校内暴力とは何だったのか ~1980年代教育暗黒史

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作成者:matui hiroshi (Edupedia編集部)さん

あの混沌は何だったのか?


1970年代末期から1980年代にかけて中学校(及び一部高校)に吹き荒れた校内暴力の嵐はすさまじかったです。人はここまで醜く変わってしまうのかということを目の当たりにし、恐怖を感じました。私自身は中学生として相当な非行が行われていた状況は見ていますが、対教師暴力がある状況は見ていません。子供同士の暴力はありましたが(よく突然訳もなく殴られることがありました)、自分たちの中には「タバコは吸うが先生に反抗したいわけではない」「先生に迷惑をかけてはいけない」という不文律があったように思います。
私が中学校を卒業して間もない時期に対教師暴力・生徒間暴力が頻発し非行(と言うより犯罪的行為)が表立ってまかり通るようになりました。悪いことはコソコソとやるべきだという感覚が失われ、白昼、衆目を集めながら、堂々と犯罪行為が繰り返される事態となっていきました。戦場と化した学校の渦中にいたのは私の2つ下の学年(昭和40年生まれ)以降でした(校内暴力は全国多発同時的に広がりましたが、地域差、学校差があります)。私が在籍した学年はまだ平穏が保たれていたので、私が見た校内暴力は生徒としてではなく、教師としてみた校内暴力です。1980年代の学校で何が起こっていたのかを、レポートしておきたいと思います。

その前に、「仮面ライダースナック事件」について述べてみたいと思います。私の中では「1980年代の中学校校内暴力」と「仮面ライダースナック事件」はつながっており、「仮面ライダースナック事件」は校内暴力の頻発の予兆であったように思えています。

仮面ライダースナック事件


一袋20円か30円で売られていた「仮面ライダースナック」にオマケとしてついていた仮面ライダーのカードが爆発的な人気となりました。それまでに流行っていたメンコにとって代わって、小学生はカードの収集に躍起になりました。
ウィキペディアから引用してみます。
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「仮面ライダースナック」の売上げは、1972年2月には1日100万袋を越え[7]、最終的にはカルビー社内のメモによると15か月間で6億2000万袋に達した。平均すると当時の男子児童1人あたり、85袋購入した計算になる。金額換算で約87億円を売り上げたとする資料もある。
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メンコが単体で売られていたのに対して、仮面ライダーカードはスナックを買わなくては集めることができませんでした。最初のうちはスナックがおいしかったのですが、それにはだんだん飽きがきます。カードの収集が主目的となり、スナックは不要なオマケとなってしまいました。
一度に5個から10個の仮面ライダースナックを購入する者も現れてきて、スナックは破棄される憂き目にあうようになりました。それもゴミ箱に捨てられるならまだよかったのですが、公園でポイ捨てされ、それを踏んづけて遊ぶのが流行っていました。公園に踏みつぶされて中身がはみ出たスナックの袋が散乱していた異様な光景は、今でも心に焼き付いています。全国で同時多発的に同様の状況が起こり、社会問題として新聞報道されていたのも覚えています。
私はあまりお小遣いをもらっていなかったので仮面ライダースナックを買えませんでした(当時小学校2年生ぐらいだったでしょうか)。私の親は戦争を体験しており、飢餓状態に陥った経験があるため、食べ物やお金を粗末にするとひどく怒られました。私にはスナックをたくさん買うことも、買ったスナックを破棄して捨てることもできませんでした。
勝手な推論ですが、「私の2つ下の学年から校内暴力が全国で多発同時的に吹き荒れ始めた」ことと、「全国的に展開された仮面ライダースナック破棄事件」の間には相関があると私は思っています。
おそらく戦後経済が発展して社会が裕福になったことと、親に戦争を経験していない(経験していても記憶にない)世代が増えてきたことが仮面ライダースナック破棄事件と校内暴力の両方に少なからず影響していたのではないかと思います。

校内暴力の実態


校内暴力がどんな状況であったのかなどとても一言で語れるものではありません。かといって詳細を書き始めると大変な長さになってしまいます。露悪趣味ではありませんが、書かねばならない、伝えねばならないと思うので、かなり際どい内容も含めて箇条書きで列挙することにします。すべて自分で見たわけではなく、友人の中学校教師・報道から得た情報もあることを断っておきます。

● 教師が殴られた、蹴りを入れられ骨折した、土下座させられたなどは枚挙にいとまがない。暴言やいやがらせ、暴行は日常茶飯事であった。
● 生徒間のいじめも悲惨を極めた。排泄物を食わされるようなこともあった。・・・「いじめ自殺」でネット検索すると詳細がわかる。
● 職員室の机の上を中学生が走り回っていた。
● 校長室のソファーで生徒がタバコを吸っていた。
● 夜間に学校に侵入し、全ての窓ガラスを壊して回した。(尾崎豊「卒業」にもその様子が描写されています)
● 教室の壁を蹴りまくる、壁に机椅子をぶつけるを繰り返し、とうとう隣の教室と貫通した。
● 「中学生が窃盗したバイクを乗り回していた」「それで学校に乗り付けた」というのはよくある話だった。「信号待ちで停車していた車のガラスを破壊し、ドアロックを外して運転手を引きずり下ろし、車を窃盗し運転した。」という案件も。
● シンナーを吸って窃盗車に乗り、学校の周りを暴走した。
● 授業中の教室で花火をしていた。
● 授業中の教室で焼き肉をしていた。
● 生徒が教師に刺された。・・・「忠生中学生徒刺傷事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 教師が生徒に刺殺された。・・・「栃木女性教師刺殺事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 生徒が生徒を惨殺した。・・・「女子高生コンクリート詰め殺人事件」でネット検索すると詳細がわかる。
● 不純異性交遊の横行。・・・修学旅行の宿舎で女子が男子を部屋に呼んで売春行為をした(男子のお土産代を巻き上げた)。平常から男女が乱交状態に至る学校は少なくなかった。
● ある女性教諭は出勤前に時間をかけてピチピチのジーンズをはいた。ピチピチな上にチャックの部分がボタンになったものを選んだので、止めるのにたいへん時間がかかったという。何故そんなものをはいたのか。それは、(集団)暴行に遭った時にすぐには脱がすことができないように自衛していたのである。脱がされる前に誰かが職員室に通報してくれるかもしれないという「淡い期待」を持ってのことだったそうだ。「生徒−生徒間」「生徒−教師間」の性的暴行は性質上表に出にくい犯罪であり、闇に葬られて実態はつかみにくい。
● 酒たばこシンナー、クスリの濫用。
● これらの違法行為・犯罪行為の多くが一般社会のルールにのっとって警察沙汰として処理される事が少なく、放置されてしまう結果となった。器物が壊され、暴行を受けても被害者(学校・教師・生徒)が泣き寝入りする事が多かった。泣き寝入りをしてしまう事が結果的に荒れる生徒たちに足元を見られる結果となり、校内暴力を助長させた。→→→1990年代になってからは学校側が被害届を出すようになってきて、これは一定の歯止めとなっていると思う。

言い方が悪いかもしれませんが、荒れている児童生徒たちの目つき・顔つきは、獣のように見えてしまうことがあります。人が人でなくなってしまうことの恐ろしさを想像してみてください。
校内暴力において人が人でなくなってしまう状況は、戦争に似ていると思います。戦争も伝えていかねばならない出来事の一つです。それについては下↓の記事で述べていますので、是非ご参照ください。
戦争を伝える事 ~NHK太平洋戦争アーカイブ(近日公開)

中学校教師として見た光景


私は中学校から要請されて、心労と過労で倒れた先生の後任として荒れた現場に着任しました。1時間目、チャイムが鳴って初めて授業をするために教室に入っても教室は騒然としており、着席をさせるまでにかなり時間がかかりました。何人かの生徒がいない上に、廊下がまだ騒然としていました。教室の戸を開けて廊下を覗いてみるとまだ10人ぐらいの生徒がたむろして騒いでいたため「教室に入りなさい」と注意すると、「シバクドォ」と、食ってかかられました。「シバクドォ」が私が教師になって初めて子供から声をかけられた言葉です。一触即発の空気でしたが、向こうも様子を見ている感じなのでひとまずそこは引いて授業を始めました。生徒たちは勝手なおしゃべりをして時に立ち歩き、指示に従う者は数名。授業は全くコントロールが効かない状況でした。
そこの中学校で同僚となったM先生は私の中学校時代の恩師で、8年ぶりぐらいにお会いすることができました。授業がたいへん楽しくてお上手で、私にとって教師のモデルとなっていた教師の一人でした。ベテランになっても授業に行く前、休み時間に職員室で教科書のこれから教えるページを一生懸命に見ておられる姿を見て、再び尊敬の念を強めました。しかし、聞くところによると、その中学校ではM先生の授業も全く成り立たない状況だったようです。M先生は苦々しい顔で私に「これでもずいぶん、かなりましな状態になったんだよ。以前は…」と、語ってくれました。
そうか、これでもましになったのかと思っていたら、赴任して1日目に先輩教師が生徒に顔面を殴られました。生徒が大きな指輪をしていたため、ひどい出血でした。
それが初日の話で、その後もあまりにも酷く(M先生によると「ましな状態」ということなのだが)、目を覆うような出来事が起こる毎日でした。3学期の終業式まで本当に毎日学園ドラマか映画の中にいるような気分でした(それでもまだ、かなりましな状態)。
起こったことの全てを書き記すと一冊の本になるぐらいの分量があります。
一件だけ、書き記しておきます。
・・・180cmを超える身長のある生徒が金属バットを振り回して廊下を歩きながら次々と両側のガラスを壊していく場面が今も目に焼き付いてます。止めに入った教師たちに「どけ、殺すどぉ」と金属バットを振り上げました。中堅の女性教員、K先生が彼に「○○、また少年院に戻りたいのかぁ!」と言い放った決死の姿と、それを聞いて真っ赤な顔をしてバットを握りしめながら泣き出した身長180cmの生徒の姿も、絶対に忘れてはならぬと思っています。K先生が「○○、また少年院に戻りたいのかぁ!」と立ちはだかった姿は、脅しではなく慈悲として彼の心に響いたのだと思います。K先生が彼との間に培ってきた信頼感が彼を思いとどまらせたのであろうと推測しています。

無力感


結局、そこの中学校には5カ月ほど勤めましたが、自分にできる事はほとんどありませんでした。若かったので、はじめのうちは自分にも何かできる事はないのかと必死に考えていました。「誰か、何か俺にもできることがないのか、指示をしてくれ」と思っていました。教頭から呼び出されたので何の仕事を与えてくれるのかと期待して校長室に入りましが、指示をされたのは、「朝早く来て、校庭、校舎の周りに落ちているタバコの吸い殻を拾って回ってくれ」でした。あまりにも些末な作業を命じられたことに少々がっかりしましたが、それが日課となりました。毎朝、無力感に苛まれ、下を向きながら吸い殻を拾いました。吸い殻でバケツはすぐにいっぱいになりました。なぜ不良生徒は授業についていけないのにわざわざ学校に登校してきて、わざわざ仲間同士で煙草を吸って吸い殻を捨てていくのか。注意をされたら逆上するのに、注意をされるようなことを学校でやり続けるのか。「『不良』と切り捨てる教師」と、「切り捨てられるようなことをさんざんやっておいて切り捨てられると寂しがる生徒」。小学校レベルの簡単な計算もできず、小学校レベルの漢字も読めない生徒たちに一体、何をしてあげることができるのか。当時の自分にできるのは、煙草の吸殻を拾いながら自問自答を繰り返す程度のことでした。
ある日のこと、顧問をしていたクラブ(毎日ほとんどの部員が結成する)のキャプテン(まともではないが少し真面目)がいっしょに吸い殻を拾ってくれたこともよく思い出します。悲しげな顔で拾った煙草の吸殻を私に差し出してくれました。惨めな顧問の姿に少し同情してくれたのでしょう。その生徒に対して、私は申し訳なさを感じながら「ありがとうな」と言ってあげる事しかできませんでした。不良生徒にも何もしてあげることができませんでしたが、やる気のある生徒・まともに学校生活を送りたいと思っている生徒もまた救うことができない自分の無力さを痛感しました。「完敗だったな」というのが、教師となって1校目の感想です。
この敗北感は教師として忘れてはなられない事のひとつであると今も心に留めています。
あれから30年以上経った今でも、学校で落ちているゴミを拾うことは習慣になっています。

救い


結局、その中学校に在籍した5カ月間はほとんど何もできずに過ぎました。授業は毎回うまくいかず、何一つ生徒を成長させた覚えがありません。まさに無力でした。しかし、少しだけ、救いを感じる事もありました。
その中学校は何と私の母校であったので、男子の不良のナンバー2の生徒の兄は私の同窓生でした。兄もかなりやんちゃだったのですが、小学校の終わりから中学校にかけて逆転現象が起こっていじめられていました。私はその兄をいじめから守ってあげたことがありました。ナンバー2の生徒は、私がナンバー1の生徒に胸倉をつかまれ、殴られそうになった時に「おい、そいつ(私のことです)はやめとけ」と助けてくれました。まさに「情けは人の為ならず」でした。
またある日、3年女子不良女子のナンバー1が私の授業(生徒が経ち歩き、騒ぎまくって騒乱状態でした)に乱入してきて「おい、お前らこの先生(私)には逆らうんじゃないよ!先生の言う事聞けよ!」と本気で脅してくれたこともありました。教室の騒乱が収まりました。
この2件の出来事はどん底の中でせめてもの救いでした。自分はなるべくどんな生徒であっても彼らの側にも立ってみて、彼らをできるだけありのままに受け入れるように接しました。若かった私には、(君らは教師に逆らって無茶苦茶をしているけど、俺は決して君らを敵とは思っていない。むしろ、救済されるべき弱者だ。)という想いがありました。この想いが荒れている彼ら、彼女らに少しは伝わったのだと思います。このことが「自分の教師としての目的は、弱者救済だ。そこに焦点を合わせよう」と考えるようになったきっかけでもあります。

TVの罪(社会の罪)


校内暴力が同時多発的に全国津々浦々まで広がった背景には、学校だけに原因があるわけではないことは明らかです。社会の罪も大きいと思います。1975年半ば以降、ロッキード事件を始めとする不正がまかり通る世相が学校に影響していたと思います(江川卓の巨人入団時の際の揉め事(1978年)も、子供の私にとって社会への不信感を強める事件でした)。
社会の罪の中でもとりわけ大きく児童生徒に影響したのが、「TV(メディア)の罪」ではないかと私は考えています。放送してはならぬものを全国津々浦々まで放送してしまったのではないかと言うことです。何故下記のような番組が放映され・商品が売られてしまったのか、甚だ疑問です。列挙します。

● ダウンタウンブギウギバンドの「スモーキン・ブギ(1974年)」→→→ 子供ながらに驚きました。こんな歌詞(授業をサボって喫茶店で(タバコを)一服)が堂々と放送されてよいのかと思いました。
● 横浜銀蝿の「ツッパリHigh School Rock'n Roll登校編(1981年)」→→→ こんな歌詞(今日も元気にドカン(違反とされる学生服)を決めたら ヨーラン(違反とされる学生服)背負って リーゼント(違反とされる髪型))が堂々と放送されてよいのかと思いました。
● 3年B組金八先生の第2シリーズ(1980年)→→→ 酷かったです。第24話は中学生(沖田浩之・直江喜一)が放送室に立てこもり、警察が出動、立てこもりを主導した2人は手錠をかけられ逮捕されます。しかしながら、それだけの騒動を起こした2人は担任(武田鉄矢)の除名嘆願で学校に復帰、感動的な卒業を迎えることができます。このストーリーは、「自分たちが主張したいことが正しければどんな手法を採っても押し通してしまえばよい」「先生がまともならついていく、まともでなければ反抗する」という身勝手な論法を子供たちに植え付けてしまったのではないかと思います。女子高生コンクリート詰め殺人事件(1988年)の犯人は「金八先生みたいな先生がいてくれればよかった。」と言っていたそうです。金八シリーズは「まともな先生(親)がいないから自分達は非行・犯罪に走っているのだ」という子供たちの身勝手な責任転嫁の思考回路を育んでしまったように感じています。
● 欽ちゃんのドンとやってみよう!(欽ドン)(1985年)→→→ 「赤信号みんなで渡れば怖くない」の作者は、ビートたけしであるかのように言われていますが、そうではなかったと記憶しています。萩本欽一が視聴者からの手紙に書かれていたこの一句を広めていました。こんな標語がメディアに乗せられて一気に広がることには当時、大変違和感をおぼえました。
● お笑いブームで漫才ブーム(1980年前後?)→→→ 1980年代に入り、漫才ブームに火が付きます。人を茶化すこと、小馬鹿にすることが常態化していきます。真面目なことを言う者を馬鹿にして、面白いことを言わないと「暗い(ネクラ)」と排除されるようになっていきます。「8時だよ全員集合」が「欽ドン」に追い落とされ、「欽ドン」が「オレたちひょうきん族」に追い落とされる格好となり、「オレたちひょうきん族」は「みなさんのおかげです」に追い落とされた感があります。より「毒」が強くなる形でお笑いが世間を席巻して言った印象があります。詳しくは、↓リンク先に譲ります。
何を「笑ってはいけない」のか?線引きを! ~クラスの「笑いの質」をコントロールする(2)
● 尾崎豊「卒業」(1985年)→→→ 「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」と歌われています。「信じられぬ大人との争いの中で」やってしまったことのようですが、抗議の方法が間違っています。何をしようと勝手だし、何を言おうと勝手だとは思います。しかし、「人に迷惑をかけない範囲で」という大原則を踏み外してはなりません。
● はいすくーる落書き(1989年)→→→ 「3年B組金八先生の第3シリーズ(1988年)」は金八先生の「浪花節的なノリ」が受け入れられなくなり、初めて卒業式シーンまで放映されずに12回で打ち切られました。それと入れ替わるように斉藤由貴を主演にして新しい感覚の学園ドラマとして登場したのがこの番組です。番組が流行った時期に私は中学校現場(2校目)にいました。明らかに子供たちの様子がおかしくなっていったのを感じています。ウィキペディアによると第1話が『先生、もんでやるぜ!』、最終回は『いづみちゃんが先公ならオレは更生する』となっています。タイトルだけでもこのドラマが露骨に刺激的で生徒の身勝手な論理に寄り添うことを標榜しているのがわかります。酷い。中学校の教室で生徒たちがこの番組の主題歌「TRAIN-TRAIN」(ブルーハーツ)を歌っていたのが印象に残っています。この番組のパート2が放映されていた1990年には、私が勤めていた中学校(郊外にある中学校で1989年にはそこそこ落ち着いていた)は市内で最も荒れた中学校となりました。1980年代末には一時的に鎮静化していた校内暴力がそれまで荒れなかった郊外の学校へと延焼していく1990年に入って現象に影響を与えていたと思っています。

1980年代を中心にざっと自分の心に留まっている「メディアのお笑い化・軽薄化」について触れてみました。語りだすととめどないのでこれくらいでやめますが、メディアの迷走が校内暴力に与えた影響、罪深さは計り知れないと思います。

教育の罪


言うまでもありませんが、校内暴力の背景には、間違いなく「学校の罪」「日本の教育の罪」が存在します。(前述したように金八先生の悪影響は大きいと思いますが)金八先生第2シリーズが指摘していたこと———「腐ったミカンの方程式」等———は的を射ていたと思います。大学受験を頂点とする日本の教育の「レッテル貼りの論理」「排除の論理」は子供たちばかりに責任を負わせる酷いシステムです。「落ちこぼれたのは自己責任」と言わんばかりの教師の態度はかなり改められてきたと思いますが、今もなお続いています。教師が「落ちこぼれ」を「落ちこぼし」と認識しない限り、不毛な学校教育をいつまでたっても改革することはできないと思います。どうすれば落ちこぼしを救済できるのか、システムを作り出すことは日本の教育の最大の課題のひとつだと思います。ここで詳しく書くと長くなるので、下のリンクをご参照ください。
学力保障 ~学校の荒れを防ぐための最優先事項
評価(受験・通知表)は最終的な評価ではない ~教員の意識改革を!(近日公開)
1980年代に校内暴力が吹き荒れた背景は、多方面からの指摘があり、一言で説明がつく話ではありません。早い学校では1975年あたりには相当荒れ始めていたと言われます。複合的な要因が絡んで徐々に広がりを見せていた現象が、1980年代に入って一気に爆発したのではないかと思われます。小学校でコントロールが効かなくなってきた1970年代の状況が中学校の大荒れに結び付いたとも考えられます。前述した通り、仮面ライダースナック事件(1972年)は中学校の大荒れに繋がっている「予兆」であったと思います。複雑に絡まり合う「教育の罪・社会の罪」を丁寧に紐解いてゆかねばなりません。

継承されにくくなっていく記憶と記録


以上、私の記憶にもとづいた所感を述べてきました。
世代論で考えると、「戦争を知らない子供たち」世代がすっかり学生になった時点で大学における学園紛争が起こっています(1969年がピーク?)。そして、「戦争を知らない子供たち(戦時中生まれであっても幼かったので十分に戦争について分かっていなかった年齢の子供たち)の子供たち」の比率が高まったことが、中学校における校内暴力が起こった誘因となったのではないかと考えています。ついでに言うと、小学校の学級崩壊が顕著になったのは、校内暴力世代の親の比率が高まった時期(1997年頃~)です。学校は児童生徒学生やその保護者の変化、そして時代の変化に対処しきれなかったのだと思います。川の堤防が決壊するような形で同時多発的に学校がクラッシュしたようなイメージがあります。
私は学者ではないので統計的なデータに基づいてこれらの現象を説明し、確かな原因を示すことはできません。また、図書館やネットで当時の様子を調べようとしても、具体的な内容にアクセスすることは今や難しくなってきています。特に校内暴力に関する書籍は図書館では書庫に眠っています。廃版となってしまってリアル書店でもネット書店でも手に入れることができません。当時は文部省もお手上げ状態で、データを取るという当然の責務を全うできていませんでした。現在の認知方法で当時の学校における暴力・非行事案の統計をとれば、とんでもない数字が示されることとなるでしょう。
まともなデータが残されることなく40年近い年月が過ぎ、「1980年代の中学校校内暴力教育」という教育の暗黒史はかなり見えづらい情報となってしまっています。しかし、若い世代、特に若い教師には学園紛争・校内暴力・学級崩壊の詳細や背景について、学んでもらう必要があると思います(どうして教育大学でこのことについて扱わないのだろう?)。若い教師には年寄りの武勇伝としか聞こえないかも知れませんが、語り継ぐべき歴史として残してゆかなければならないと考えています。学術的な研究によってもう一度「何故1980年代に校内暴力の嵐が吹き荒れたのか」が解明され、教育関係者及び一般人に分かりやすい形で共有されることを願います。

終わりのない破綻


現在(2018年)、不気味なのは、生活習慣の状況や不登校などしばらくの間落ち着いていた小学生の暴力事件の発生率が2012年から悪化していることです。特に深刻なのは、小学生の暴力事件の発生率。2012年から悪化しています。しかも2014年から急激に悪化し、一気に高校を上回り、2016年には高校の3倍近くに急上昇しています。(この段落は陰山英男先生のFACEBOOKより引用させていただきました)
平成27年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」(速報値)について
1980年代の校内暴力のような爆発的な現象(急激な伸び)ではなく、じわじわと上昇している状況であることを考えれば、1980年代の校内暴力時代以上に多数の複合的な要因が影響していると思われます。1980年代の中学校程の狂気ではないにしても、学校の荒れはもう40年にわたって続いています。多忙化も重なって、現在まで学校現場は「終わりのない破綻」を繰り返しているかのようです。過去の暗黒史と照らし合わせながら、きちんと現在の状況を把握することが急務であると思っています。

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