているのではないかと考えています。

※「やまなし」の謎について自分で考えてみたい方、人の読解などは知りたくない方は以降は読まないでください。

「宮沢賢治」を考えて >>> なぜ5月と12月なのか >>> クラムボンの正体 >>> 「やまなし」という題名(ただの「なし」でもない)

などを考察してみます。もしかすると的が外れているかもしれません。あくまで私の個人的な読み取りです。私は「自己犠牲」が「やまなし」の重要なテーマの一つと考えています。しかし、授業はあまり「自己犠牲」などという考え方にとらわれずに進めた方がいいかもしれません。授業で結論として「美しき自己犠牲」を用意してしまうと、作品の魅力をそぐ結果になってしまう恐れもあります。・・・正直なところ私自身、どうやって授業を展開すればよいのか、いまだによく分かりません。

いずれにしても、教師が「やまなし」を“作品としてどうとらえるか”ということと、“国語教材としてどうとらえるのか”ということの両方をしっかりと煮詰めておくことは大事だと思います。作品として自分がどうとらえるかということと、教材として授業でどう扱うかということは、別なことですが、一方で教師が教材をどのように解釈するかによって、授業をどう運ぶかということとが変わってきます。
「やまなし」に関するいろいろな説や感じ方を参考にしながら教師が自分なりの解釈を組み立てた上で、子供たちひとりひとりの考え(イメージ)もくみ取りながら進めていけばよいのかな、と思います。

「宮沢賢治」を考えて

ここ数年の光村図書の教科書には「イーハトーブの夢」という宮沢賢治についての「解説文」が「やまなし」とともに掲載されるようになりました。「やまなし」を読み解くためには、宮沢賢治について知る必要があることを示唆しているのだろうと思います。それでいて、光村図書の指導書に書いている、「やまなし」の解説は非常に簡単なものでしかありません。それぞれの教師に考えてほしいというのが、光村図書の“想い”なのかもしれません。
「イーハトーブの夢」を読み、宮沢賢治のほかの作品、宮沢賢治の生涯を考えてみると、「やまなし」の見え方は少し変わってくるかもしれません。有名な詩「雨ニモマケズ」や言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)を紹介しながら、読み進めていくのもいいと思います。宮沢賢治は、「利他」に生きた人なのです。
関連作品として代表作の一つである「注文の多い料理店」を読んでみるのもいいかもしれません。食べる者と食べられる者を逆転させた物語であるということなどからも、宮沢賢治の弱肉強食の世界への抵抗を感じ取ることができると思います。

宮沢賢治は菜食主義者であったようです。死に至る直前まで地域の農業振興に尽くしたことも有名です。決して殺戮をしないで自らの身を動物にささげるという植物の恵みの素晴らしさをこの童話を通して表現したかったのではないでしょうか。宮沢賢治は「ビジテリアン大祭」という童話作品も残しており、その作品でも肉を食すことを咎め、菜食主義を訴えているようです。話の中にはビジテリアン(ベジタリアン?)が「畜産組合」なる肉食主義派をやりこめる場面などもあります(かなり粗削りなお話です)。

「ビジテリアン大祭」

「よだかの星」でのよだかの独白も厳しすぎるぐらいに自分に厳しい。
「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないでえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。」

「よだかの星」

こういった宮沢賢治の世界観をたどってみると、彼が「やまなし」という作品の中に弱肉強食を改め、争いごとのない平和な世界が訪れてほしいという願いを織り込んでいるのではないかということを推測することができます。

なぜ5月と12月なのか

5月と12月を比べると、5月の方がまだ温かいのではないかとも思えます。ところが、5月の川はまだ少し冷たさを残していて、緑がまだ浅くて清廉な雰囲気を感じられる、というようなイメージで描かれているように思えます(作品中にはっきりそのように記述されているわけでもない)。

そんな小さな谷川の中で、クラムボンが魚に殺され、魚は一瞬にしてカワセミにさらわれてしまいます。この平和そうで清廉な世界の中である意味淡々と殺戮が行われている様子を描くことによって、読者に「死」のインパクトを与えているのではないかと思います。あわ比べをするカニの兄弟の頭上で起こる“わけのわからない事件”は鋭く描き出されて不安感を煽ります。5月の最後は「白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました」との記述があり、弱肉強食の世界で命を失うものたちに対して静かに花を添えているかのような印象も受けます。

第二場面には12月が選ばれており、こちらも寒いように思えるのですが、「底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました」と書かれているように、宮沢賢治にとっては秋のイメージであったようです。一説によると、12月は本当は11月としていたのが誤っていつのまにか12月になったとも言われています。「白い柔らかかな円石もころがって来、小さな錐の形の水晶の粒や、金雲母のかけらもながれて来てとまりました」と、なんだかきらびやかな描かれ方をしています。

この12月の世界で起こりかけた兄弟の諍い(泡の大きさ比べをしていて喧嘩になる)を止めるきっかけになるのが「やまなし」です。カニのお父さんが兄に味方しかけたところで、5月に侵入してきたカワセミの代わりに落ちてきて、いいにおいを振りまきます。カニのお父さんは「やまなし」が熟して酒になることを示唆し、豊穣な秋を印象付けます。12月の最後には「波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石の粉をはいているようでした」との記述があり、5月に比べると生命感にあふれています。

はじめにに5月と12月を「二枚の幻灯」と表現しているように、この2つの世界は、対をなしていると考えられるのではないでしょうか。

クラムボンの正体

私は、宮沢賢治が5月を弱肉強食と殺戮の世界、12月を豊穣と自己犠牲の世界として描いていると読み取ってみると、クラムボンはプランクトンと考えられるのではないでしょうか。プランクトン→魚→カワセミという食物連鎖を意味しているのではないでしょうか。

カニの幼生(小さくてプランクトンみたいです)を表したかったのかもしれません。英語でカニが“crab”プランクトンが“plankton”ですから、言葉遊びをしている可能性も考えられます。

カニの兄さんがお魚は「何か悪いことをしてるんだよ とってるんだよ。」と語っています。魚は「お口を環のように円くしてやって来ました」と描かれており、魚が通り過ぎた後にクラムボンは「死んだよ」「殺されたよ」と言われています。魚が向こうに行くと再びクラムボンは「わらった」となっていることから考えても、どうやらクラムボンは複数存在しているのではないかと。それで私は、魚がプランクトンを食べている様子を表しているのではないかと思えます。

クラムボンは何かということを子供たちに発表させると、「アメンボ、泡、ごみ、プランクトン、カニの幼生、光、波の動き」などが出てきます。話し合いの結果、直近でカニが「泡」をはいて遊んでいるために、「泡」という意見になる子供が多くなることがあります。宮沢賢治は何とも言っていないわけですし、子供たちの多数決を結論とする必要はないと思います。
また、クラムボンがプランクトンであり、食物連鎖を表しているのではないかということは子供たちから出てくれば、取り上げればいいだろうと思いますが、教師の方から強調して押し付けるのも、どうかと思います。もし、私と一緒で食物連鎖だと考える方は、単元の最後の方になって、教師からの一意見としてそういうことをほのめかす程度でいいと思います。

「やまなし」という題名

子供から出てくる疑問の中に、「なぜこの話の題は『「やまなし」』なんだろう」という素朴な疑問がありました。子供が出す疑問というのは、けっこう要所をついている場合があります。この疑問は、「やまなし」というお話が何を示しているのかを考える突破口になると思います。授業で「やまなし」を読み解くための主要発問として位置付けるといいと思います(光村図書の教科書にも「なぜ題名が『やまなし』なのか」という問いかけが掲載されています)。
確かに、「やまなし」は物語の最後の方にほんのちょっとだけ出てくるアイテムであって、題名は「谷川」でも「カニの兄弟」でも「クラムボン」でも「イサドへ行こう」であってもよかったかもしれません。「なし」でもなく、「りんご」でも「みかん」でもなく「やまなし」。
このあたりを少し子供たちにも話し合わせてみるのも面白いです。「やまなし」は主人公とは言えないかもしれないけれど、重要な登場人物なのではないかということが浮き上がってきます。

「やまなし」はカニの兄弟の間に起りかけた諍いを止め、カニの親子たちの意識を明日(イサド)へと向かわせます。いいにおいを振りまいた上で、自己の体を犠牲にして酒へと変わっていきます(献身)。5月が自己保存、つまり利己のための殺戮の世界であり、12月が自己犠牲を通した利他がもたらす暖かい世界であるように、私は感じています。

宮沢賢治の作品には『ポラーノの広場』『グスコーブドリの伝記』『注文の多い料理店』など、読者の興味を引くように少々ひねりが加えられたものが多く、調べてみると普通名詞をポンと一語だけで題名にしている童話は「やまなし」以外にはないようです。普通名詞ではあるけれど、普通ではない。
宮沢賢治は「やまなし」に特別な意味を持たせたかったのではないかと推論できます。
5月が殺戮の世界で、12月が豊穣の世界であるとすると、「やまなし」は豊穣の象徴であり、自然の恵みとして考えられます。「やまなし」は5月に水面の上から侵入してきたカワセミと対比するのであれば、自ら食べられるために飛び込んできた自然の恵みなのではないかということです。「5月と12月に題名をつけよう」といった授業も見かけますが、私が題名をつけるなら、5月は「奪う世界」で、12月は「与える世界」でしょうか。

これに加えて、「どうしてナシではなくて、「ヤマナシ」だったのか」ということを考えるのも面白いかもしれません。実は、「ヤマナシ」は果肉が硬く味も酸っぱいため、あまり食用には向かないそうです。それを考えると、もしかすると宮沢賢治は意図的に人のためには役に立たない「ヤマナシ」を選んでみたのかもしれないと思えてきます。以下は「果実としてのやまなし」について学術的な側面を研究されている神戸大学の片山寛則のHPからの引用です。

かつてイワテヤマナシは飢饉の際の救荒作物として重要な役割を担っていました。地方名に残る「ケカズナシ」の「ケカズ」は岩手県の方言で飢饉を意味しています。穀物が収穫できない冷害の年でもイワテヤマナシは実をつけたことから、これを保存食として飢えをしのいだと考えられます。
神戸大学大学院農学研究科附属食資源センターHP より、引用。

食用に向かず、普段は見向きもされない「ヤマナシ」。そんな「ヤマナシ」にもカニの兄弟の喧嘩を止め、甘いにおいをまき散らしてこれから寒い季節を迎える谷川に豊穣の幸福感を運んでくるという「有用性」が存在することを表したかったのではないかと想像しています。たかだかカニの兄弟(貧しい農民)のために身を捧げるやまなし(宮沢賢治)。そうすると、この物語の最後の節、

波はいよいよ青白いほのおをゆらゆらと上げました。それはまた、金剛石の粉をはいているようでした。

私の幻灯は、これでおしまいであります。

が、宮沢賢治の「豊穣への祈り」あるいは「凶作と闘う意思表示」をではないか・・・とも感じます。

農学にも通じていた宮沢賢治。晩年は当時の凶作に苦しむ東北の地で農民を支援しようと奔走しますが、肺炎に侵され亡くなります。存命中に彼の作品が世に知れ渡ることはありませんでした。

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ          (雨ニモマケズ)

宮沢賢治は「ヤマナシ」の中にこの「デクノボー」的なものを感じていて、「やまなし」にも童話の中に活躍の場を与えたかったのかもしれない、などという考えまで浮かんできます。考え過ぎでしょうか・・・。

以上、ご意見、ご批評をいただければ幸いです。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (9件)

  • なるほど~食物連鎖かぁ。スッキリ!全体のイメージで考えるとわたしは『オテントウサン』になるかな11月の直接の月の描写に比べ直接の太陽はない。子供たちの『殺された』には子供たち自信に死の恐怖の連想がないから擬人化されている?(虫けらだからかw?宮沢さんの性格からしてこれはないかな) 。ベジタリアンでファーマーな宮沢さんは『おひさま→やまなし』の関係も言いたいんじゃないかな。

  • これを拝読していなければ自分なりの理解の組み立てができませんでした。ありがとうございます。

  • Makoto Wadaさん、
    いろいろな読み方ができると思います。それが、名作というものなのでしょう。5月が日光で、11月が月、確かにそうですね。やまなしが放つ幸福感に包まれて、明日のイサド行を楽しみに眠るかにの親子がほほえましいです。

  • まだ、こちらを見ていらっしゃる方がおられるでしょうか。新コロナウィルスのためウエブ学習になった地域で6年を教えています。私は教室で、12月の中の光と影の対比を考えてもらいました。これから文学の世界に入るのによい入門編だとおもいます。そこから、かにの子らが、悪だとおもっていたものにも死があったことなど、生徒なりに深読みができました。すると12月と5月の対比がよくわかりました。これから、ウェブ学習で、それぞれ選んだ主題で感想文を書きます。1、光と影について、2、かにの子らがどう変わったか、3、題名はなぜ、「かばの花」でなくて「やまなし」か 4、自由題です。

  • Aiko Sanoさんの奮闘にエールをお送りいたします。教師が持論(自分の「やまなし」に対する読み)を展開してしまうのは簡単ですが、子供たち自身にどうやって考えさせるかとなると、かなり難しい教材ですよね。みなさんがこの難解で不思議な物語をどうやって授業で展開されているのか、知りたいです。

  • 素晴らしい教材研究、教材解釈をありがとうございました。
    向山洋一氏は、かつて「私の幻灯は、これでおしまいであります。」の部分にこだわって授業されました。「私の」の「の」の意味を授業されています。
    以来、数十年、この部分を授業する人を見かけなくなりました。
    確かに、「私の幻灯」といういい方自体が、不自然でわざわざ「私の」とそれが主観的であることを明示するところに、大きな意味があるように思います。
    二枚の幻灯は、どうみても静止画的なスライドではなく動的、立体的な「世界」です。つまり、心象風景は平面的な印象画ではなく、3DCGのようなバーチャルな仮想空間に描かれた「世界」のように思えます。
    機会があれば、私は一度そのような視点から授業を組み立てて、子供に問うてみたいと考えました。

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