1 はじめに
本記事は、岡篤先生のメルマガ「教師の基礎技術~指導と対応~7号~15号」から引用・加筆させていただいたものです。
この記事では「指導」の限界を感じたので特別支援の観点から「対応」をした実践を紹介したものです。
岡篤先生のメルマガはこちらを参照ください。→http://archive.mag2.com/0001346435/index.htm
2 実践内容
「指導」から「対応」へ
私が「指導」の限界を感じ、「対応」という考えを持つようになったきっかけは、ある女の子でした(この子をAとします)。Aは、いわゆるキレる子でした。授業妨害も激しく、友だちづきあいも下手でトラブルが多発していました。ただし、こちらの方はついては様々な手立てを講じて少しずつ改善していきました。現状がどれだけ厳しいものであっても、それを分析し、有効な手立てを見つけ、その手立てを継続することによって子どもの変化を生むことを目指すのが指導だと考えていましたし、今も同じです。その変化がほんのわずかであったとしても結果的に1年を終えた時点でまだ他の子よりも大きく劣る状態だとしても、伸びを見ることができれば取り組んだ価値はあったと考えられます。
■怒鳴ることで引き起こす行動
Aの授業妨害や友だち関係についての「指導」は効果がありました。しかし「キレた」状態になると手がつけられません。いくら、穏やかに話し続けても、全く聞く耳を持ちません。周りの子に暴言・暴力を働くので、ときには大声を出して押さえようとしましたが、これも効果はありません。それまで私が接してきた子たちも、一瞬キレるような状態になることはありました。しかし、私が「誰に向かって言っているんだ。」と怒鳴れば、はっと目が覚めたように黙る子がほとんどでした。そうでなくても、しばらくして落ち着いたときに穏やかに話をすれば、反省して素直に謝る子でした。ところが、Aは、いったんキレるとどうしようもありません。こちらが大声を出すとますます興奮する、穏やかに話しても図にのって暴言を重ねる様子です。
■「指導」してよい場合としない方が良い場合
Aは「固まる」ときもありました。朝から不機嫌に登校してきて、ランドセルも出したままで、机に伏せています。それが、朝の会が終わり、1時間目が過ぎても、ずっとそのままです。寝ているのかというとそうではありません。周りの子に「何かあったのか?」と聞いても誰も分かりません。私がいくら声をかけても、聞こえているのに全く無視です。しかし、午前中には、何事もなかったかのように、ふだんの状態にもどります。これが、何ヶ月かに1回のペースで起きました。私は、ただ見ているだけで何もできません。このときに、私の指導ですぐにはどうしようもないこともあるということを悟りました。
■「指導」するべきでないとき
Aがキレたり固まったりしたときに、私が「指導」をしようとすると、事態は悪い方にしか変わりません。色々試してみましたが、私の力ではどうしようもないと悟りました。時間が過ぎて、ふだんの状態にもどると、みんなと楽しそうに遊んだり、私に気軽に話しかけてきたりすることもあります。しかし、それは指導の成果ではなく、単に時間が経過したことによるものでした。キレたり、固まったりしたときは、こちらが何か働きかけるごとに興奮したり、固まる時間が長くなるので、「指導」をするべきではないと考えるようになりました。
特別支援から得た知識
▼クールダウン
特別支援教育の本の中で、「クールダウン」という言葉を知りました。ウォーミングアップに対する整理運動としてのクールダウンです。子どもが興奮して指導が入らない状態になったら、余計なことをせずに、落ち着くのを待つという考え方です。
■「指導」という思い込み
私が思い込んでいた「指導」の中には、クールダウンという概念がありませんでした。クールダウンという概念を得てみると、「指導」しないことが正しい行為の場合もあるということが分かります。
■教師のクールダウン
正直なところ、私の場合、子どものとった行為について指導していたはずなのに、いつのまにかその指導に対する態度に腹をたてて、感情的に怒っていたような面もありました。クールダウンという考え方を得て、私自身もクールダウンすることができるようになりました。特別支援教育から得た知識で、目から鱗が落ちた物はクールダウンの他にもあります。
▼「不適切な行為は無視せよ」という考え方
無視は、子どもの中で起きがちな陰険な行為という認識が私にはあります。そして、無視されないために言うことをきいたり、気を使ったりするという現実もあります。そのため、「無視する」という言葉を使うこと自体に抵抗があったようです。ところが、特別支援教育の専門家の中では、「不適切な行為は無視せよ」という言葉は、当たり前のように使われているらしいのです。
■挑発にのらない
もちろん、子どものいじめと同じレベルの無視ではありません。意図的か無意識かでは関係無く、子どもが教師の気を引こうとわざと不適切な行為(暴言を吐く、物を投げるなど)をしたとします。そこで、教師がかっとなって、挑発にのることは、子どもに「こうすれば、教師は自分に目を向けてくれるんだ」と解釈させることになる、という理屈です。子どもが実際に意識の上でそう考えているということではありません。そこまでの発育過程で、あるべき人間関係の作り方を学習することが出来ず、そういう行為でしか大人の気を引くことができなかったという解釈のようなのです。したがって、この場合の挑発行為にのせられて、感情をぶつけることは、子どもにとって気を引くことに成功したという学習になってしまうのです。とはいえ、相手は無意識ですが挑発しようとして、いろいろやってくるわけです。分かっていても腹は立ちます。
■やっていることを冷静に指摘する
「不適切な行為は無視せよ」という知識を得たとしても、不適切な行為がこちらの感情を逆撫でして、挑発する行為なだけに、なかなか冷静に無視することはむずかしいときもあります。この考え方でいくと、基本は「適切な行為」のときに充分に認めて、ほめて、正しい関わり方を学習させるべきなのでしょう。それはそれで分かるとしても、実際に暴言などが向けられているときは、どうしたらよいのでしょう。
被虐待児の研究者である、西沢哲氏の講演を聴いたときのことです。施設に行くといきなり、「おら、西沢、死ね」とどなりつけてくる子がいるそうです。そういうときは、「君は、ぼくをおこらせたいのかな」と本人の行為を指摘します。それによって、子どもには行為を振り向かせ、自分自身は冷静さを保つことができるというのです。
■二つの原因
これなら、挑発にのり、ますます興奮がエスカレートすることはありません。その結果、「挑発すれば、人は自分に関わってくれる」という間違った学習を強化することもなくてすみます。
▼ブロークンレコード
以前に担任した子に、気が乗らないときにプリントを配るとぐちゃぐちゃに落書きを始める子がいました。鉛筆で真っ黒になるくらい、ぐちゃぐちゃに書きまくるのです。「やめなさい」といっても全く無視してやり続けます。しばらく過ごしていると、この子がそういうことをするときには、二つの原因があるのではないかと考えるようになりました。
■「教えて下さい」が言えない
一つ目は、プリントの課題が難しくて分からないときです。
ぐちゃぐちゃの落書きを始めたときに、簡単なプリントに変えたり、分かりやすく式を書き加えてやったりすると、手をとめてそれを見るときがありました。そして、できそうだと思ったら黙ってそれをやりはじめるのです。つまり、「分かりません。教えて下さい」ということが素直に言えないのです。
二つ目は、気分がのらないときです。
直前に何かがあって、やる気がしないときなども、「ぐちゃぐちゃ」が出るときがありました。このときは、内容が分かるかどうかは関係ありません。ていねいに教えても止まりません。このときは、ブロークンレコードが有効でした。
■気分がのらないときの対応
この子を担当したときは特別支援学級の担任でした。この頃に、ブロークンレコードという言葉を知りました。文字通り、こわれたレコードのように、同じ言葉を冷静にくり返すというものです。ブロークンレコードを試す機会は、すぐにやってきました。また、例のぐちゃぐちゃが始まったのです。その子にとって簡単なプリントはどんどんやることが分かっていたので、できるだけ無理のないレベルのものを多めに与えて、学習に集中する時間を意図的に作っていました。そんな中で、この日は、交流学級でからかわれたということでした。いつもなら、さっと取り組むはずのプリントに、落書きをぐちゃぐちゃにし始めました。からかわれたことについては、休み時間に話を聞き、納得して落ち着いたと思っていました。
■ブロークンレコード失敗
プリントに落書きをしている横顔に向かって、始めるように促しました。しかし全く反応せずに、落書きを続けています。始めるように再度言いました。
いらだち出した気持ちを押さえながら、3回目を言いました。もう、問題はほとんど落書きで見えなくなってしまいました。
「これ、自分で消せよ」
と言いましたが相変わらず無表情に鉛筆を動かし続けるので鉛筆を乱暴に取り上げました。その子は、落書きができなくなり、一瞬、動きを止めました。しかし、すぐに筆箱から別の鉛筆を取り出して、同じことをやり始めました。それを見た瞬間、今度はプリントを取り上げました。
「いい加減にしろ。交流でからかわれたからって、いつまでも」
と怒鳴りつけました。がまんができませんでした。結局、この時間、その子は何もしませんでした。それに、プリントをしたくないときは、ぐちゃぐちゃに落書きすれば、教師は勝手に怒り出してやらずにすむという考えをさらに強く学習したとはいえるでしょう。また、これによって自分に感情を向けてくれるということも再確認したかもしれません。1回目は完全に失敗です。冷静に言い続けるということは簡単なことではありませんでした。
■子どもに対して本当に効果があるか
ブロークンレコードという知識は持ったものの、それを現実に当てはめて使いこなすのは別の問題でした。私に向かって、暴言を吐いたわけでもなく、物を投げつけたわけでもありません。ただ自分の鉛筆の芯をすり減らして線を書いているだけです。こっちが勝手に声をかけて、勝手に腹を立てているだけです。彼には、いたくもかゆくもありません。おそらく、私が何度も注意したり、怒鳴ったりしたことなんて、すぐに忘れてしまっていることでしょう。
■十回原則
今回のブロークンレコードの取り組みは、自分の精神修行と割り切ることにしました。もし、彼に勉強させることができなくても、それでいらいらしなければ私自身が少しは成長したことになります。そこを第一に考えるようにしました。
私は、自分の中で「十回原則」というものを持っています。何かの取り組みをするときに、1回や2回ではうまくいかなくても、10回やればうまくいく可能性が高いという考えです。そのつもりで腰を据えると意外とできるものです。彼に対してのブロークンレコードは、10回言っていなかったような気がします。本気で腰をすえて10回言ってもやらないのでしょうか。それを10日間続けてもやらないのでしょうか。自分の精神修行と割り切り、十回原則の実験として、もう一度挑戦してみることにしました。
■十回原則の実践
この日は、少数の計算練習をしていました。まとめの段階だったので、かけ算と割り算を続けてやることにしました。かけ算は順調に進みました。できることは比較的スムーズに取り組みます。今日は、機嫌も悪くないようです。ところが、わり算に入ったとたんに鉛筆が止まりました。すぐに鉛筆が動き出しましたが問題を解いているのではなく、ぐるぐると落書きが始まったのです。
「ここに商を書くんだろ」と落書きの手を押さえて言いました。
「死ね」彼は、プリントを見たまま言いました。
その後一通りの説明をして、問題部分の落書きを消しゴムで消して書けるようにしました。また落書きの手を押さえて問題を解くように促しましたが彼は私の手を払って落書きを続けました。
私は、(1回目)と心の中で数えました。手元のメモに、「一」と書き込みました。正の字で私が何回「やりなさい」を言うのか、正確に数えてみることにしたのです。
■自分で意識することで冷静に対応する
せっかく消してやった落書きですが、またぐちゃぐちゃに書き続けて問題が見えなくなってしまいました。私は、裏に問題を写しました。「はい、やりなさい」しかし、私が書いたばかりの問題の上にまた落書きを始めました。
正の字の二画目を書き加えました。
これを書くことが鎮静剤になっているようです。いつもほどはいらいらしていない自分に気がつきました。実際に私が答えを書き込みながら、もう一度やり方を説明しました。
「はい、やりなさい」
今度は、私が書いた答えをぐちゃぐちゃにしていきます。
■さらに冷静に対応
また線を一本追加しました。
冷静に対応している自分が分かりました。落書きしている手を押さえてくりかえし問題を解くように言いました。しかし手を振り払って落書きを続けます。また、手を押さえて言いました。
一つ目の正の字ができました。五回、「やりなさい」と冷静に言い続けたことになります。興奮せずに対応できたことだけでも収穫です。肝心の彼は、今度は手を止めています。
■ブロークンレコードの効果
六回目の声かけをしようとしたとき、また彼が動き始めました。落書きを再開するのだろうと思いました。しかし、問題を解き始めたのです。問題は、4問あって、1問目は、私が商を立てるところまで書いてあります。その商と割る数を掛けた数字を書き込んだのです。雑な字でしたが、そのまま残りの3問もやってしまいました。
このときは大きな声でほめました。このときの体験は、他の場面でも生かされました。
■意思表示のできない子でも応用ができる
落書きをする子にはブロークンレコードと十回原則が通用しました。この子は、それから後も、落書きを続けましたが、同じ対応でほとんどの場合、プリント学習は成立しました。そして、徐々に落書きの回数や時間も減っていきました。
この年に特別支援学級で担当した子がいました。(B君とします)B君は6年生の男の子で、言葉がほとんど出ません。B君が意思表示をするときには、「クレーン」と言われる人の手をとって、やってほしいところに連れて行くという行為がほとんどでした。そこで私は、B君に、クレーン以外の意思表示ができるようになってほしいと考えるようになりました。B君は給食が大好きなので私は、毎日交流学級に入れてもらって一緒に食べていました。そこで私は給食のときに、意思表示の練習をすることにしました。
■おかわりで意思表示の練習
ちょっと意地悪のようですが、B君のおかずを別の食器にあらかじめわけておきます。あえてB君の目の前でそれをやっているので、彼も自分のおかずが別の食器にも入っていることがわかっています。「食べ終わったらあげるからね」と言って、途中で手を伸ばしてきても押さえます。そして、自分の前に置かれているおかずを食べ終わって、取ろうとしたら、「ちょうだいってしてごらん」と両手の掌を上に向けて、重ねるかっこうをしてみせました。この取り組みは、以前特別支援学級でやったこともあるので、ある程度の見通しは持っていました。間もなくB君は、一つのおかずを食べ終わるとすぐにちょうだいの仕草をするようになりました。さらに、6月には「ちょうだい」の「だい」ということもできるようになり、不明瞭で私にしか分からない発音ながら、「ちょうだい」とも言えるようになりました。このことは、B君にとって、とても大きなことでした。
3 執筆者プロフィール
岡 篤(おか あつし)先生
1964年生まれ。神戸市立小学校教諭。「学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会(略称学力研)」会員。硬筆書写と漢字、俳句の実践に力を入れている。(2017年5月9日時点のものです)
4 書籍のご紹介
『読み書き計算を豊かな学力へ』2000年
『書きの力を確実につける』2002年
『これならできる!漢字指導法』2002年
『字源・さかのぼりくり返しの漢字指導法』2008年
『教室俳句で言語活動を活性化する』2010年
5 編集後記
特別支援の視点から得たことを学級でも使える方法に応用して紹介されていました。何回言うかを先に自分のなかで決定しておくということは自分にとっても子どもにとってもメリットがあるのではないかと思います。
(文責・編集 EDUPEDIA編集部 福山浩平)
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