【第2部 前半】五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』

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作成者:Hirohisa Kawamura (Edupedia編集部)さん

1 はじめに

本記事は、2016年5月15日に東京大学で開催された五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』内で行われたパネルディスカッションを記事化したものです。

第2部前半は、立命館大学教育開発推進機構教授の陰山英男先生、東京大学大学院教育学研究科教授の本田由紀先生、教育ジャーナリストの渡辺敦司氏、そして、本フォーラムを主催するNPO法人ROJEの学生リーダーである佐々木快の4名が、社会から見る学校の姿について熱い議論を交わす内容となっています。

こちらの記事も合わせて御覧ください。
* 五月祭教育フォーラム2017 大学入試改革!問われる新たな能力〜現場と家庭は何をすべきか〜
* 【第1部】五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』
* 【第2部 後半】五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』
* 夏野剛氏インタビュー
* 陰山英男先生インタビュー
* 本田由紀先生インタビュー

2 第2部 前半「社会から見る学校の姿」

戦後日本循環型モデル

佐々木

学校の役割は学校の中だけで決まるものではなくて、社会の流れや変化、どういった社会を作っていきたいかで変わっていくと思います。それについて社会を分析されておる教育社会学者の本田由紀先生に戦後日本型循環モデルをキーワードに説明してもらいたいと思います。よろしくお願いします。

本田

戦後日本型循環モデルは、高度経済成長期に出来上がり、その後のオイルショックからバブル経済の崩壊までの間、日本社会に広がり深く浸透していった、たいへん独特な社会構造だと私は理解しております。何が特徴的かというと、教育システムと仕事の領域、家族の領域の間に矢印が成立し、それぞれ一方向的に資源を流し込みあう関係が成立している。これが戦後教育モデルの大きな特徴です。

教育の面でお話しますと、教育システムは、家族からのアウトプットとして非常にたくさんのお金の投入を受け、またいわゆる教育ママといった親の高い教育意欲に支えられて作動していました。また、教育システムの出口においては、新卒一括採用という、世界の中でも大変独特的な就職の仕組みによって、教育と仕事の間は全く時間的な隙間がない形で接続していました。

この循環と共に、皆がだんだんとより豊かになり、よりハッピーになり、より地位を上げていけるというような幻想のもとに駆り立てられて作動していたのが、この戦後日本型循環モデルです。

ところが、バブル経済の崩壊後、1990年代~2000年代にかけて、この循環が今までのようにまわらなくなります。

まず最初に形を変えたのが仕事の世界です。長期不況の元で正社員が採用できなくなり、非正社員が増えます。そうすると教育の出口で安定した仕事に就くことが出来ず、十分な賃金を家庭に持ち帰ることのできない若者が増えました。

これに付随して、家族の中でも収入の格差が広がり、家族が子供の教育に何をどれだけしてやれるかということにも差が広がります。例えば日本は1つのクラスにたくさんの生徒がいることが知られていますが、その中にも教育熱心な親によって2学年、3学年、先のことを学んでいる子もいれば、小学校の低学年で何も分からなくなっている子も座っている。そういう格差が広がる教室を教師は何とかマネジメントし、親からの要求にも答え、文部科学省から要求にも答えていかざるをえなくなっているのが今の日本の教育の状況です。

そして1990年以降にこれまでの受験学力だけではダメだなという教育政策で導入されたのがいわゆる「生きる力」とか「人間力」とか呼ばれているもう1つの物差しです。これまでの学力が頭の良さで人を序列化するようにはたらいていたのに対して、今度は「生きる力」・「人間力」的なもので人を序列化するようになってしまっている。つまり、2本目の縦軸が教育システムに突き刺ささるようになっているのです。学力であれ人間力であれ、誰かがダメで誰かが良いというように縦の序列の中に子供たちを位置づけるように作用してしまっている。少子高齢化が進む中でどの子も全てとても大事な存在であるはずなのに、その中の誰かに「お前はダメ」という烙印を押していっているのが日本の教育です。

佐々木

ありがとうございました。今までの日本の経済が上手く行っていた時期では本当に家族、教育、会社という3つのサイクルが上手く回ったからこそ何とか回っていた部分があるけれど、それが破綻してしまったということが非常によくわかりました。

キーコンピテンシー

佐々木

続いて、渡辺さんが取材されていたコンピテンシー(資質・能力)に基づいた教育課程改革について伺いたいと思います。まず、キーコンピテンシー[*1]という概念はどういった社会背景から出てきたのかということについてお聞かせください。

[*1] キーコンピテンシー:Key Competency、人生の成功や社会の発展にとって有益で、様々な文脈の中で重要な課題に対応するために必要な資質のことを指す。具体的には、①社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力、②多様な社会グループにおける人間形成能力、③自律的に行動する能力、の3つが挙げられている。

渡辺

1990年代にかけて、社会の変化がこの21世紀には激しく、これからは学校で教えてきた学問体系の知識を教えるだけではダメだという認識がだんだんと具体化されてきたものが、OECD[*2]の示すキーコンピテンシーです。

日本における話をしますと、1990年前後に打ち出されたのが「新学力観」で、それが2000年前後に「生きる力[*3]とゆとり」となり、学力低下批判で「ゆとり」だけが引っ込められ今、「生きる力」が残っている。この「生きる力」に対応するものが、まさに国際学力調査PISAで示しているキーコンピテンシーです。

学校で学んだ知識を学校にとどめるのではなく、それが社会に出た時にどういうふうに使える力になっていくかそれを具体化させて見つけさせようということを目指していた。

しかし、生きる力とは非常に曖昧であって旧来的な知識観で捉えられることが多かった。まさに、ゆとり・脱ゆとり等も、知識の量や授業時間の増減の話にしてしまった。そうではなく今、文部省が行おうとしているのは学力の三要素、あるいは資質能力の三つの柱という形で全ての教科、領域を要素に分けてその学習指導要領を構造化することです

[*2] OECD:経済協力開発機構、ヨーロッパ諸国を中心に日・米を含め34 ヶ国の先進国が加盟する国際機関。国際マクロ経済動向、貿易、開発援助といった分野に加え、最近では持続可能な開発、ガバナンスといった新たな分野についても加盟国間の分析・検討を行っている。

[*3] 生きる力:基礎・基本を身につけ、社会がいかに変化しようと自ら課題を見つけて主体的に判断・行動し、よりよく問題を解決する資質や能力のこと。1996年の中央教育審議会の第一次答申において、これからの子どもたちに必要な力として示された。

陰山

すいません、質問があります。本田先生、生きる力の序列化というご指摘があったと思うのですが、それと今、渡辺さんがおっしゃったキーコンピテンシーとはどういう関係があるのでしょうか。要するに、キーコンピテンシーという概念はなかなか、「序列になじまないもの」というニュアンスがあると思うのですが、それを実は「序列化しようとしている」というご指摘についてもう少し詳しく解説いただけますか。

本田

そもそもキーコンピテンシーなるものが作られたのは主に欧米ですね。ヨーロッパの社会体制のあり方と日本のあり方がかなり違うので、持ち込まれた時に非常に弊害を含むものになっているというのが私の見方です。

例えばコミュニケーション能力が大事であるとか、あるいは問題発見能力が大事であるとか、自分の将来設計能力が大事であるとかしきりに言われているわけですね。コミュニケーション能力を例にとると、ハキハキ物が言えるか、うまいこと言って笑いをとり、場を牛耳ることが出来るかどうか。そういう、ウェイ系[*4]に振る舞えるような力が要求されるようになっている。

実際にそれはスクールカーストという形ではっきりと表れているわけですね。ウェーイという仕切れるタイプの人間は教師にも可愛がられて教師とつるんで非常に支配的な地位にあるわけなんですけど、地味だったり、口ごもりがちな生徒は下の方にいる。結局カースト内で低い居場所におかれてしまった子は自分で将来を掴みとっていく力も阻害されてしまう。

このようなことから、私は日本で言われている生きる力、人間力というものは二本目の縦軸として働いてしまっているということに対してかなり批判的な発言をしてきました。

[*4] ウェイ系:ウェイとは仲間同士で盛り上がった時に発せられる若者言葉。単に軽い挨拶として、友人に会った時などにも用いられる。関連して「ウェイ系」という表現が使われることがあり、集団になって騒ぐことを好む若者に対する軽蔑を込めた呼称などとして使われる。

陰山

ありがとうございました。要するに、キーコンピテンシーという外来語の概念と日本で作られた生きる力の概念というのが、ほぼ同じあるのか違うのかという点を比べると曖昧になってくるということですね。

学校現場にキーコンピテンシーが入ってくると一体、何をどうすればいいねんという話になってくると思うのですが、いわゆる文科省が言っている生きる力とキーコンピテンシーは、学校現場においては何をすればいいと考えているのか、渡辺さんに解説をお願いします。

渡辺

子供の潜在的な力をどうすれば引き出せるのか、もっといえば、教師の働きかけを超えて子供が獲得する資質・能力とは何なのか、それを育成しようというのがコンピテンシー改革のあるべき姿だと思っています。しかし、今の文科省は正直、現場の実態を見ていません。文科省としては、資質・能力の三つの柱による指導要領の構造化という複雑な作業をやっているんですが、それが現場に降りてくると、大変なことになるでしょう。

学習内容にしても、どういう授業を組み立てるべきかということは現場でないと分かりません。そこに“とんでもない”指導要領が降りてきたとき、どうやって授業に落とし込み子供に力をつけさせるのかを創意工夫するのは、現場において他ならないと思います。

学習指導要領改訂に際して

佐々木

ありがとうございました。いまのお話しのなかで、文部科学省と現場という話が出ていました。そこで、「アクティブラーニングが話題になるようですが、アクティブラーニングをさせる・させられるというジレンマという言葉を目にします。これについて言及いただけると幸いです。」という質問をTwitterよりいただいております。アクティブラーニングなのに「させる・させられる」という話ですが、これについてどうお考えでしょうか。渡辺さんよろしくお願いいたします。

渡辺

学習指導要領の論議が始まるまでは、「アクティブラーニングはさせるとかさせられるとかではなくて現場が本来すべきものである」という話になるんだろうなと私は思っていました。しかし、どうやら「させる・させられる」の話になりそうですね。いわゆる教育課程編成権は学校にあるという素晴らしい建て前がこれまでもありました。今度の指導要領ではその建て前を「カリキュラムマネジメント」として実質化するよう要求されると思いますが、それを逆手にとって、どういうカリキュラムを編成し、授業展開をするのかということを、むしろ教育現場の方で真剣に考えないと、降りてきたものを全部やろうとしたら、多忙化・過労死してしまいます。

陰山

それはすごい回答…「『とんでもないこと言いだしますが現場よろしく』といわれても…」というのがおそらく学校現場の意見だと思いますね。

渡辺さん、ついでにもう一つ聞かせてください。ゆとり教育の発端となった学習指導要領改定時における、現場と文部科学省の関係を教えていただけますか。

渡辺

「自ら考え自ら学ぶ」という新学力観の時の文部科学省の姿勢は、「具体的にどうすればいいのか」は国が示さないという方針でした。それは現場で考えるべきなので、現場で考えてください、という姿勢で、これは意図的になされました。ただし、それで何が起こったかというと、混乱です。

新学力観の評価の「4つの観点」について、関心意欲態度をどう評価すればいいかといった際に、挙手の回数で評価しようとしたなど、色々な誤解が出てきました。一方で、例えば総合学習は導入されたけれども高校のほとんどはサボタージュしました。

このように、必ずしも実際に学習指導要領通りにいっているとも限らないですし、また学力向上路線に舵を切られた時から学校現場での学習指導要領の運用の仕方は随分変わりました。要するに、学習指導要領上とか国の政策上というものと、現場のリアルというのは少しずれています

陰山

キーコンピテンシーとか生きる力とか、この10年間で学校現場はいろいろと混乱しました。とりわけ、いまも挙がったように言葉でまとめられた概念というのはある種美しいし理想論的なんだけれども、その具体化は「現場よろしくお願いします」となっています。

本田先生がご覧になって、学校現場でその結果起きてしまった、「ここが大問題」という具体的なものというのは何かございますか?

本田

キーコンピテンシーや人間力や生きる力、それらの問題点として非常に大きなところは、いったいそれらのスキルやコンピテンシーをどのようにすれば形成することができるのか、さらに踏み込んで言えば、あまねく子どもたちに保障することができるのかについての方法論を文部科学省はきちんと示さないままに、現場に丸投げしてきたということです。

渡辺さんは現場を信頼して高く評価されていて、私も確かに日本の教員の方たちは頑張っていらっしゃると思いますが、そうした国家のこれまでの教育政策のなかで、現場は振り回されてきた。時には本当に困惑して、なんとかやっているようなアリバイを作ってみたり、あるいはスルーしてみたりというふうなストラテジーで切り抜けてきたというのが日本の教育現場で起こっていることだと思います。

つまり、どうすれば能力がつくのか先生も子どもたちもわからないという中で、事後的に評価された「なんかあいつはできそうだ」あるいは「なんかあいつはだめそうだ」という縦軸そのものが、非常に強力に、ある種の自己運動を始めてしまうわけですよね。それは、ただでさえ格差が拡がっている、戦後日本型循環モデルの破綻の中で、もう一つの格差の軸として立ち上がり、かつ、その格差は、コミュニケーション能力がない子には「やっぱり自分にコミュニケーション能力がないからだめなんだ」という風に自分の苦しい状況を引き受けさせ、「ウェイ系」と呼ばれるような強気のコミュニケーション能力を持っている子にとっては、「俺は持っている、持っていて何が悪い。」というような傲慢さに向かわせるように作動してしまっていて、良いことは何もないと私は思っています。

佐々木

ありがとうございます。ちなみに、ご来場のみなさまのうち、コミュニケーション能力を子どもに付けさせる教育は意外と大事なのではないかと思われる方は挙手をおねがいします。

結構いらっしゃいますね。コミュニケーション能力を付けさせることが問題ということに対して、何が問題点なのか、本田先生もう少し分かりやすく教えていただけますか。

本田

では、その時のコミュニケーション能力ってどんなコミュニケーション能力ですか?コミュニケーションはいろんな場面で、様々に異なった形を取ります。例えば、壇上におけるコミュニケーション能力と、飲み会で親しい人としゃべっているときのコミュニケーション能力、あるいは意中の人をおとすときのコミュニケーション能力は全部違いますよね。就活で盛って話す時のコミュニケーション能力もまた違っています。

それら全部ひっくるめて、「コミュニケーション能力さえ身に付けていればあらゆる困難なこと、日本社会の苦境すらも解決してもらえるんだよ」みたいな言われ方がされてしまっている。そこは大問題だと思います。

個別の事柄に関するコミュニケーション能力はもしかしたらあったらいいのかもしれませんが、それはあくまでも個別のことです。個別の事態に即して個別の知識や、現場に応じて会話がとれるように必要な知識を兼ね備えているための教育は重要だと思います。しかし、それをコミュニケーション能力と一括りにするのは雑ですし粗いです。

佐々木

ありがとうございます。隂山先生は実際に小学校で教鞭をとられていますが、いまの話について思われることはありますか。

陰山

現場は、ほぼ限界に達しているというのが昨今の状況という感じがします。いままで現場が飲み込んできたものがついに消化不良を起こしはじめて、かなり毒が回ってきているという印象です。

渡辺さん、今度の学習指導要領はどういう猛毒なのでしょうか。何がどうなってどう大変になるのかという予測をお聞かせいただければと思います。

渡辺

教科指導に対して要求される水準がものすごく高くなります。今度の学習指導要領の目玉でもあるんですが、いわゆる縦のつながり横のつながりというんですが、極端に言うと、中学校の理科の先生は小学校の社会科のことも知らないといけないし、高校の芸術のこともわからないといけないというようなことになります。たしか前々回の改正からだったと思いますが、学校現場の先生は自分の校種・教科以外の指導要領を全部束にして渡されています。おそらく読んでいないと思いますが、今度はそれを全部一応は理解して、その中の一つとして自分の授業を教えなければいけない、ということが求められてきます。

佐々木

ありがとうございました。学習指導要領が来年度改訂されるという見込みですが、例えばアクティブラーニングを教師にさせたいのであればもう少し学校の環境を整えるであるとか、教員がもっと学べる環境を整えるといったことが先決なのではないかという意見があると思います。この背景には教員の多忙化があるわけですが、本田先生は教員が今置かれている状況についてどのようなご意見をお持ちでしょうか。

本田

まずアクティブラーニングについて言っておくとですね、それ自体を否定するつもりはありません。しかし、アクティブラーニングといわれていたり実際になされていたりするものは、本当にちょっと隣の人と話し合ってみるといったものまで含めてアクティブラーニングになってしまっています。つまり文部科学省が非常に強く要求してくるものを、あたかもアリバイのように、あるいは踏絵のようにやらなくてはいけなくなっているので、やってみたふりをすることでやり過ごしてしまわざるを得なくなっているというのが現場です。

私個人の主張としては、そうしたものではなく本当にアクティブラーニングをやるのであれば、1クラスあたりの生徒数をもっと少なくすることがとても重要だと思います。そうして30人以下程度にして一人ひとりの子どもたちの様子に目が届き、どのようにふるまっているかも全部見える、遅れ気味の子にもちゃんとケアができるような状態にしてはじめて、誰もこぼさないアクティブラーニングというものができるはずです。

ここで多忙化を示す表を出してください。これはOECDが実施している、教員の労働時間についてのTALISという調査の結果です。表が示す通り、日本は教員の仕事時間の合計が53.9時間です。参加国平均が38.3時間ですから、いかに日本の教員が長時間働いているかということがおわかりいただけるかと思います。ところが授業の指導に使った時間は、日本は17.7時間で、参加国平均の19.3時間と比べるとやや少ないのです。

では日本の教員は何にこれほど時間を取られているかというと、学校内外で授業の準備にもある程度の時間を使っていれば悪いことではないのですが、下の段の赤い数字の部分を見ていただきますと、一般的事務業務に使った時間が5.5時間と2.9時間で他の国に比べて日本は多くなっていますし、さらに驚くほど多いのが、その2つ隣の赤い部分の、課外活動の指導に使った時間で、日本は7.7時間で参加国平均は2.1時間です。

このような状況に教員を放置したままで、渡辺さんがおっしゃったように縦も横もすべての教育課程を把握してアクティブラーニングで構造化せよというような要求が突きつけられて、日本の教員の方たちは本当にこれからますます擦り切れていくと思います。

それで、例えば日本の教員の方たちの事務作業がなぜ多くなっているのかということについては、日本における「指導」という概念が非常に特徴的だという研究の成果があります。

日本は「~指導」という名前を付けるとそれが全部教員の役割になります。例えば「給食指導」「清掃指導」「校門指導」「校外指導」といったように、指導という言葉を付けるとそれが全部専門職である教員が担当する範囲になってしまいます。これが日本の「指導」というマジックワードの恐ろしさです。

国際比較でみると、海外の場合はこんなになんでもやらされていない、もう少し教育のプロとして扱ってもらって、他のいろいろなことは事務職員や他の専門職がやってくれているのに、日本の教員は専門職のはずなのに「なんでも屋さん」としてありとあらゆる役割を引き受けなければならないということが大問題です。

教員の多忙化

佐々木

ありがとうございました。多忙化の話から拡がっていきましたが、多忙化を解決するためにいま馳文部科学大臣が打ち出しているものの一つとして「チーム学校」があります。学校に対して、あるいは先生に対して一つのチームになって、例えば部活の指導員であるとか、家庭から学校にお手伝いに来ていただくであるとかということをしていくべきだというものなのですが、渡辺さんは、先生は忙しすぎるから地域のクラブの指導者に部活動の指導もお願いするという形に対してはどのようにお考えでしょうか。

渡辺

部活動の問題は非常に悩ましい話です。その前にチーム学校の経緯について説明します。チーム学校がなぜ出てきたかというと、それは子どもに向き合う時間を確保するためです。先ほど本田先生が示されたTALISや文部科学省の勤務実態調査もそうですが、要するに授業に割く時間が国際的に見てもそれほど多くなく他のことにつかっている時間が多いということで、子どもに向き合う時間を確保しなければならないということが言われています。

このことは、文部科学省だけでなく、財務省も言っているのですが、その答えが違います。財務省は、子どもと向き合う時間を確保するために他の事務業務や課外活動は他の人にやらせればいいという考え方。文部科学省は、そうではなく教師というのは授業も生徒指導も全てやっているので、教員以外の職種の人を加えることでむしろ学校の教育力をアップさせるんだという考え方なのですが、その折衷案として出てきたのがチーム学校なのです。

チーム学校には、チームメンバーとなるスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、事務職員などといった教員以外の専門スタッフが必要なのですが、それに予算を付けてくれるのか、人を増やしてくれるのかというと、まったくメドがついていません。昨年12月の中教審答申[*5]もよく見るとそうした予算増につながるような表現はほとんど書かれていません。だから、「チーム学校頑張ってね」ということにならないか、ものすごく心配しています。

[*5] 中教審:中央教育審議会の略称。文部科学省の諮問機関で、文部科学省に置かれている多数の審議会のうち最高の位置を占め、最も基本的な重要事項を取り扱う。

佐々木

ありがとうございます。教員の多忙化は本当に問題だといわれていますし、実際に職員を増やせばいいという話もでてきましたね。渡辺さんがおっしゃったように、チーム学校という新しい解決策を大々的に示しても、予算は雀の涙程度しか出ません。

先ほど本田先生がおっしゃった教員1人当たりの生徒数も、OECD平均を日本は大きく上回っています。1学級あたり生徒数の上限を30人にすべきだというお話だったと思うのですがこれを実際に施行しようとすると数兆単位の予算がかかると概算されています。実際にこのような問題を回避するのは非常にむずかしいと思うのですが、現場で実践を重ねられた隂山先生に教員の多忙化の問題の解決策について教えていただければと思います。

陰山

国家予算が逼迫している中では、そう簡単には予算がつくことは考えづらいです。そのためにも、着実な成果が上がる予算どりが求められていると考えています。

最近、中学校の部活の問題については現場の先生方が声を上げられました。ネットで署名をされました。僕はこれが一番大事だと思うのです。やはり現場の問題は現場が声を上げるべきです。

現場の状況は明らかに末期的症状を示しつつあります。先ほど不登校の子どもが増加していることを挙げましたが、もう一つちょっと信じられないような末期的な症状があって、小学校低学年の学校内暴力が頻発するようになっているのです。今度英語教育が始まりますが、全教職員に対する英語研修というのを聞かれたことはありますか。ないですよね。全部の学校でやるのですよね。すべての先生が英語指導する可能性・危険性があるわけです。どうするのでしょうか。本当に現場丸投げの兆候が出ているのではないかなと思います。

こちらの記事も合わせて御覧ください。
* 五月祭教育フォーラム2017 大学入試改革!問われる新たな能力〜現場と家庭は何をすべきか〜
* 【第1部】五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』
* 【第2部 後半】五月祭教育フォーラム2016『学校の役割を問い直そう~公教育が「商品」に!?~』
* 夏野剛氏インタビュー
* 陰山英男先生インタビュー
* 本田由紀先生インタビュー

3 登壇者プロフィール

陰山英男

立命館大学教育開発推進機構教授/立命館小学校校長顧問

1958年生まれ。岡山大学法学部卒業後、兵庫県朝来町立山口小学校教師時代から、反復学習や規則正しい生活習慣の定着で基礎学力の向上を目指す「陰山メソッド」を確立し脚光を浴びる。内閣官房 教育再生会議委員、文部科学省中央教育審議会委員、大阪府教育委員会教育委員長などを歴任。

本田由紀

東京大学大学院教育学研究科教授

1964年徳島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程卒。博士(教育学)。日本労働研究機構(現 労働政策研究・研修機構)研究員、東京大学社会科学研究所助教授等を経て現職。日本学術会議会員。専門は教育社会学で、教育・仕事・家族という3つの社会領域間の関係に関する研究を主に行う。日本におけるその問題点と変革の必要性について積極的に発言している。

渡辺敦司

教育ジャーナリスト

1964年北海道生まれ。1990年に横浜国立大学教育学部を卒業後、「日本教育新聞」記者となり、文部省、進路指導問題などを担当。1998年よりフリーの教育ジャーナリストとして、行財政から実践まで幅広く取材・執筆。

佐々木快

早稲田大学 教育学部 教育学科2年

教育学を専攻し、大学教員を目指して勉学に励んでいる。一方、幣団体では歴代最年少で学生副事務局長に就任し、組織運営や、ブランディング戦略をはじめとした様々な業務を兼任しながら、五月祭教育フォーラムの代表を務めている。

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