天平~奈良時代を天皇中心に考える

複雑な人間関係(蘇我氏・天智を中心に).xls

↑まず、このファイルをご覧ください。天平~奈良時代の天皇を中心とした人間関係は、実に複雑であることがわかります。

小中学校の教科書

小中学校の教科書で、天平~奈良時代には、仏教の影響を受けたことが強調さていますが、政治に関する人物に関しては小学校教科書では<推古天皇・聖徳太子・蘇我氏・天智天皇・藤原鎌足・聖武天皇・桓武天皇>が扱われているのみであり、中学校でもこれに<蘇我馬子・天武天皇>が加わる程度となっています。

実際の天平・奈良時代には多くの「乱」や「変」あるいは暗殺・幽閉・自殺が繰り返されており、かなりどろどろとした時代です。蘇我氏と藤原氏が実権を握り、皇位継承に絡んでおり、親族結婚は実に複雑な人間関係を生み出しています。親族間での確執は深まり、親子・兄弟間でさえ、多くの激しい対立があったことが記録に残されています。中学校では大化の改新・壬申の乱を扱っていますが、小学校の教科書(大阪書籍)には「中大兄皇子が蘇我氏をほろぼした」とあるだけで、「大化の改新」という言葉さえ用いられていません。

教科書には、大仏建立の理由として、疫病の流行や貴族の反乱が挙げられてはいるものの、日本独特の怨霊信仰については副読本などで触れられている程度です。肉親間での殺戮・謀略を繰り返し勝者となった後に、敗者の怨霊を恐れるケースがよくみられることは、井沢元彦氏が著書「逆説の日本史」でも繰り返し述べています。

天平~奈良時代の大雑把な流れ

小中学生がこの時代の複雑な人間関係の詳細を正確に理解することは難しいでしょう(特に小学生)。天皇が中心であったこの時代の事を、大雑把に把握しておく程度で十分だと思います。大人であっても当時の人間関係を理解し、想像することはたやすいものではありません。小学校の教師でも、歴史ファンでない限り、皇極天皇の家族構成や性別・別の名・政治的な業績をすらすらと述べることができる者はほとんどいないと思います。私も時々、気合を入れて学習した時には少しぐらいは頭の中を整理できますが、時間が経てばすぐに忘れてしまい、歴史マニアと話せるようなレベルにありません。

細かいことを理解し、覚えておくことはできなくても、大きな流れをある程度つかんでおくことには価値があると思います。通常の系図では見えにくいので、天皇家を中心とした大きな系図を作ってみました。この時代を読み解くときに、次のような観点から考えてみるのも面白いと思います。

1. 婚姻関係によって、人間関係は実に複雑で、肉親同士の対立が続く。

2. 蘇我氏と、聖武天皇を中心とする天武系が結果的には疎外された形になっている。両者とも仏教色が強い。

3. 奈良時代には天武系を中心に皇位が継承されるが、光仁天皇の即位によって途絶えた。・・・井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死した(暗殺説が有力?)ことにより、天武系は皇位継承が困難になった。

4. 現在の天皇までつながる皇統は、天智系である。(男系でつながっている)

5. 日本史では、親族間での悲惨な争いが、絶え間なく続いている。天平~奈良時代の皇位継承は、日本の歴史の権力闘争の代表的なパターンとして、初めて記録としてしっかり残ったものである。また、権力闘争を取り巻く宗教(神道・仏教・怨霊信仰)に注目するのも重要である。

特に、飲んだくれ(偽装説もあり)と言われた光仁天皇(白壁王)が62歳?で皇位を奪還し、妻子を滅ぼしてまで天智系が復活するくだりは、高等学校でさえ詳しく触れることはあまりないでしょうが、日本史を理解する上で重要なポイントであると思います。光仁天皇は実子である他戸親王を妻井上親王とともに幽閉しています(その後、母子ともに急死・・・暗殺説もあり)。他戸親王の怨霊は、長岡京・平安京の造営にも深いかかわりがあるといわれます。滅ぼされた井上親王の逆に位置する高野新笠は帰化系と言われています(平成天皇の「韓国とのゆかり発言」)。蘇我氏が渡来系と言われ、光仁天皇の祖父にあたる天智天皇が朝鮮半島へ遠征(白村江の戦い)をおこなっていたことと併せて考えると、天平~奈良時代は人々の運命は大陸との関係も含めながら継体天皇~天智系に連なる男系を軸にして実に大きく転回しているように見えてきます。

小中学校の授業で


この複雑な人間関係について、中学校、ましてや小学校で専門的な話をして深入りしまうことは避けた方がいいでしょう。複雑な婚姻関係とその対立や、天皇家の中心ラインが男であることを示す資料として、提示する程度であれば、利用価値はあるかもしれません。

1. 「知っている人物を見つけましょう。」→教科書に出てきた<推古天皇・聖徳太子・蘇我氏・天智天皇・藤原鎌足・聖武天皇・桓武天皇>を挙げさせた。

2. 気がついたことを数点上げさせた。→複雑な婚姻関係(一夫多妻・伯父と姪の結婚)や親族間での争いに気がついた。

と、この程度で留めて大雑把に理解させるなら、価値があるかもしれません。15~20分程度でざっと。系図には表れていない争いがまだまだ多数あることを説明し、争いの末に勝者が怨霊を恐れ、奈良の大仏や平安京遷都にも影響したことも話すとよいでしょう。蘇我・天武系が排除され、天智系が男系として今日まで皇位を継承していることにも触れてみると今日的な皇位継承問題にも絡められるかもしれません。仏教を篤く信仰した聖徳太子の子供(山背大兄王)や聖武天皇の子供(他戸親王)がかなり厳しい状況で亡くなっていることは、児童生徒にとっては従来とは少し違ったイメージとなって残るかもしれません。

志貴皇子


余談であり、確証があるわけでもないですが・・・光村の国語教科書に、

「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」

という志貴皇子の歌が掲載されていました。彼は天智天皇の子であり、光仁天皇の親にあたります。彼は政治に関与することはありませんでしたが、結果的に天智系を継承する橋渡しという形になった立場になっています。彼の視点に立つと、天武系の子孫による皇位継承が行き詰まる予感を得ていたのではないかとも思えてきます。彼の姉に当たる持統天皇や元明天皇は女性天皇で、天智天皇の娘ですが、天武天皇の子孫を残す立場であったと考えられます(ああ、複雑)。
草壁皇子(持統天皇の息子、元明天皇の夫)や文武天皇(持統天皇の孫、元明天皇の息子)が若くして亡くなる、大津皇子の自害(持統天皇の関与)等、天武系の皇位継承は相当な混乱が見られます。志貴皇子の死後、称徳天皇(天武天皇系最後の天皇)が道鏡を寵愛してしまい、子宝にも恵まれないという状況もありました。志貴皇子には天智系(息子の光仁天皇)が継承を奪回する可能性が見えていたのかもしれません。

志貴皇子にとって、父天智の死後、兄大友皇子は伯父天武に敗れ(壬申の乱)、皇統が天武系に移ってしまったことは無念であったに違いありません。志貴皇子は文人として生涯を終えています。そんな折、天武系がほころびを見せ始めている・・・。こんな状況から想像すると、彼は天智系(男系)での皇位継承への期待と喜びを(密かに)この歌に詠みこんだのではないかと思えてきます。

この歌に関する真相は定かではありませんが、志貴皇子の視点に立って当時の状況を眺めてみることは、この時代を考察するには面白い立ち位置であるかもしれません。

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