いじめ・不登校のメカニズム その4 いじめ・不登校の根っこ

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1 いじめ・不登校のメカニズム その4 いじめ・不登校の根っこ

その3より
いじめ・不登校のメカニズム その3 不登校をどう見立てるか | EDUPEDIA

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共感性という力

これまで、いじめの捉え方や、不登校の見立てのことについて書いてきましたが、これから本質的な部分に入っていきたいと思います。

前の記事のまとめにも書きましたけど、今の社会は良い意味でも悪い意味でも人間の振れ幅というものが以前に比べて大きく振れている時代です。ですから、現象面だけを見ますと、多種多様の人間がいるように見えて、ひとりの人間を理解するのに大変苦労をします。そして、人の見え方というものは、それを見ている本人の力によって変わってきます。実は自分の力量「以上」の人間の姿、また自分の力量「以下」の人間の姿を理解できないということが基本です。なのに、どうして人間同士がうまく関わって理解しあえるか・・というと、その力の差を埋めるものが人間の「共感性」という力なのですね。何かを想像するという力は、人間にしかできない固有の力です。人間は自分の体験や経験から自分自身のこころの枠組みをつくりあげますが、そこに人と関わることや自分からいろんなツールを使って他人の枠組みというものを取り入れていくことで、「共感性」という力を培っているのです。これが多様性を理解することと言えます。
そこで、人間を見る時に、振れ幅を縦軸に、横軸を共感性(多様性の理解)というふうに見てみましょう。そうすれば、多種多様な人間の姿が、少し理解できるようになります。

主体的に対する言葉は?

さて、「人間の成長の振れ幅」とは何なのか、ということなのですけど、わたしは、そこに「主体的」という概念をあてはめます。主体的な度合いが低い、高いという振れ幅で考えてもいいのですが、反する概念を対極においた方が理解しやすいので、「主体的」という言葉の反対概念を対極においてみましょう。さて、「主体的」という言葉の対極にくる言葉は?

先生方への研修で、こうお聴きした時に、なかなかその言葉が出てこないのです。よく出てくる言葉は「客体的」なのですが、人間の成長に即したことなので、「主体的な人間に育てたい。」という文章は意味的にOKなのですが、「客体的な人間に育てたい。」という表現は意味的にNGなのですね。するとどういう言葉か・・というと・・・
「依存的」という言葉なのですね。心理をやっている人たちはすぐに出てくる概念なのですが、それ以外ではなかなか出てこない。「依存的な人間に育てたい。」事の善し悪しは別として、意味的にはOKです。
つまり、「人間の成長の振れ幅」というものを「依存的」→「主体的」と見ます。「人間の成長の振れ幅が拡がっている」とは「依存的なあり様から主体的なあり様への幅が、かつての時代に比べると、大きく拡がっている」ということなのです。この見方を会得すれば世界観が変わります。多種多様な人間のあり様というものへの理解が、驚くほど進んでいくのです。

依存的をイメージすると

前回、人間のあり様というものを「依存的」→「主体的」という言葉で提起しました。実は、この反対概念は人間の成長のプロセスにあてはまるということを理解していただきたいのです。人間、生まれたときは「完全依存」の状態です。大人の助けを得なければ生きることができません。大人やまわりからの愛情と適切なフィードバック、そして教育を受けることで、徐々にこころとからだが成長していくのです。少なくとも、義務教育終了後には、自立した、かつ自律できる主体的な人間に成長していることが望まれます。
そこで、「依存的」からイメージできるあり様をいくつかあげてもらいたいのです。  いくつ出てきました?

研修で先生方にお尋ねすると、「受身的」「一人では何も出来ない」「甘えん坊」「人のせいにする」「金魚の糞」「暗い」「消極的」「すねる」「すぐに自分と人とを比べる」等々・・・いろいろ出てきます。大人のあり様から出てくるイメージなので様々なのですが、人間の幼児期にあてはまるイメージが多くないですか? つまり、小さい子どもは「依存的」なのです。大人になっても「依存的」ということは、幼児期からこころが成長できていない姿なのです。幼児は幼児であるがゆえに「依存的」でいいのですが、大人は大人であるがゆえに「依存的」では、人間関係が難しくなってきます。
そこでポイントですが、「依存的」は「受身的」でいいのですが、「依存的」は「攻撃的」ですか?

案外わかっていない「依存的」という言葉

「依存的な人は攻撃的でもありますよね。」と先生方に問いかけると、多くの方々が首を横にふります。「依存的であるということは常に受身的である。」という固定観念は、学校のみならず社会の中に蔓延しています。「攻撃的」であるということと「受身的」であるということは共存しないという固定観念なのです。

しかし、よく人間を観察していくと、そうでないことがわかってくるのです。主体的な人は、様々な経験値や気づきを通じて、人間のこころを想像することができます。そういう人は、「人を攻撃する必要がない」のです。主体的な人は、相手を操作しようとしなくても、相手を理解し、自分の考えを伝えることで相手との協働体制をつくり、相手の自立をうながします。自分で考え、自分が納得して行動した後の結果に対して、たとえ失敗したとしても「人のせい」にすることはありません。自分に何が足りなかったかを考え、次の行動に生かしていくのです。しかし、依存的な人は、そうはなりません。相手の気持ちを理解することが出来ないがゆえに、相手を操作しようとします。そして、相手が自分の思い通りになるかならないかで、「敵」か「味方」かを判断し、「勝った」か「負けたか」で決着をつけてしまいます。そして、うまくいかなかったり、失敗したり「負けた」と感じてしまうと、「人のせい」「まわりのせい」にして超攻撃的になってしまうのです。余談ですが、こんな人が組織のトップに立つと、一時的に、大変なことになってしまいます。
「依存的であるがゆえに、攻撃的になる・・・」理解していただけましたでしょうか。

依存的がグループになってしまうと・・

前回の記事に書いた「依存的であるがゆえに、攻撃的になる」というところをもう少し展開してみますね。

依存的なグループの中で、その頂点にたつ人は、そのグループの中で最も力(力にはいろいろな要素があります)をもっている人間です。グループサイズにもよりますが、その頂点には、若干個性の違った何人かがいる場合もありますが、厳密に言えばその中にも序列が存在します。そして、その「下に」中間層、最下層を存在させ、団結をはかるための価値観を敷き詰めるのです。その価値観は一般的には不合理なものが多いのですが、時には「正当性をもっている」かのような看板を掲げている場合もあります。(だから、見極めることが難しく、まやかされることもあるのですが・・)さらに、頂点に立つ人は、力の誇示と統制ために「恐怖と喜び(高揚)」という相反するものを味わわせます。その結果、多くのグループ構成員は「洗脳」されます。そして、その攻撃はグループ内の最下層にまず向けられます。具体的には、「小間使い」「冷や飯」「いびり」「つるし上げ」等です。依存的なグループを維持するには必ず必要な要素なのですね。一方、グループ外には、「勧誘」と「取り込み」を推し進め、意に沿わない人々に対して、グループの全勢力を動員して攻撃をします。子どもレベルでは、これが「いじめ」や「不登校」等の引き金となり、大人レベルでは「うつ」や「休職・退職」等へ追い込むことになるのです。すべて、依存的なグループを存続させるためです。

「依存的」を支配する「恐怖」

依存的な人たちは、孤立することを極端に恐れます。そして、自分がまわりからどんなふうに見られているかに非常に敏感なのです。それは、主体的な人のあり様と比べると、よりその姿が鮮明になります。主体的な人は、自分の力を認知しているがゆえに、自分でできることと、できないことを理解します。自分が出来ることには惜しみなく力を入れ、できないことについては、まわりの援助を得るための「お願い」や「依頼」をすることができるのです。つまり、自主・自立(律)の力を発揮することで、孤立することを恐れずに「信頼」でつながろうとします。一方、依存的な人たちにとっては、孤立は攻撃を受けることを意味することになるのです。つまり、孤立は恐怖を意味し、信頼でつながるのではなく、「恐怖」でつながっているのです。ですから、依存的な人は必ずグループを求め、グループサイズは二人以上、多数で形成されます。そして、その上下関係をあらわすピラミッドをつくりだし、その形は、三角形、台形、逆三角形、長方形等、様々な形が存在します。頂点には、攻撃的な人が君臨し、中間層は上には受身的、下には攻撃的という両方の要素を持ちます。そして、最下層には、受身的な人が位置づけられます。ただし、これは、そのグループ内で、という条件がつきます。たとえ、最下層の受身的な人であっても、他のグループに入れば頂点に立ったりすることもあります。学校でストレスを溜めた子どもが、家庭内暴力に走ったりするのは、この現象であると言えます。

人間の関係性は流動的

わたし、以前、「スクールカースト」について言及したことがあるのですが、「カースト」という現存する身分制度の概念を、学校教育にあてはめることへの疑念を述べました。「スクールカースト論」を展開している方々は、「依存的なグループ」について、「スクールカースト」という概念をあてているのではないかと感じるのです。確かに、前回の説明では、中間層、最下層という「層」という言葉でくくりました。実は、これは理解を進めるために使っているだけで、実際には、子どもたちはかなり複雑な関係でつながれています。「いったん定着すると抜け出せない」位置という固定的なものではなく、日々、常に流動的な位置に置かれていることがほどんどであり、流動的であるがゆえに感じる「恐怖」こそが、特定のこどもへの攻撃と執拗さを生み出しているのです。これが、深刻な「いじめ」が発生しているという状態なのです。

しかし、学校教育とは、成長した大人が子どもたちに提供する支援です。大人が「成長するための支援」を的確に提供することができれば、依存的なグループは、「育ちません」。大人と子どもが成長の視点でつながってさえいれば、子どもたちは主体的な人間になるための努力を始めるのです。あたりまえのことですが、子どもは、子どもであるというだけで依存的です。放置、放任すれば依存的なグループが発生し幅をきかせるのは、あたりまえのことですし、「スクールカースト」なる概念をあてはめ、「学級にはスクールカーストがある」と述べる教員には、支援を放棄した大人の姿を感じてしまいます。

「依存的」は不登校にもあらわれる

不登校の場合についても、多くのケースで「依存的」であるということが基本になってきます。ただし、学校や学級が「依存的なグループ」に支配され、大人の支援が行き届かなくなっている場合は例外です。最近は、「発達障害が疑われるケースが多い」と言われていますが、子どもたちへの見立ては、医療機関ですら「行動パターン」や「認知パターン」からだけの知見で診断が下ります。ADHDであれば、神経のシナプス間隙のドーパミン濃度を測定したりしません。自閉症スペクトラムの場合でも、fMRI等を使用して脳の血流を調べたりもしません。もちろん、特別支援の観点は重要なのですが、「まず検査ありき」という現在の風潮では、より発達障害の二次被害を増大させる危険性を感じたりします。

幼児期、特に0歳から3歳までの乳幼児期を、どのように過ごしてきたのかということのほうが極めて重要なことなのです。依存的な大人は、子どもに無償の愛情と完璧な保護を提供することができません。今は、スマホでしつけや子守をしようとする時代ですから、その傾向はさらに顕著になってきていると言えます。つまり、依存的な大人に育てられた子どもは、当然「依存的」なままの状態で放置されるばかりでなく、依存的な大人からのこころへの侵入という被害を受けるのです。現象面・行動面で、発達障害との区別が難しいのですね。
「依存的」なままで放置された子どもは、まわりとの間でトラブルを起こします。そして、多くのケースで不登校へと突入していくのです。
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「依存的」の連鎖に対する支援

不登校傾向にある子どもを支援する場合、一次支援、二次支援、三次支援という支援レベルがあります。一次支援とは、学級あるいは学年で支援できるというレベルです。学級、学年とは学年の教員団で支援チームをつくります。二次支援とは、学校全体による支援レベルです。管理職、生徒指導、養護教諭、スクールカウンセラーなどからも支援を提供します。三次支援とは、学校だけでなく、関係諸機関が含まれてきます。教育委員会、児童相談所、役所で子育てを支援する部所、そして、ケースによっては、ソーシャルワーカー、ケースワーカー、警察などを巻き込む場合もあります。そして、このような見立てをしていく組織は、学校に設置されている不登校生を支援する会議(管理職、支援担当など学校の中心メンバー等)なのです。この学校単位の支援会議が設置されて定期的に機能している学校とそうでない学校では、支援のクオリティーがまったく違ってきます。
不登校の子どもの状態が重篤であればあるほど、保護者が要支援であることがほとんどなのですね。依存の連鎖がここにあるからです。悪意ある見方をすれば、保護者の責任、本人の責任ということになるのですが、たとえ、地域でそういう見方があったとしても、そうでないことを体現化することが公立学校の教員としての正しい姿です。二次支援で重篤な子ども、三次支援の子どもたちへの支援は、保護者への支援を関係諸機関と連携して行うことになります。そして、それを可能にするのが学校の支援体制であることを忘れてはいけません。

わたしの経験

わたしは、教員だったとき最後の5年間は人間関係プログラムの学校や校区でのとりまとめをしてましたので、直接、不登校の子どもの支援に入ることはありませんでした。しかし、一度だけ子どもに関わる機会を持つことができました。

6月頃20日間ほど学校を休み、二学期になって登校はするものの別室ですごしていた女の子です。話を聴くと、そこには「依存の連鎖」がはっきりと見え、本人もまわりへの攻撃や妄言を繰り返すうちに、力を失っていきました。9月から別室での生活は始まったのですが、まわりと顔を合わすことができなかったので、7:30には登校していました。わたしと養護教諭の先生ふたりで、彼女をむかえ1時間ほど空間を共有します。話題は世間話です。家庭のことや学校のことや、ささいなことが話題になるのですが、「~したほうがいい」というレスポンスは一切なしです。そうしてるうちに、1時間、2時間と授業に入るようになりました。1歩前進、2歩後退、2歩前進、1歩後退、1歩前進、結果、1歩前進。というような感じです。思うようには進みません。しかし、それを出さないように、出さないようにと自分たちに言いきかせながら・・・です。そして、6ヶ月後、バレンタインデーの日に完全に学級に戻りました。別室に残されたわたしと養護教諭の先生は、彼女が学級に帰ったあと、こころがからっぽになったようになり、寂しさを感じたのです。半年つづいた、朝の団欒がわたしたちの中で大きなものへとなっていたようです。この寂しさを、彼女は力として持って行ってくれたのですね。

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あいあいネットワークofHRS http://www.aiainet-hrs.jp
図書文化社HP http://www.toshobunka.co.jp/books/detail.php?isbn=ISBN978-4-8100-3636-7

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