1 はじめに
本記事は、2020年9月24日に行った井上雅彦先生へのインタビューを記事にしたものです。井上先生は、公立の中学校や高校で22年間国語の教員として勤めた経験をもとに、現在は立命館大学大学院教職研究科の教授として、全ての教員が生涯絶えず学び続けることの重要性や、実践力の伸長の必要性を説いていらっしゃいます。インタビューでは、文学作品を題材にしたディベートの活用の仕方や国語を学ぶ意義とは何かについてお話しいただきました。
2 インタビュー
競技ディベートとディベート学習活動との違い
私はディベートを交流(伝え合い)のための手段だと考えています。ディベートもパネルディスカッションもグループ討議も、生徒が意見や考えを交流するための手段だと考えていますので、特別にディベートだけを重視しているわけではありません。
私は高校教員だったときから、生徒に「単にディベートを教える」のではなく、「ディベートを使って教える」ができないかと考えてきました。それが、テキストの「読み」を深めるためのディベートでした。一般的な競技ディベートと私の言う「ディベート学習活動」の違いは、ディベートを「読み」の交流の手段として捉えているところだと思います。
二値的な立場を乗り越える
ディベートというと、二項対立で勝敗を競い討論すること(ディベートマッチをすること)をイメージする人が大半だと思います。しかし、学校現場で行うディベートは、論題の決定、情報の収集、論理構築、そして二値的な立場を乗り越えるアフターディベートも含めて「ディベート学習活動」を捉えなければならないと思っています。
ディベートマッチは華々しく見えますが、それは例えると打ち上げ花火のようなものです。きれいな打ち上げ花火を上げるためには、花火を打ち上げるまでの仕込みが大切です。打ち上げ花火でいうところの仕込みの部分が、ディベート学習活動では論理構築や情報収集の段階だと思っています。この段階が論理的思考力を培い、多面的な見方を養ううえで重要です。
論理構築では、相手方の反論を予測しながら、「相手をどう説得するか」を考える必要があります。「相手をどう説得するか」を考えるには、相手の根拠を予想しなければなりません。ディベートをするにあたり1つの立場に立っていても、一面的な見方ではいられないのです。論理構築の段階で、両者の立場から論題について検討し、ディベートマッチを行ったあと、二値的な立場を乗り越えるアフターディベートを行えば、自分の意見に固執することなく、考えを深めることができます。
ディベートで文学を読むことに対して批判されてきたことは、「Aか、notAか」または「AかBか」という二値的なものだということです。文学作品というのは多様に読むことができます。3通りにも4通りにも5通りにも読み深めることができるものを、なぜ2つの立場で討論させるのかという疑問です。
しかし、2つの立場は、対立を鮮明にして、認知的な葛藤を導きやすいのです。たとえば、「3つの立場の中で、あなたはどの立場に立ちますか? 5つの立場の中でどの立場に立ちますか?」というように、多くの立場で議論すると、立場の違いが明確になりにくいでしょう。しかし、ディベートの二値的な論題は、立場の違いを明確にしないといけないので、「いったい、自分はどちらの意見なのだろう」という葛藤を導き出しやすいのです。
二値的な論題に対する批判は、アフターディベートを実施することで解決できます。アフターディベートというのは、ディベートの対立する立場を離れて感想文や意見文を書く、ディベートマッチの逐語録を二次教材として学習活動を行うなど、ディベートの二値的な立場を解放して、授業をよりダイナミックに展開するための学習活動です。ディベートマッチは、1つの立場で討論しますが、アフターディベートでは「相手の立場も踏まえて客観的に議論を眺める」ことになります。そして、最終的には二値的な立場から解き放たれた自由な読みにたどり着くことができるのです。
ディベートだけが交流の手段ではない
情報収集、論理構築、ディベートマッチ、アフターディベートのプロセス全てを、授業でしようとするとかなり時間がかかります。授業時数が5時間にも6時間にもなり、尻込みする教員の方もいるかもしれません。しかし、このような正式なディベートマッチは年間に1、2回にして、2つの立場での簡易の討論を、単元の導入や中間や最後に挟みながら年間計画を作っていけば良いと思います。生徒が事前準備をしなくて良いものです。また、1つの作品をディベートだけで読み進めるのではなく、単元のどこかでディベート的な話し合いを入れると、もっと応用範囲が広まるのではないでしょうか。
最初に述べたように、ディベート学習活動はあくまでも「交流の手段」です。立場が2つになりそうなときにだけ行えば良いのであって、何でもかんでもディベートだと考えないほうが良いでしょう。3通りや4通りの立場での議論であれば、パネルディスカッションで交流すれば良いし、多様な立場が予想できるときはプレゼンテーションで交流すれば良いのです。「読み」の交流には、ディベートだけにとどまらず、臨機応変に適したものを選ぶべきだと考えます。
『こころ』(夏目漱石)を用いた、ディベートの授業
高校の国語の教科書に掲載されている『こころ』(夏目漱石)を例に、文学の授業でどのようにディベートを活用することができるかを考えてみましょう。
『こころ』(夏目漱石)は教科書教材として「下」しか掲載されていませんが、私はきちんと全編を扱うことが重要だと思います。「下」だけを読んで「『こころ』は恋愛小説だ」と早合点して生徒が高校を卒業していくことになると、日本の言語文化が誤って理解されることになります。
授業時間内に全編は読みきれませんから、夏休みの宿題として、疑問点を最低1つか2つは挙げて、感想を書いてきてもらうことにします。そうすると「Kの自殺の原因は何だったのか」という疑問などが出てきます。他にも「お嬢さんは、本当はKと『私』のどちらに好意を寄せていたのか」「先生の奥さんへの告白は間違っていたのか」「Kはどうして先生だけに告白したのか」といった問いが生まれます。
このような問いの中から「お嬢さんは、本当はKと『私』のどちらに好意を寄せていたのか」「先生の奥さんへの告白は間違っていたのか」といった二項対立で議論できる問いであればディベートで解決をすることができます。また、「Kの自殺の原因は何だったのか」という問いなら、原因は3つ以上考えられると思いますので、パネルディスカッションで意見を交流します。「Kはどうして先生だけに告白したのか」といった多様な「読み」が出てくる問いならプレゼンテーションで交流するのが好ましいのです。このように、それぞれの課題に合わせて「読み」の交流の方法(話し合いの形態)を変えるのです。
ディベートの段階的な指導
私は正式なディベートを変形したものを、「簡易ディベート」や「ディベート的討論」と呼んで用いていました。
よく「一方は、作品の中における時間経過について話しているのに、もう一方は色彩表現について話している」というように「議論がかみ合わない」ということが起こります。簡易ディベートは、意見が絡み合うとはどのようなことなのかに気づかせることを目標にしたものです。
簡易ディベートは、教員が生徒を指名する、2つの立場での意見交流です。準備段階として、前もって生徒に自分の立場と根拠を書かせておいて、教員が把握しておきます。たとえば、「この詩はプラスイメージの詩か、マイナスイメージの詩か」という論題の場合、「Aさんは、この場面における『色彩表現』をもとにプラスイメージの詩だと捉えている」が、「Bさんは『色彩表現』をもとにしながらもマイナスイメージの詩だと捉えている」。「Cさんは、『時間の経過』をもとにプラスイメージの詩だと捉えている」が、「Dさんは『時間の経過』をもとにマイナスイメージの詩だと捉えている」などと観点と根拠を教員が把握しておきます。
そのうえで、「時間の経過をもとにプラスイメージの詩だと捉えているCさん(あるいはその他の同じ意見の生徒)」と「マイナスイメージの詩だと捉えているDさん(あるいはその他の同じ意見の生徒)」とを教員が指名して当てます。すると、「時間の経過」という観点での意見の絡み合いが起こるのです。続いてAさんとBさんを指名することによって「色彩表現」という観点で意見を絡め合わせます。
このようにして、「ディベートをするときには同じ観点で議論をしなくてはならないのだということ」を早い時期に気づかせておくことが大切です。
簡易ディベートの次は、司会を立てずに時間の決まり(フォーマット)もなく2つの立場で議論させるディベート的討論へと進み、最後に正式なディベートをするというような段階的な指導が必要です。
現在、多くの学校で行われている国語教育の問題点
国語科は、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の3つの領域から成り立っています。この3領域の言語活動を「意識的」に行わないと国語の力は伸びません。しかし、中学校・高等学校の国語の授業を見ると、生徒が教員の話を一方的に聞くだけというものが未だに多いと感じています。
では、ただ単に、生徒に話したり、書いたりするだけで国語の力がつくのでしょうか。学習者が言語活動をするときには、その「仕方」を意識できていることが大切です。読むこと領域では「読み方」を、話すこと領域では「話し方」を、書くこと領域では「書き方」をいかに意識させるかが大事なのです。言語活動をしていても、その「仕方」を意識しなければ日常生活で言葉を用いているのと同じで、国語の授業ではありません。国語の授業は「仕方」を意識して、体得する場です。そのことを教員が意識できていないがために、「国語とは何を学ぶ科目なのかわからない」という生徒がでてくるのです。
国語科の役割
国語科の役割は言語能力を育成すること、つまり、言葉の力を身につけてもらうことです。人間が豊かな生活を送るために欠かすことのできない言葉の力を育てる場が国語科なのです。
人は1人では生きていけません。人と人とが協力するときに必要不可欠なものが言葉です。もちろん、表情やジェスチャーなどの非言語(ノンバーバル)コミュニケーションで人と繋がったり気持ちを伝えたりすることもできます。しかし、「いかに豊かに、かつ的確に自分の考えを伝えるのか」を考えたときに、言葉は外せないものです。人と人とのコミュニケーションを円滑にするために、言葉の力はなくてはならないものです。このようなコミュニケーションの言葉を「外言(がいげん)」といいます。
また、人は何かを考えるときに必ず、頭の中で言葉を使って考えを巡らせます。このように思考するときの言葉を「内言(ないげん)」と呼びます。つまり、「言葉の力は思考力とはイコールの関係にある」ということです。だから、言葉の力がないと物事を深く考えられません。
さらに、言葉は認識とも関わっています。その具体的な例を「雨」という言葉で説明してみます。「雨」という事象を表現する言葉として、「雨」という単語しか知らない人がいたとします。その人が「黒雨(こくう)※1・紅雨(こうう)※2・煙雨(えんう)※3・小糠雨(こぬかあめ)※4」などという言葉を知ったとします。すると、黒い雲に空が覆われて雨が降り出したら「黒雨だな」とか、春に花の上に雨が降りそそいだら「紅雨だなぁ」と思うようになるでしょう。
このように、「雨」という言葉を知ることによって、自分の身の回りの事象を細かく認識できるようになるのです。夜空の星を見たときに星座の名前や概念を知らなければ「星」を「米粒の集まり」としか認識できないのが、オリオン座やこぐま座という言葉や概念を知った途端、その形に見え始めるのです。
つまり、「言葉を知る」ということは「世界を分節化して知る」ということに直結しているのです。これは裏を返せば、「言葉を知らない」ということは「世界を大雑把にしか知ることができない」ということになります。
「言葉を知る」ということは、ただ単に人と人とのコミュニケーションを円滑にするのに役立つというだけではなく、思慮深く物事について考えたり、世界を分節化して知ったり物事を繊細に表現したりすることに大いに役立つのです。だから、「言葉の力」を身につける国語科は大切なのです。
ところが、これまで中学生や高校生を見てきた経験をもとに述べると、「国語という教科はあってもなくても良い教科」と捉えている子は少なくなかったと感じます。「国語という授業がなぜ大切であるのか」を教え導く立場である教員の中にも自覚できていない人が多いからこのような事態が引き起こされるのではないでしょうか。
今後、生徒が国語の授業の必要性を正しく理解し、積極的に学ぼうと思えるようになってもらうために、国語の教員は生徒に対して、国語を学ぶ意義を伝えていく必要があると私は考えています。
※1:空を黒くするばかりに降る大雨のこと。
※2:春、花に降りそそぐ雨のこと。
※3:煙るように降る雨のこと。
※4:雨滴が霧のように細かい雨のこと。
3 最後に一言
国語科の教員を目指す方は、これまで自分が受けてきた国語の授業が良くも悪くも見本になっています。しかし、「教員のあり方」というものは時代によって変化します。世の中が学校に求めているものが変わるからです。ですから、自分が教えられてきた国語の授業をゴールにしていてはいけないのです。絶えず時代の求めに応じて授業改善をしない限り、時代遅れの授業をすることになってしまいます。教員を目指す方は絶えず学び続けてほしいと思います。また、現場でもう何年も働いていらっしゃる教員の方々も教職大学院に行くなどして、再度自分の教育実践を見つめ、学び直すことが、必要だと感じています。
4 プロフィール
井上雅彦(いのうえ まさひこ)
1960年生まれ。兵庫県出身。博士(文学)。
兵庫教育大学大学院修士課程修了。
公立中学校、高等学校で22年勤務した後、安田女子大学准教授、兵庫教育大学大学院教授を経て立命館大学大学院教職研究科教授を勤める。
『ディベートを用いて文学を〈読む〉』明治図書(単著)等、多数の著書がある。
5 ご著書
・『伝え合いを重視した高等学校国語科カリキュラムの実践的研究』
・『ディベートを用いて文学を“読む”—伝え合いとしてのディベート学習活動 』
・『初等国語科教育 (新しい教職教育講座 教科教育編) 』
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7 編集後記
元々は『こころ』(夏目漱石)を題材としたディベートの授業を主たるテーマとした記事にし、国語科の教員の方を対象に読んでいただけたらと考えていました。
しかし、井上先生への今回のインタビューは、国語という科目について「日本語を話せるのになぜ国語が必要なのかが分からない、学ぶ意義が見えなくなってきた」という学生の皆さんにも是非とも一読していただきたいと思えるものでした。
自分も国語科の教員を志す身として、自分がなぜその科目を教えているのかや学んでもらう必要があるのかを、生徒に適切に言語化して伝えることができるように、改めて考える機会を持ちたいと思います。
(編集・文責:EDUPEDIA編集部 金田、加古)
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