アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館見学ルポ 〜公認ガイド中谷剛さんのツアーに参加して〜

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目次

はじめに

 本記事は、EDUPEDIA学生メンバーが2024年5月21日にポーランド南部にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館(以下、アウシュヴィッツ博物館)を訪れた際の見学ルポです。博物館公認ガイドの中谷剛さんのツアーに参加し、アウシュヴィッツ第一収容所およびビルケナウ収容所を約3時間かけて案内していただきました。

 ツアー参加後、中谷さんにお話を伺った際のインタビュー記事もあわせてお読みください。

アウシュヴィッツ第一収容所

 ポーランド南部の古都クラクフからバスで約2時間。終点であるアウシュヴィッツ博物館に着くと、そこには平日にもかかわらず老若男女たくさんの人がいた。

 この日の中谷さんのツアー参加者は筆者を含めて5人。通常に比べるとかなり少ないそうだ。旅行会社からの依頼も含めると、中谷さんは1年に約430回ほど日本人向けにツアーを行っている。個人で予約する訪問者には若年層が多いという。

 受付などを行う建物から第一収容所跡へとつながる通路では、犠牲者の名前が粛々と読み上げられている。ここ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には少なくとも130万人の人々が連行され、そのうち、およそ100万人のユダヤ人、7万人のポーランド人、2万1千人のロマ(インドを起源とする少数民族)、1万4千人のソ連軍捕虜、その他1万人以上の被収容者が亡くなった。1945年1月27日、-20℃の中、子ども300人を含むおよそ7,500人の人々がソ連軍によって解放された。寒さで亡くなった人々の遺体も多く残っていたという。

 もともとポーランド軍の施設であったこの場所は、1940年、ナチ・ドイツによってポーランド人政治犯を収容するための強制収容所に変えられた。それに伴い、地名もオシフィエンチムからアウシュヴィッツに変更された。その後、1942年にはユダヤ人大量虐殺の最大の施設となった。

左の建物はナチ親衛隊(SS)による監視塔。
エリート層である軍部と良好な関係を築けなかったヒトラーは

自らのための武装組織としてSSに武力・権力を与えた。

 本来、ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる人々。しかし、ナチ・ドイツは、祖父母に3人または4人のユダヤ教徒をもつ者を「ユダヤ人」と定義した。これにより、ユダヤ教に直接つながりのない人々も迫害の対象となった。人種としてユダヤ人を区別できる科学的根拠は存在しなかったにもかかわらず、あたかも人種であるかのように扱ったのだ。「なぜユダヤ人が標的になったのか」という問いは、「ユダヤ人」にではなく、ナチ・ドイツに投げかけるべきだと中谷さんは語る。

建物内の展示

収容所に到着した列車から降りる人々。

 収容所内の建物の中には、当時の歴史的背景の説明、収容所で撮影された写真、残された遺品などが展示されている。写真に映る人々は、「これからシャワー室で体を洗う」と告げられているが、その不安げな表情からは到底その言葉を信じていないことがわかる。多くの仲間が連行されている収容所では、一体なにが行われているのか。ヨーロッパ各国に住むユダヤ人の間で噂になっていたことだろう。それなのに、なぜユダヤ人は逃げなかったのか。当時、彼らを難民として受け入れる国がなかったのだ。中谷さんは、「今の日本の難民受け入れの状況をどう考えますか?」と問う。

収容所で使われた毒ガス、チクロンBの空き缶の山。
スペイン風邪の流行で、ユダヤ人は病原菌を運んでくる

「害虫」と言われていた。
もともと害虫駆除に使われていたチクロンBを虐殺に利用することが

決まったときナチ幹部は「良いアイデアだ」と言ったという。

 ナチ・ドイツは、1929年にアメリカで起こった株価大暴落を発端とする世界恐慌はユダヤ人によって仕組まれたとし、汚いやり方で稼いだ彼らの財産を没収することは当然だと主張した。連行された人々が収容所に着くと、所持していた財産をすべて奪い、そのうち利用価値がないと判断されたものは収容所に残された。

大人たちは生きて帰ることができるとは思っていなかったが
子どもたちを安心させるため、

いつも使っていた鍋や皿を持ってきた。
没収されたトランクの山。
人々はせめてもの抵抗として名前と住所を書き残した。

 人々は髪の毛をも奪われた。多くは建築資材に使われたが、解放時に残されていた2トンの髪の一部が展示されている。遺族の方々の意向もあり、写真撮影は禁止されている。これまでの人生で見たことのない量の髪の毛の山に言葉を失った。それらと自分とを隔てる窓ガラスに自分の姿が反射し、膨大な量の髪の山と自分の姿が重なったとき、この場所で行われたことの残虐さに体が震えた。

収容所に残された義肢。

 障がい者もまた、安楽死という名目で虐殺された。この建物に入る前、車椅子に乗った見学者の少年が外で待っていた。建物の入り口に階段があったからだ。「誰が『障がい』や『ユダヤ人』を定義しているのか?階段を作ったのは人間です」と中谷さんは語りかける。人が人をカテゴライズするとき、そこには恣意的な線引きが存在すると思う。一人ひとりの人間を、たった一言の属性に閉じ込めるなんてことはできないからだ。

収容施設の水洗トイレ。
収容者数に対してその数は極めて少なく、

使用時間も制限された。

 当時、世界はアウシュヴィッツの存在を認識しており、赤十字社による視察も行われた。しかし、ナチ・ドイツは水洗トイレをアピールし、先進技術を使って快適な環境を提供しているかのように振る舞った。医学界でもドイツは世界最高峰の権威を誇っていた。最先端の知識や技術をもつ医師たちが、収容所に到着した人々の選別や人体実験を行った。文化的・技術的水準が非常に高い国で、歴史的な大虐殺は起こったのだ。

ビルケナウ収容所

ビルケナウ収容所内へと続く線路。

 第一収容所の見学を終えると、3kmほど離れたビルケナウ収容所へと無料のシャトルバスで向かう。門の手前でバスを降りると、施設の外から中まで、収容者の輸送列車用の線路が伸びているのが見える。1944年春に作られたガス室の手前まで続く引き込み線は、輸送から虐殺までのプロセスを簡略化させた。

線路上に残る貨車

 ビルケナウの収容バラックのほとんどは戦後、ポーランドによって資材の確保のため解体された。その奥には、ガス室・焼却炉の瓦礫が残る。一部はナチ・ドイツによって証拠隠滅のために破壊され、一部はそこで働かされていたユダヤ人が暴動を起こした際に破壊された。この場所で100万人近くの人々が殺害された。

暖炉のみが残る収容バラック跡。
戦争被害の大きかったポーランドは

戦後、物資不足に苦しんだ。
その後ろでは、形が残るバラックが
維持修繕作業のためビニールに覆われている。
破壊されたガス室。
生還者らの希望で風化を待っている。

アウシュヴィッツ博物館の役割

 ナチ党は民主主義体制の中で国民によって選ばれた。世界恐慌により社会が混乱するなか、人々は「民主主義は使えない」と、強いリーダーシップをもつ政治家を求めた。1932年3月の選挙で得票率37%を得たナチ党は第一党となり、ヒトラーを首相とする連立内閣を組織。翌年には、内閣に議会を通さずに立法する権限を与える全権委任法が制定された。

アウシュヴィッツ博物館を見学する子どもたち。

 2023年、博物館には167万人が訪れた。その約70%は26歳以下。国内や近隣国から校外学習で訪れる生徒・学生も多く、子どもたちは博物館職員によるセミナーにも参加し、「あなたがその時代に生きていたら、どうする?」と問われるという。「何もできなかったと思う」という声があがると、「それが傍観者であり、こうしたことが起こった原因の一つだ」と厳しい言葉を突きつけられる。中谷さんは、「日本の教育では自分に問いを向けられない。広島や長崎のことは学ぶが、バランスが悪い」と話した。

1947年4月に収容所所長ルドルフ・ヘスが処刑された絞首台。
(第一収容所内)
最期まで謝罪の言葉はなく、

「指示されただけ」と語ったという。

 長年、アウシュヴィッツ博物館では生還者らがガイドを務め、自身の体験を伝えてきた。開放から79年経つ現在は、中谷さんのような非生還者の公認ガイドが300名以上いる。彼らの正確な肩書きは「educator」。この場所は「生還者が辛い体験を語る場」から「なぜこのようなことが起こったのかを伝える教育現場」へと変わってきているという。

収容所をぐるりと囲む有刺鉄線。

 午後6時、約3時間におよぶツアーが終わった。かつて高圧電流が流れていた有刺鉄線を横目に、当時はあるはずのない出口から収容所を後にした。

関連記事

◎中谷剛さんインタビュー

◎戦争教育、平和教育に関する記事

編集後記

 中谷さんの淡々と事実を伝えるガイドのおかげで、今もなお、モヤモヤしたものが心に残っています。思わず涙してしまうような情に訴えかけられるお話だったとしたら、感情が揺さぶられただけでなにかわかった気になってしまっていたかもしれないと思うのです。

 特に、次世代への教育におけるスタンスにはハッとさせられました。自分の答えが大虐殺の原因の一つだとはっきりと言われる経験は、子どもたちにとって相当重く心に残るだろうと想像します。同時に、日本でそこまで厳しく現実を突きつけられる機会はあっただろうかと、自国の教育や歴史観を考えさせられました。何もできない状況になる前に、行動を起こさなければならないと強く思いました。

 中谷さんは、英語ガイドでは省略されるような欧州の歴史的背景や人種の話もすることで、日本人の知識範囲に合わせてガイドをしているそうです。こうした歴史を現地で母国語で学べることを大変ありがたく思いました。中谷さんへのガイドの依頼はメールアドレス nakatani@wp.pl まで。記事をきっかけに現地を訪れてみようという方が一人でもいらっしゃれば嬉しい限りです。(編集・文責:EDUPEDIA編集部 永井)

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この記事を書いた人

京都の大学生。市民教育、メディアリテラシー教育に関心をもっています。趣味は写真撮影です。

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