教科指導と地域連携から公教育を考える<後半>(京都大学 石井英真先生)

45

※本記事は、NPO法人ROJE五月祭教育フォーラム2016のホームページに掲載された記事(2016年5月27日公開)に加筆したものです。

目次

1 はじめに

2016年5月、京都大学准教授の石井英真先生にインタビュー取材を行いました。

石井先生は、学校現場での授業研究を進めながら、学校で学ぶべき学力の中身やその形成の方法論について理論と実践の両面から研究されています。そのなかで、コンピテンシー育成に向けた教育諸改革についての研究もなさっています。
  インタビューでは主に、ご専門の教育方法学の視点から、今の教育現場の現状について解説いただきました。

本記事は前半・後半の2本立てとなっています。

後半では、2016年、選挙権年齢の引き下げが施行され話題となった18歳選挙権や主権者教育の問題と、「確かな認識能力」について解説していただきました。
  また前半で扱った地域との連携の観点と絡めながら、学校評価や、通信制高校の動き、教師の多忙化についてお話しいただきました。

前半はこちらをご覧ください⇒教科指導と地域連携から公教育を考える<前半>

2 インタビュー

–2016年のホットな話題として、18歳選挙権と主権者教育があると思いますが、それについての持論をお聞かせください。

まず教科の内容とはなんなのかという話をします。対象世界に対して人間が格闘して得た知恵は文化遺産として蓄積され後の世代に手渡されるわけですが、そうした文化遺産の一部をパッケージ化したものが教科の内容です。理科であれば、人間が自然と格闘する中で得た知恵や認識枠組みを自然科学という文化として蓄積し、それをパッケージ化して教えているのが理科です。いまの教科学習では、そのパッケージ化した教科の内容しか見せていないのです。パッケージ化した教科の内容で閉じているし、教科の内容を教師が解釈したその限りにおいて子どもたちに伝えているわけですよね。そこで子どもたちは、対象世界そのものを見ていないのです。

社会科が公民的資質を養う、つまり市民を育てるものだとすれば、本来の社会科の趣旨に戻って、もう少し子どもたちが社会事象を分析し、自分なりの見解や世界観をもてるような授業を展開すべきだと思います。主権者教育といったときには、模擬投票などといった形式にとらわれてはいけません。ただ単にアクティブな市民を育てるのではなく、きちんとした市民的教養をともなって行動する市民を育てなくてはならないですよね。政治的にうぶな、素朴な政治的主体を育てるのではなく、確かな認識能力市民的教養を持った市民を育てていくということが大切です。

–確かな認識能力はどうすれば身につくのでしょうか。

まずは概念を理解させることが大切です。「三権分立」という概念を例に取れば、司法・立法・行政の三者の関係を図にまとめたり、三権分立になっていなければどういう事態がおこるのかというところまで考えたりしていけば、概念は形成されていきます。その上で、三権分立という観点から見たときに今の日本の政治状況をどう読み、実際に起こっている問題について自分はどう考えるか、という風に現実の状況を読み取る眼鏡として概念の学びを深めていくことが大事だと考えています。

日本の授業や教科書の構成は、ひとたび教科の世界に入ってしまうとその中で学びが閉じてしまい、生活の世界にもう一度戻って知を総合するという動きがとても少ないです。それどころか、最後はドリルや練習問題で終わる。これでは、結局は語句を暗記しておけばよいと子どもたちに感じさせてしまい、ふだんの授業で学びの深さを強調してもそれが活かされません。だから、概念を理解させた後もう一度それを自分たちの生きている複合的な生活の現実に戻して、ではどう判断すればいいのか、という風に自分の意見を組み立てていくことが大切です。注意すべきは、自分の意見を表明することだけをやってしまうと自分の勝手な憶測で話をすることになるので、概念をきっちり形成することを忘れてはいけません。これによって概念というのが「ものの見方・考え方」になって、自分が生きていくうえでの判断のよりどころになる軸になっていきます。

学校でこそできることというのは、つまるところ認識形成なんです。概念として学んだことが、自分が世の中を見通していく眼鏡になります。教科の学習で一番大事なのは学ぶことによって世界の見え方が変わるということです。例えば、酸化という概念を学ぶからこそ錆びることと燃えることがつながるわけですよね。教科学習を通して世界観はちょっとずつじわじわ変わっていくんです。そうした変化が自分たちの生きていく社会にどうかかわってくるのかというのを、学習者から見えるようにしてあげられればいいんだろうなと思うんですよね。それは学校でしかできない。認識の教育は地域の働きだけではできないですよね。家庭教育に依存するだけでも不可能。教具も必要だしいろんな活動はみんなでやらないと難しい。社会への参画といったことで言えば地域の参画があればもっと学びが深まるわけです。それだけのリソースを動員して協働的に学習を進めていける場は学校しかないと思います。

–学校評価が消費者意識を生んでしまうという議論があります。公費を投入するという性質上、学校に評価は必要だとは思いますが、そのあり方についてはどうお考えですか?

これは、地域からの信頼の話と密接に関わってきます。公費を投入している以上、それに対する説明責任が求められるというのは確かに一面の真理ではありますが、説明責任の主体と相手が誰なのかを考えるべきです。そこで、説明責任の二つの層を考えてみましょう。

一層目は自分の子どもを通わせている学校、自分たちの地域の学校、これがちゃんとやっていると保護者に思ってもらうということです。各学校が目の前の保護者や子どもたちに対して果たす、顔の見える関係性の下での説明責任です。保護者の方が一番安心するのは、やはり授業参観などの機会に楽しそうに真剣に学んでいる子どもの生の姿を見ることです。そういうことから言えば、日本の学校は通知表や学級通信など、手厚い家庭との連絡機能を持っています。これが本来説明責任といったときに大事になってくるベースだと思います。

しかし、自分の子どもが通っている学校は信頼できても、日本の公教育全体を見たときにどうかという二つ目の層があります。日本の教育界全体に対して「大丈夫なのか?」という、顔の見えない関係性で投げかけられる声に対する対応も必要というわけです。この層での説明責任の主体は個々の学校というより行政の側だと思います。日本の公立学校は決して悪い水準ではありません。1億を超える人口規模でこれほどの教育水準を保っている国はなかなかありません。日本の公立学校は大丈夫ですよ、というメッセージをもう少し行政の側から出していってもいいのではないかなと思います。

–N高校など通信制の高校ができていますが、そうした学校が増えると地域とのつながりは薄くなると思います。こうした動きについてはどうお考えですか?

いつでもどこでも学べるというのが通信制の魅力ですよね。学校に限らず、多様な学びの場は必要だと思います。学習者の側からすれば、必ずしも地域のコミュニティにとどまって学ぶ必要はないという具合に、選択肢が生まれます。しかし、集団としての同質性や凝集性の強い従来型の学校の形は、地域のセンターとしての学校に地域が参画していく傾向を強くしながら、学校教育の一つの有力な形として残り続けると思います。お祭りなどもすたれていく中で、やはり寺社ではなく学校が地域のセンターになりつつある、だから、地域の側から見るといまや公立学校というのはものすごく重要な位置づけを持ってきているという側面があります。

ただ、地域のセンターとなりうる人員と空間と資源を持った学校という場所は、学習者の側からすると必ずしも居心地のよい場所や学びやすい場所ではなくなってきていて、そこにずれがあるといえます。一方で、これまでの学校の在り方もまだまだ量的には大部分を占めていますし、あくまで子どもたちの学習や幸福を保障していくという観点から子どもたちの社会的な環境、学習環境を手厚くしていくという方向で、地域の人との協働を仕組んだりして、コミュニティとしての学校を活性化するとともに、一方では、従来の学校とは違ったゆるやかなつながりの下で居場所感を持って、自分なりのペースで学べる場なども多様に保障されねばならないでしょう。

–公教育の重要性はどこにあるとお考えですか。

今の時代、学校に行かなくても学びは成立するようになってきつつあります。通信制の学校やネット上で学びたいとき学べるシステムなどが生まれる中で、近代学校とは異なる学びのシステムに少しずつ移行しつつあるのかもしれませんね。ただ、現実的に言えば近代社会において学校教育を中心とする公教育制度は、社会の人材配分に関わる選抜機能や、子どもたちを「人間」や「国民」や「市民」などへと形成し近代社会を維持・発展させていく働きにおいて、依然として重要な位置を占めています。加えて、学校教育が成立した背景には子ども期の発見、子どもというものの独自性や固有の価値の発見というのがあるわけですよ。子どもを社会から保護するという面で学校制度は大きな役割を果たしています。学校の、学習権の保障という役割を手放してはいけないというふうにも思います。貧困問題の核心は最低限のつながりや尊厳や生存権の保障です。ゆえに、貧困問題が拡大する中、学校という場に、教育機能以上に福祉機能を期待する傾向も生じているように思います。しかし、格差の再生産にストップをかけるには、学習権を保障して能力を付けて、未来の不平等の連鎖を断ち切ろうという動きが必要です。教育というのは人間を変えるということなので、ありのままを承認すること、いわば変わらない自由を認めるかどうかというのはとても難しい問題です。

–最近、先生の時間外労働に手当を支給するかどうか議論がされています。部活動や特別活動は昔からあったのにも関わらず、最近多忙化ということが言われ出したのは、教師が信頼や尊敬を受けなくなってきているというところが大きいのでしょうか?

それもありますし、もう一つ、近年の教師の労働状況の調査を見てわかるのが、本業率の低下です。子どもと触れ合う時間が減って会議や書類書きなどの雑務が増えました。1990年代にはすでに生まれていたこの傾向は、2000年代に入りさらに強まっています。忙しくても子どものためであれば「手ごたえ」があるんですが、本業以外の業務がすごく増えて「徒労感」だけが残るというのが忙しさの正体です。最近だと保護者対応もその一つです。これは信頼の問題とも関係していて、信頼がないから一つ一つに対して説明責任を負い、書類を書かないといけないという状況です。手続きがすごく煩雑化しています。本業に割けない労働時間の増加という、忙しさの中身の問題がベースにあると思います。

–本業に時間を割けないことの遠因となっている、学校現場への信頼の失墜の背景は何ですか。

戦後の改革で、教師の学位レベルはぐっと上げられ、それが日本の教育水準を支えた部分はあると思います。1970年代半ばに高卒以上の学歴が当たり前となる以前であれば、地域で大学卒って教師を含めわずかしかいなかったわけです。しかしながら、いまや親の学歴が教師以上の場面も多々あり、学歴面での優位性が揺らいでいる。社会の不満の声の多くが公務員に寄せられていて、そのなかでも、一億総教育評論家状態で、いろいろと文句の言いやすい教育に不満やステレオタイプの批判が集中することによる影響も大きいでしょう。しかも、教育が商品化され、人々の消費者意識が高まる中、教師をサービス提供者とみて、その責任を一方的に追及する傾向が見られます。

また、全人口の中での子育て世帯の率はいま非常に下がっていて、しかもその世代が投票に行かないことで、子育ての当事者の声が政治に反映されにくいという問題もあります。教育を擁護する声や勢力が相対的に弱くなっているわけです。先生が書かなくてはならない書類が多くなっていることの背景には、「公務員としての教師」という教職イメージが強まったこともあると思います。「専門職としての教師」は子どもたちに対して誠実であることがまず優先されるべきです。公務員として御上から課された職務を忠実に遂行するということが優先され過ぎているところがあると思います。

–最近教員志願者数が下がっているということをよく聞きますが。それについてはどのようにお考えですか?

やはり、教職がもっと魅力ある職業として映らないとみんななろうと思わないですよね。教師バッシングが広まり、しっかり仕事をしているのに全然報われずその仕事の尊さも伝わらない状況下で、教師になりたいという気持ちは起こりづらいです。教育万能論学校不信が同居しているのが現代の非常に難しいところです。教師の魅力や学校の魅力を高めていかないと学校に対して高まり続ける社会の期待にこたえていけないし、学校不信に対するディフェンスもかけられません。教育万能論に対しては、教育が万能ではないことをきちんと伝える必要があるし、学校不信に対しては、学校はしっかりしているということを言わなければならない。そうしないとバランスを欠いてしまいます。

–先生は教職課程の担当でいらっしゃいますが、そうした時代背景の中で、多忙な教師という職業につこうとしている学生に、身に付けておくべき能力と、メッセージをおねがいします。

「大学でしかできないこと」をやってほしいです。大きく分けて二つあります。

1つ目は「研究的に学ぶ」ということです。ひとたび現場に入ると、「実践に役立つかどうか」という基準で学ぶようになります。そのため、現実から距離を取って、そもそも論を問い、前提を疑っていくという研究的な学びは、なかなか大学でしかできないことなのです。アクティブラーニングなら、「そもそもアクティブラーニングとは?」とか「どこから出てきた概念なのか?」「そういう言葉を使う必要がそもそもあるのか?どういうことが起こりうるのか?」に立ち返って問うということを大学ではしてほしいです。大きな変化の根っこの部分を学ぶことで、現場に押し寄せてくる課題や問題を相対化し自分なりに位置づけることができます。

教育という営みは価値に関わるので、実践においては判断の連続であり、そこにはいろんな論点が存在しています。例を挙げれば、教育方法上の立場には系統主義と経験主義があり、ざっくりいえば、教える側の論理を優先して科学や学問の成果を系統的に教えていくのが系統主義、子どもの側から見て生活経験に即してそれを学び広げていくのが経験主義です。そうした軸を頭の中に入れておけば、学習指導要領の変遷についても、大きく言うと経験主義的なものが系統主義になりそれがもう一度経験主義的な方に振れるという風に、改革を冷静に見ることができるようになります。多くの教育実践もその2軸の間のグラデーションのどこかに位置づくとみることができます。自分なりに自分はどちらの軸の主張に共感するのかというのを持っておくだけでも、自分の軸ができますし、軸さえあれば、新しい要求も予想される批判を視野に入れながら自分なりに位置づけることができます。そうした理論的な軸がその人自身の授業や実践の哲学になってくるわけです。

2つ目は、大学の外にもある様々な学びの場で、自分で責任を引き受けていろんなことに挑戦してみることです。失敗しながらもいろんな人とつながるといいと思います。それから、「教えられないと学ばない」ではなく、自分たちで学びの場を作っていく経験をたくさんすることが大事です。授業に出ていたら学んだ気になるという意識はよくないです。学習機関としての大学のよさを活かして自分たちで学びの場を見つけ、そこでいろんな人と一緒に自治的協働的に学んでいくことが大事だと思います。そこで人間としての幅を広げていかれると良いと思いますね。

教師という職業はここまでやればOKという基準がないので多忙になりがちですが、それは裏を返せば、子どもたちのために自分なりに最善のものを追求していけるという可能性が開かれているということでもあります。子どもたちと向き合い、子どもたちにとって最善のものはなにかを考え続けるうちに、絶対に手ごたえという形でかえってくる、そういう職業です。人間が育つというところに立ち会うわけですから、その手ごたえは何物にも代えがたいものがあります。人間の成長に立ち会うことによって若い世代と一緒に自分も学び、成長していくことができるのです。

3 編集後記

概念として学び、理解したことが、生きていく中で起こることを読み取る眼鏡として、見方・考え方のよりどころとなる軸になるという「確かな認識能力」の育成が大きなキーワードでした。いかがでしたか?

この「確かな認識能力」の形成は、学校教育だからこそできるという点で学校の果たすべき大きな役割である一方で、地域・社会と学校の関係のあり方が及ぼす影響も見逃すことはできません。そうした点や教師の置かれている状況についても詳しく解説いただきました。

前半の記事では、学校で育むべき能力の問題やアクティブラーニング、学校と地域との連携、ICT化の影響についてお話しいただきました。前半もぜひご覧ください。

記事はこちら⇒教科指導と地域連携から公教育を考える<前半>

(EDUPEDIA編集部 横山尚人・新井理志)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次