「一つの花」~題名とコスモスに込められた意味

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目次

「一つの花」の読み取り

「一つの花」のお父さんの出征場面でのコスモスに関して、やや「謎」な部分があります。出征の場面で、「どうしてお父さんはゆみ子にコスモスを一つだけしか渡さなかったのか」というところが「謎」なのです。授業をしていても、お父さんの思惑・・・おそらく・・・ゆみ子の「一つだけ」の口癖に引っ掛けたことと、「一つだけの命(を大切にするんだよ)」というメッセージをこめているということに、なかなか行きつきません。

この記事の他にも下記の記事も参考にしてください。

「一つの花」~戦後のコスモスのシーンについて

「一つの花」板書例と授業の流れ 全時間

「一つの花」国語・物語文・授業案 ~考えを交流する授業~(作品を貫くお父さんの思い)

「一つの花」は誤読を引き起こしやすい

一つの花は、国語科の戦争教材としてかなり長い間、4年生の国語の教科書に掲載され続けています。現代の4年生という戦争についての知識が非常に乏しい子どもたちがこの教材を読み解くには、ちょっと難しい部分があるかもな、と、私は思います。知識がないために誤読が起こりやすく、授業中、誤読がさらに誤読を導き出してしまうはめに・・・という混乱状態に陥りかねません。
「どうしてお父さんはゆみ子にコスモスを一つだけしか渡さなかったのか」を問うと、「戦争で焼けて一つしか残っていなかったから」「時間がなくて一つしか見つけられなかった」等と考える子供がいます。子供が陥りがちな誤読でしょう。お父さんの「謎」な行動は、子供たちを誤読の方向へ走らせてしまいがちです。

下に後半の部分に対する私なりの読み取り解説を書いてみました。かなり、コテコテです。ちなみに、私は5場面に分けて授業を進めました。
併せてTomokiさんという方も、下記HP等でも気合の入った読み込みを書かれていますのでお読みください

http://www3.tokai.or.jp/tomoki/hitotunohana.htm

本題材について

この物語が4年生の教材として適当かどうかを置いておくとすれば、教師が国語の物語教材・戦争教材をどう扱うべきかを考えるいい機会になるのではないかと思います。
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戦争を知らない子どもがこのような教材をどう読んで何を思うのか。戦後70年を超えた現時点で、教師は考え直す必要に迫られていると思います。下記リンク先に、教育現場での戦争の伝承の難しさについて書かれています。是非ご参照ください。

教育現場で戦争を伝える難しさ ~太平洋戦争アーカイブ | EDUPEDIA

文章中の言葉から、

  1. 事実として読み取れること
  2. 事実から確実に言えること
  3. 事実ではない可能性はあるが、類推できること
  4. 類推を重ねて言えそうなこと
  5. 一般的に考えうる程度の想像の範囲で言えそうなこと
  6. 個人的な想像の範囲で言うこと

・・・と、文章から読み取ることができるレベルには微妙に差があり、子どもの考えをどう整理しながら授業を進めるのかを考えるきっかけにはなるでしょう。おまけに、太平洋戦争当時という特殊な状況からの類推しなければならないという困難さもあります。相当な読み込みと背景の理解が必要になってきます。
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戦争の背景を4年生に少しでも知ってもらうにはどうすればいいのか・・・一つにはビデオを見せるという手もあると思います。

戦争関連のビデオ

という記事がありますので、参照して見て下さい。

作者の意図も考えつつ

文章を「言葉から言える・感じること」として読ませるのか、「作者の意図するところは何か」を考えて読ませるのかによって、特にこの物語は読ませ方が違ってくるように思います。「一つの花」というのは題名そのものであり、作者の意図から読めば「花=命」であることは大人がよく読んでみれば明白です。ところが、子供にただ読んで感じるままに話し合わせるだけではこの意図を読み取るところにはなかなか行き着かないのではないかと思います。
学習指導要領では5・6年生の内容として、
C 読むこと
イ 目的や意図などに応じて,文章の内容を的確に押さえながら要旨をとらえること。
となっています。4年生に作者の意図まで迫らせるというのは、けっこう難しいことかも知れません。

「作者意図を考える」とするとちょっと厳しいので「作者意図も考える」あたりを目指して、後半のシーンをどう扱えばよいのか、いろいろと考えてみました。ご意見がありましたら、お聞かせください。

第4場面

第4場面は、この物語の最重要場面でしょう。ところが、この場面を読み取る際に、けっこう子供は誤読してしまいます(いろいろ意見はあるだろうけれど、私は誤読だと思います)。以下、作品から引用したキーセンテンスを太文字カギ括弧でくくって、その文に対する私の考え方等を書いてみました。

「お母さんのかたにかかっているかばんには、包帯、お薬、配給のきっぷ、そして、大事なお米で作ったおにぎりが入っていました。ゆみ子はおにぎりが入っているのをちゃあんと知っていましたので、」

ゆみ子はいつもおなかをすかせていたので、お米のご飯のおにぎりに対しては敏感になっていたのでしょうね。当時は粥にして米をすすっていたという状況もあったようですから、お米がぎっしり詰まったおにぎりという食べ物はぜいたくだったのかもしれません。「『一つだけちょうだい、おじぎり、一つだけちょうだい。』」と言って、駅に着くまでにみんな食べてしまいました。

みんな食べてしまったら、汽車の中でお父さんがおなかをすかせて困りそうです。それでもお父さんは「おやりよ」と、言ったのでしょう。

「お母さんは、戦争に行くお父さんに、ゆみ子の泣き顔を見せたくなかったのでしょうか。」

悲しい場面でさえ気丈に振舞う両親の態度が伝わってきます。これで最期になるかもしれないという両親の想いが組みとれるといいですね。「駅には、ほかにも戦争に行く人があって、人ごみの中から、ときどきばんざいの声が起こりました。また、別の方からは、たえず勇ましい軍歌が聞こえてきました。」

児童にしてみれば、「ばんざい」の意味が分からないでしょう。軍歌も聞いたことがないと思います。押さえておく必要があると思います。

「ゆみ子とお母さんのほかに見送りのないお父さんは、プラットホームのはしの方で、ゆみ子をだいて、そんなばんざいや軍歌の声に合わせて、小さくばんざいをしていたり、歌を歌っていたりしていました。まるで、戦争になんか行く人ではないかのように。」

小さな家族が周りの「勇ましさ」になじめていない様子が描かれています。「行ったら死んでしまうかもしれない」という事実を知りつつ“戦時下での建前”を優先するという当時の一般的な人々とは違ったゆみ子の家族のものの考え方が表れているのではないでしょうか。

ゆみ子の家族には親戚がいなかったのでしょうか。親戚がいないからこそ建前から少し距離を置くことができたのかもしれないです。「お母さんが、ゆみ子を一生けんめいあやしているうちに、お父さんが、ぷいといなくなってしまいました。」

ぷいといなくなったということは、ゆみ子をあやすためにとりあえず何かを探しに行ったということが考えられます。つまり、お父さんが「ひとつの花」を探すことはそれほど意図的ではなかった。・・・のではないでしょうか。

「お父さんは、プラットホームのはしっぽの、ごみすて場のような所に、わすれられたようにさいていた」

食べるものにさえ困窮する当時の人にとって雑草に近いコスモスの「花」は忘れられたような存在だったのかもしれません。
「ごみすて場のような所」「忘れられたように咲いていた」は、「コスモス=当時の人々」であり、当時の人々の「命」が軽々しく扱われていることを暗喩しているものと思われます。

「コスモスの花を見つけたのです。あわてて帰ってきたお父さんの手には、一輪のコスモスの花がありました。」

コスモスはたまたま見つけられたようです。コスモスが形見ではないかという意見も出ますが、兵士は赤紙が来た時点で死を覚悟したと考えられますから、形見はもっと残るものを既に渡しているのではないかと考えるのが順当でしょう。

「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。」

このあたりがこの物語をどうも混乱させているように思えます。どうして一つだけなんでしょう?コスモスは下の写真のように群生しているはずなので、一つだけ咲いていたのではなかったのではないかと考えられます。ひと株だけであったにしても、ひと株の中にいくつかの花が付いているはずです。どうしてたくさんのコスモスをあげなかったのでしょうか。

おそらく、お父さんは、たくさん咲いていた中から、敢えて一つだけを取って、敢えてゆみ子に「一つだけあげよう」と言った可能性が濃いように思えます。「一つだけ」というゆみ子の口癖を用いることによってゆみ子をあやそうとしたととることもできます。(ただ、コスモスの群生について子供たちが納得するように持っていくのは、少し無理があるかもしれないです)

「一つだけのお花、大事にするんだよう———。」

では、なぜ、そんな「偶然に見つけてゆみ子をあやすため」にあげた花を大事にしなければならないのかという話になります。

気を回す子どもは、この言葉から、ダッシュの中に入る言葉を、「大事にして、この花をたくさんに増やしておくれ」と、考えます。これは4年生の子どもとしたらよく考えているとは思いますが、適切な読みだとは思えません。お父さんがただ偶然、便宜的に花をとってきただけの花を、「増やしてほしい」とまで思いついたようには読めません。

私は、お父さんが「一つの花」を「ゆみ子の一つの命」とダブらせて「大事にするんだよう」と言いながら、渡したと捉える読み方が妥当なのではないかと考えます。ごみすて場でコスモスを見つけた時点であったかどうかは分からないけれど、お父さんは、「一つの花=一つの(一つしかない)命」というつもりで渡したのではないでしょうか。

ごみすて場に咲いているコスモスは、ごみのように扱われていた当時の一般民衆を暗喩していることはほぼ間違いないと思います。高価な花ではなく、雑草であるコスモスです。「わすれられ」ていたのは、当時の人々、一人一人の命の大切さだったと考えられます。

であるのに、文中には「花=命」ということを直接示す言葉がありません。子供はかなりの想像力を働かせないと、「花=命」にはたどり着きにくいです。

そうなると、「文章中の言葉」を大事にする授業でどこまで想像を許すのかという問題が出てきます。子どもたちの想像を許し出すと、この時代に関する知識が十分ではない4年生の子どもたちはどんどんと授業を横道にそらしてしまいます。それを防ぐためには、「文章中の言葉から言えることを発言しなさい」というルールを立てなければなりません。にもかかわらず、子供の頭の中では「一つの花=一つの命」であると、結びつきにくいです。

そこで、ダッシュに、「花を増やしておくれ」ではなく、「一つだけの命を大切にしておくれ」を入が入ることを子どもに気づかせるためには、この場面での切迫したお父さんの気持ちの部分に思いをはせるように持って行く必要があります。

町が灰になるほどの空襲を受けているのであれば、明日、誰が死んでもおかしくないのです。体のじょうぶでないお父さんが戦争に招集されるのは、戦況が悪化していることを示しています。お父さんにもお母さんにも、家族全員に死の可能性があることはよく理解できているはずです。そんな極限の状況で“これが最後になるかもしれない別れ”をしている場面であれば、「父親」が家族に対して思うことは、「何とかして生き延びてほしい=たった一つの命を大事にするんだよ。」であることは間違いないでしょう。だれだって、そんな状況下で別れる場合は、相手の幸運を祈るばかりではないでしょうか。

発問としては、
「ゆみ子が大事にしなくてはならない一つだけのものって何でしょう」
があたりになるのでしょうか。

補助発問として、
「題名が一つの花になっているのはなぜでしょう」
となりますか・・・うーん、かなり安易な誘導発問ですね。

でも、こんな発問でもしないと、作者の意図までたどり着かないのが、この作品を4年生に教えるむずかしさなのではないかと思ってしまいます。

また、もうひとつ、話の流れがスムーズでない所があります。流れからすると、
1. ゆみ子が別れ際に泣き出してしまった。
2. しかし、おにぎりはもうないので、何かあやすものはないかと、ぷいと「何か」を探しに行った。
3. たまたまコスモスの花を見つけた。
4. コスモスはいくつか群生して生えていたが、ゆみ子が物をもらう時に「ひとつだけ」というのが口癖なので、あやすのによいかと思って(本当にそう考えたかどうかは不明)敢えてコスモスを「一つだけ」取ってきた。
5. ゆみ子にそれをあげるときに、前々から思っていた(戦時中の人はいつも思っていたでしょう)「命を大事にして生き延びて欲しい」という意味を込めて、「一つだけのお花、大事にするんだよう—————。」と言って渡した。「一つだけ」は、あやす言葉であると同時に、一つだけの命も表していた・・・・

というところがお父さんの行動の真相でしょうか。そう考えると、物語を縦に流れる「一つだけ」という言葉が、“高い高い”をする2場面で提示される「ゆみ子の将来に対する不安」のあたりから続くゆみ子への生き延びて欲しいというお父さんの思いが、偶然のお父さんの行動により結びついたことになります。ゆみ子をあやすためにさがしてきたコスモスが、偶然、重要な意味を帯び出した、という流れでしょうか?

また、それまで「一つだけ」という形容詞がかかるのは「かぼちゃで」あり、「まめ」であり、「おにぎり」であり・・・どちらかというとそれまでネガティブな意味で使われていた言葉が、突然、「大切にすべきゆみ子の命」という超ポジティブな意味で使われています。この流れは現代の4年生ぐらいの子どもが読むには、やや難しいように思えます・・・。

「ゆみ子のにぎっている、一つの花を見つめながら—–。」

ゆみ子が握っている一つの花にお父さんが「ゆみ子の命」と捉えているとしたであるとすれば、それは同時に、お父さんにとっても「自分の命」をも暗喩していたのではないかと思われます。「コスモスのように、雑草のように生き延びてくれ」という思いと同時に、「自分も生き抜きたい」という思いもあったことでしょう。あまりお母さんを大事にする様子は描かれていませんが、お母さんの身も案じていた事でしょう。

作者は一つのコスモスが十年後にたくさんのコスモスとなるという筋書き(=題名に揚げた言葉が話の流れを保つ)のための道具としてここにコスモスを持ってきたのだと思います。困り切ったお父さんがプラットホームのはじっこで見つけるコスモスに惹かれる様子は大人には想像できるかもしれないですが、子どもにはやや想像しにくく、やや難解です。

この場面ではお父さんが偶然見つけたコスモスではなく、きちんと準備した「一つだけ」の「何か—おはじきでもお守りでも—」を「大事にして欲しい」と渡して別れるという話にすることも可能だったかもしれません。そうせず、コスモスにこだわったのは、作者の「思い入れ」があったのだろうと思います。
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作者の今西さんは「一つの花」の他にも、こぼれ種が戦後になって増えるというストーリーの「すみれ島」という作品を書いておられます。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • シーンの作成において、これほどの隠れた意味を刷り込ませることができる。それが小説を書くことだと、子供のときは意味もわからずに教師の言うことを聞き流していただけでしたが、いま、作家を目指す立場となれば、その事実にようやく気づきました。実作においても、無意識のうちに以上のような行為をやっている自分を発見して驚く次第です。小学校の時の教師に感謝すべきですね。

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