中学歴史〜鎌倉幕府と承久の乱〜(自主学習用教材「こころの窓」第13回)

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目次

1 はじめに

本記事は、東近江市の元中学校校長で現在は小学校講師を務める雁瀬徳彦さんが作成した「こころの窓」の内容を引用・加筆させていただいたものです。「こころの窓」は中学生向けの日本史教材で、不登校の生徒や、学校に登校できても教室に居られず別室で過ごす生徒が一人で勉強できるように作られています。雁瀬さんの取り組みに関しては、こちらの記事もご参照ください。

本記事では、第13回「鎌倉幕府と承久の乱」の内容について紹介しています(教材の本文は編集せずに掲載しております)。ほかの単元の記事をご覧になりたい方はこちら

2 「こころの窓」について

教材の一枚目を見ていただくと分かりますが、教材の文章を読むと歴史の流れがよく分かります。現在使用されている学校の教科書は写真も多くとても見やすいように思いますが、初めて歴史を学ぶ子どもたちにとって、とても難しい写真や資料です。また、教科書の文章には事実が羅列されているだけなので、歴史の事象がドラマティックであることや、当時の武将がどんな思いで戦いや政治を行っていたかという感動が伝わってきません。だから、不登校の子どもたちが学校の教科書だけを使って一人で勉強しようと思ってもなかなか続かないのです。

そこで、子どもたちが一人で楽しく歴史の勉強ができるようにプリントを作成しました。また、次のページには復習問題があります。ほかの教材だと、「794年に何がありましたか」という語句を答えさせる問題が主流です。このプリントには語句を答えさせる問題ではなく、「なぜ、都を奈良から京都に移したのですか」という問題が載っており、起こった事実に対して、その原因や結果について子どもたちに考えさせる問いになっています。

解説編

こんにちは。元気ですか。気分はいかがですか。

ではそろそろ、はじめましょうか。

今日のお題は「鎌倉幕府(かまくらばくふ)と承久の乱(じょうきゅうのらん)」です。

壇ノ浦の合戦を最後に平氏は滅亡し、武士である源頼朝(下の絵)が実権を握り、日本の歴史上初めて、武士が鎌倉に幕府(武士が政治をするところ)を開きました。今までは日本の中心は京都でしたが、京都には天皇がいたので、天皇にいちいち口出しされると困るので、前は海で後ろ三方は山に囲まれ、敵から攻撃を受けにくい、鎌倉に幕府をつくったのです。

その後、頼朝は、新しい政治の仕組みをつくります。頼朝に仕えた家来は御家人(ごけにん)と呼ばれ、将軍から領地をもらい、さらに守護(しゅご・・警察の仕事)や地頭(じとう・・年貢を集める仕事)という仕事ももらいました。これを御恩(ごおん)と言います。これに対して、御家人(家来)は、将軍の命令に   従い戦いに出たり、鎌倉の警備を担当しました。これを奉公(ほうこう)と言います。

また、下の図のような政治のしくみを整えました。平安時代の朝廷のしくみ(二官八省)よりはだいぶ簡単なしくみですね。

さて、幕府のしくみは整いましたが、これから歴史が大きく動いていきます。まず、しばらくし頼朝が死ぬと、頼朝の奥さんである北条政子(ほうじょうまさこ)の父(北条時政・・ときまさ)は、かねてから、頼朝に変わって実権を握ろうと考えていましたので、頼朝が死んだあと、その子頼家(よりいえ)も亡くなると、幼い実朝(さねとも)が将軍になったので、ここぞとばかりに時政は、将軍を助ける執権(しっけん)という役について、鎌倉幕府の実権を握っていくのです。すると、幕府を倒してもう一度、天皇に実権を取り戻そうと考えた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、御家人を味方につけて、承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こしました。しかし、北条政子のすばらしい演説に心を打たれた御家人たちは、ほとんど後鳥羽上皇側に味方しなかったのです。そのため、上皇はこの戦いに敗れ、隠岐(おき・・島根県の離れ島)に流されて反乱は終わりました。このあと、北条氏は確実に実権を握っていくのです。さらに、北条氏(幕府の権力者)は、再び天皇が勝手なことをするのを恐れて、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)をおいて天皇を監視しました。また、御家人(家来)たちをしっかりとまとめるために、北条泰時(ほうじょうやすとき)の時に、御成敗式目(ごせいばいしきもく)という御家人の決まりを定めて、御家人の義務や権利をまとめました。こうして、鎌倉幕府は、約100年あまり北条氏によって支えられていくのです。

今日は、鎌倉幕府の歴史でした。どうでしたか。

それではまた、復習問題に進んでください。

復習問題

1.なぜ、頼朝は京都ではなく、鎌倉に幕府を開いたのですか。その理由を書いてください。

それまでの日本の中心は京都でしたが、京都には天皇がいたので、いちいち口出しされると困るし、前は海で後ろ三方は山に囲まれ、敵から攻撃を受けにくいので、鎌倉を選んだのです。

2.将軍と御家人の関係は、御恩と奉公の関係で結ばれていますが、この関係を簡単に説明してください。

御家人は、将軍から領地をもらい、さらに守護や地頭という職ももらいました。これを御恩(ごおん)と言います。これに対して、御家人(家来)は、将軍の命令に従い戦いに出たり、鎌倉の警備を担当しました。これを奉公(ほうこう)と言います。

3.なぜ、頼朝が死んだ後、実権が北条氏に移ったのですか。

頼朝が死ぬと、頼朝の奥さんである北条政子の父(北条時政)は、かねてから実権を握ろうと考えていましたので、頼朝が死んで、その子頼家も亡くなると、幼い実朝が将軍になったので、ここぞとばかりに北条時政が、将軍を助ける執権という役について、鎌倉幕府の実権を握っていくのです。

4.承久の乱の後、何のために幕府は京都に六波羅探題を置いたのですか。

天皇が反乱を起こしたり、勝手なことをしないように、天皇を監視するために六波羅探題を置きました。 

3 ダウンロードはこちらから

こころの窓 第13回「鎌倉幕府と承久の乱」

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4 おわりに

不登校の子どもたちにとって一番大切なことは、何が何でも学校に登校させることではなく、家であろうが別室であろうが自立の力をつけてあげることだと考えます。誰かに言われて取り組む学習を重ねるのではなく、自分で考えて自分で学習できる力をつけることが大切です。その上で、学力をつけていくことが「生きる力」につながっていくと思います。

この「こころの窓」は、一人で勉強するために作ったプリントです。閉ざした『こころの窓』を開けて、社会に出て行くための勉強をがんばってほしいと考えてこの題名をつけました。

不登校に悩む子ども達の力になることを祈っております。

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