「スーホの白い馬」(光村図書2年国語)をどう読むか ~少し尖った読みをしてみました

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目次

尖った視線で

光村図書の小学校国語教科書に一貫して流れるテーマは「弱き者への優しいまなざし」ではないかと思います。「大きなかぶ」「スイミー」「ちいちゃんのかげおくり」「モチモチの木」「わたしとすずと小鳥と」「一つの花」「わらぐつの中の神様」「やまなし」「海の命」・・・これらの物語教材の中には、弱者がいかに生かされ、活かされるのかというテーマが潜んでいるように思います。

「スーホの白い馬」では、貧しい羊飼いが絶対権力に虐げられる場面が出てきます。「競馬の優勝者に殿様の娘と結婚する権利が与えられる」との約束を踏みにじられ、スーホは白馬を取り上げられた挙句に家来たちに気絶するまで殴られてしまいます。白馬は殿様を振り払ってスーホの元へ帰ろうとしますが、家来たちの弓矢に射られてスーホの見守る中、死んでしまいます。死んだ白馬は馬頭琴として、スーホの近くで美しい音色を鳴らし続けるという結末で終わります。
さて、この結末は「めでたしめでたし」なのでしょうか?そんな事はないですよね。悲しい話です。白馬が馬頭琴となってスーホの近くにずっと寄り添えるようになったのが「良かった」ような気になるけれど、それは違うと思います。何だか違和感が残ります。

光村図書の国語教科書に長く(50年以上?)掲載されるこの話について久々に考えてみました。
以下、かなり尖がった視線で妄想気味に、この物語を眺めてみました。

1. 一体、この話を読んで、子供は何を感じ、学ぶのだろうか


この物語を普通に読めば、「殿さまは約束を破ってひどい」という事になるのだろうし、「スーホと白馬の間にある強い結びつきは感動的だ」と読み取るのが素直なのだろうと思います。これに加えて権力者の悪行に「白馬愛」を持って耐え忍ぶ主人公・貧しい被支配者層に共感することができれば「よい」というところなのでしょうか。

でもこの話、考えてみると、スーホはとても酷い敗北の仕方をしています。約束を破られるわ、白馬をとられるわ、気を失うまで殴られるわ、白馬を殺されるわ、文字通りの「踏んだり蹴ったり」です。権力に対してやられっぱなしで泣き寝入りです。物語の中で不正義が糺される個所はありません。敗北したままで馬頭琴を引き続けるというスーホの人生(物語の結末)は、肯定的に受け止められるようなものなのでしょうか。
権力者の横暴、人権蹂躙の不条理な歴史のことなどほとんど分からない2年生の子供にとって、この物語はどう受け止められるのでしょうか。少なくとも、ハッピーエンドだ、めでたしめでたしだと受け止めるのは防がなければならないと思うのですが・・・。

2. どうしてスーホは殿様に逆らってみたのだろう


子供たちに初発の感想を書かせると、「殿様は悪い」「スーホはかわいそう」というありきたりの反応を得られることがほとんどなのですが、一人だけ、「どうしてスーホは殿様に逆らってみたのだろう」と書いている子供がいました。また、授業時に「かっとなって、むちゅうで言いかえし」てしまったのはいけなかったのではないかという発言もありました。冷静に行動せよという日頃からの学級経営の成果でしょうか。私自身は「泣き寝入りでいいのかな」という考えにこだわってしまっており、それに引っ張られて読んでいたのですが、新しい視点を子供から与えられて、はっとしました。

確かに、「モンゴル国」にはチンギスハーンの「絶対的な権力による支配」の時代があります。(モンゴルだけの話ではなく)「殿様の時代」に権力に逆らってみるスーホ少年は、とても無謀な行為である気がしてきました。せっかく銀貨を3枚も与えられているのだから、ありがたく頂戴して、あわよくば「馬飼いとして、この白馬の世話をさせて下さい」とかうまいこと言って宮仕えにでも転身すればよかったのに。どれだけ君主が怖かったのかは、チンギスハン関連の書籍を読んでみると分かります。まだ下↓の「蒼き狼」はチンギスハンを好意的に書いている方だと思います。

貧しい羊飼いの身分でスーホが「殿様の娘婿になれる」と妙な野心を抱いたのが悲劇の始まりなのではないかというのはちょっと尖がり過ぎな読み方でしょうか。逆らわなければ白馬も殺されることはなかっただろうに。身分差別が今よりはるかに強かった時代に、スーホは無謀過ぎたのかもしれません・・・。その場でカッと頭に血が上ってしまったことで愛馬を失う羽目になったスーホをただただかわいそうだとは、思えにくいです。
決して作者が「身の丈に合った生き方をしないとひどい目に遭うよ」「上の身分の者には忖度せよ」という教訓を伝えたかったわけではないのは確かですが・・・
本筋からはそれますが、子供たちには、絶対権力の怖さを教えていく必要はあると思います。昔は「ベロ出しちょんま」を人権教材として取り上げることが多かったです(この頃はあまり聞かなくなりました)。2年生にはまだ早いかもしれませんが、歴史や人権教育と併せていかに民衆が抑圧されていたのかについて学ぶ機会はもっとあった方が良いと思います。スーホもチョンマの父も、絶対権力にたてついたという意味では同じなのですが、チョンマの父はみんなのために、思いあぐねて直訴に出たという点でより素直に、「どうしようもない悲しみ」に共感できるのかも知れないです。そして、今もなお、チョンマが人形として受け継がれているという結末は、レジスタンスを支持する民衆の「静かではあるが強い意思」を示しているように思います。
ベロ出しチョンマ

3-1 殿さまに復讐するという結末は考えられないか(1)


かなり私の妄想世界に入ってしまいますが、スーホが殿様に復讐するという話の続きを二通り考えてみました。一つ目です。

スーホの夢に出てきた白馬は、「私の生まれ変わりが村のはずれの泉のほとりにいます。」と告げます。それでスーホは再びその馬を種馬として多くの強靭な兵馬を育て上げます。殿様の圧政はその後も長く続いたため、村民はついに立ち上がり、兵馬にまたがったスーホは城に突進して殿様と家来をやっつけ、・・・。
・・・荒唐無稽な空想です。国語好きのスーホファンの方々からは「ふざけているのかっ!」と怒られますね。すみません。

3-2 殿さまに復讐するという結末は考えられないか(2)


2つ目は、もう少しまともに考えた結末です。

何年も経った冬のある日、スーホの元に、殿様の娘からの使いが来ます。娘の手紙には、こう書いていました。
「隣の国と戦い、父が負傷をして、今にも死にそうである。あなたの弾く馬頭琴は人々の心に深い感動を与えると聞いた。たくさん褒美をあげるから、父にあなたの音楽を聞かせてあげて欲しい。」
スーホは悩んだ末に、殿様の元へ行きます。殿様も娘も、馬頭琴を弾く青年のスーホ—が昔、白馬に乗っていた少年だったことなど、覚えてもいません。美しい音色の馬頭琴を聞かされた殿様は、
「なんて素晴らしい、音楽なのだろう。深い悲しみの中に、深い愛情を感じられる。私が今まで人々にしてきた酷いことを反省させられるような気になるよ。」
と言って涙ぐみます。スーホは黙っていました。

次の日、殿様は息を引き取りました。スーホは村に戻って貰った褒美でたくさんの楽器を買い、村の人たちといっしょに演奏したそうです。
・・・過去の殿様からの仕打ちについては沈黙を通し、美しい音楽を演奏することが、スーホの殿様への「昇華された復讐」でした。

実際の授業では・・・


長ったらしい妄想をお聞かせしてすみませんでした。「恐ろしき絶対権力」にただ踏みにじられる話は嫌だなあと思ってしまって、つい変なことを考えてしまいます。
基本的には「スーホと白馬の強い絆」や「権力に踏みにじられる民衆の哀しさ」を軸で、読者は深い悲しみを受け取ればよいという考え方でいいように思います。しかし、ずっと「泣き寝入り」がしっくりこなくて、色々と考えてみました。

実際の授業は①も②も③も引きずらずにノーマルモードで進めました。
あまり時代背景の事を持ちだすと何を教えているのか分からなくなりますので、基本的には「スーホと白馬の強い絆」や「権力に踏みにじられる民衆の哀しさ」を軸に授業を進めています。

挿絵をもとに物語を8場面に分け、授業の様子を子供に書かせたプリントを掲載した記事をアップしていますので、下のリンク先↓も是非ご参照ください。

「スーホの白い馬」板書例と授業の流れ 全時間

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • スーホがこどもたちの友達になるために、ーかっとなったスーホの心情が理解できるように、かわいそう、という感想に終わらないためには、ー前半部分のおおかみから羊を守った白馬をスーホが兄弟のように思ったところがかぎだと思っています。おおかみと若い白馬ではどちらが勝つのか、負けることもあるのか、どうして白馬は命をかけて羊をまもったのか、時には劇入りでやってみます。ここがうまくいくと、あとはこどもたちがスーホの立場で読んでくれます。遠い町までいくところは、モンゴルの風景や、大塚勇三さんの本などを借りて、モンゴルの昔に思いを馳せます。すると、競馬の場面で汗を握る展開、一位になってとのさまのむこになる約束ーとのさまのむすめと結婚とは、王子になること、みなりによってさべつされたこと、白馬をとられるところ、友達が助けてくれて帰るところ、いろいろな意見が出ます。権力者の横暴、理不尽さは、理不尽さのままで子供たちが受け取ることが大切だと私は考えます。言葉化はできなくても身になると考えます。スーホの友達は、競馬に出ることをすすめて、帰る道道、どんな話をしてきたんだろう、という深読みをする子もいました。私自身も、幼稚園から「シナの五人きょうだい」「スーホの白い馬」「ベロ出しチョンマ」「魔人の海」と社会の理不尽さを段階的に読んできて、今に生きていると思っています。今言葉化できなくても感動を与えられたら、後で歴史や文化背景を学んだときに生かすことができるので、国語では主人公とお友達になること、そういう読み方を提供することが役目かと思っています。今、私は新コロナウィルスでウェブ学習中の中国でこれを見ています。逆境にあるときの中国の人々の家族を中心に跳ね返すちからを私は「シナの五人きょうだい」で学んだのだっけ、と思い返すことができるので、子供たちに物語を受け止める力にまかせることが肝心だと思います。受け止めがうまくいったあと、馬頭琴の音色を聞かせると、その音色から「これは悲しい、」「とのさまへのにくしみーやるせなさ」を感じてくれます。

  • Aiko Sano様。
    詳しくお考えをお聞かせいただき、ありがとうございます。
    多くの「物語」に触れていく中で子供たちが後々の学びに「スーホの白い馬」つながってくれることを私も願っています。
    「弱者の敗退」が描かれる物語は多いですし、そうした悲劇が描かれること自体には意味があると思います。しかし、「スーホの白い馬」や「ちいちやんのかげおくり」は、下手をすると「白馬は馬頭琴になってずっとスーホのそばにいれるようになってよかったね」「ちーちゃんは天国で家族に会えてよかったね」と読み取ってしまう子供が少なからずいるように思います。そうした子供たちに対しては授業の中で「本当にそうだろうか」という深い学びをしていく必要があるように思います。そこに対する疑問を本記事では投げかけたつもりです。

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