社会科教育を中心とした主権者教育

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作成者:志門 風間 (Edupedia編集部)さん

1 はじめに

本記事は、2020年2月29日に行った、渡部竜也先生(東京学芸大学准教授)へのインタビューを編集・記事化したものです。社会科教育を中心とした、生徒の実生活のコンテクストを意識した主権者教育の在り方について、様々な観点からお話しいただきました。

2 インタビュー

先生の紹介

まず最初に、先生がどのような研究をしているのか教えてください。

結構広い範囲で研究していますが、一言で言うなら「主権者教育論」です。私は、主権者教育が選挙のための教育として捉えられていることを危惧しています。社会の現状や問題について、しっかりと構造的に分析し、あるべき方向を一人一人が考え、みんなで議論できるようになるための教育を主権者教育だと捉えています。そのような問題関心の下で、どのような目標やカリキュラムがいるのか、教員はどのようなことを学び日々の授業で教えていかなければならないのか、どのようにそれを評価しなければならないのか、という研究をしています。ただ、方法論はまちまちなので、あまりテーマを絞って議論しないようにしています。

主権者教育の目的とゴール

主権者教育とは、そもそもどのような目的のもとで行われるのでしょうか?

具体的な目標については、地域で定めてほしいと考えています。例えば、どのような民主主義のあり方が良いかを考えるとき、私自身はムフの多元的民主主義を重視しているのですが、あまりそれにこだわりすぎた時には、「私たちの地域には合わない」と言われることがあります。長い間、社会科ではリベラリズムと共和主義が対立していた歴史があります。しかし、どちらが正しいか、というのは不毛な議論でもあるように思います。必要なものは、時代や地域によって変わると考えています。そのため、私の方から「民主主義の原理原則はこうだ!」とあまり言わない方が良いのではないかと感じています。

例えば、1980年代までは、国家や労働組合のようにイデオロギーを前面に出すような人たちがかなり強い力を持っていて、そこに市民を動員するということが多かったです。そのため、選挙に行く人たちも党派性をしっかり持っていました。この時代における教育の役割は、政府や国家からの自由がすごく重視されたものでした。しかし、バウマンも言っているように、今の時代は労働組合を含めてそういう党派性が非常に弱まっている時代だと思います。そうすると、国家からの自由を重視することはかえって個人主義を助長することになりかねないのではないか、むしろ国家への自由を助長する教育をしていくべきなのではないかと、私は考えます。

しかし、これも地域によって違います。例えば、広島のように集結力が高い地域と、「俺は1日でも早くこんな村から出て行きたい」と思っている人が多いような地域では、同じ議論は成立しないのではないでしょうか。どのような議論が必要なのかということは、文脈や状況に合わせて判断してほしいと思います。

それでは、主権者教育のゴールとはどこなのでしょうか?

地域の問題について議論したり、できれば社会参加したりすることだと考えます。学校が社会参加までやるかというところも含めて私は判断をしないようにしていますが、ゴールとしては、社会問題について自分なりの見解をもったり、意見を言えるようになったりすることではないでしょうか。できれば外の人が聞くに値するレベルの意見を、どれか一つの問題でも良いから言えるようになってほしいです。全部は無理だと思います。私も全部に興味あるわけではないですから。しかし、「私はどうしてもこれにこだわりたい」と思える問題を1つでも持って意見を言えるようになってほしいなと思います。学校教育はそういったポリティカルソーシャライゼーションをやっていかなくてはなりません。教育史を見ると、中等教育はそのために存在しているのだと思います。初等教育は「読み・書き・算盤」というところでしょう。教育期間が長くなっていることの一つの要素として、やはり職業選択が広がり職業社会へ対応しなければならないということもあるとは思います。しかし、同時に社会参画をする必要性も高まっています。社会に参画して、考えないといけない問題がどんどん増えています。これにも対応していかなければならないですよね。この両方があってはじめて、経済的な民主主義も政治的な民主主義もまわっていくのだと思います。どちらか片方で、ということは本来あるべきではないでしょう。

このように考えているので、「主権者教育のゴールは合意形成する力だ」とはっきりは言えません。主権者教育のゴールは、社会問題について議論できることです。しかし「社会問題について理解はした。でも意見はないよ」というのはまずいと思います。繋がっていく社会を作らないといけないなら、意思表明はできるようになった方が良いのではないでしょうか。言葉にしないとやっぱりわからないですよね。

学校が、生徒の社会参加まで担うべきだと考えますか?

地域によりますね。学校の教員が自分の生徒には行動が必要だと考えるなら、反知性主義にならないようにやってほしいなと思いますし、逆に「いや、うちは行動ばかりで勉強させた方が良い」と考えるなら、行動よりも勉強に重きをおいて良いと思います。学校次第、状況次第ですね。行動するとやはり反知性主義っぽくなりますし、逆に勉強ばかりしても頭でっかちなわりに具体的な行動が伴わないことが多いので、そこは現地で判断してもらえればと思います。我々がそこまで介入するべきではないと思います。

学習の「目的」の議論と生徒の関心に沿った教育

近年見られる傾向として、高校生の学習意欲の低下、受験知の重視が挙げられますが、教育側にはどのような問題が考えられるのでしょうか?また、どういう解決策が考えられるでしょうか?

問題の1つは、「なぜ受験をしなくてはいけないの?」という生徒の疑問に対する答えが見えにくい状況が続いていることだと思います。

大学入試では、ただ知識を問うているわけではありません。特に国立大学の二次試験では、大抵の先生は何か理由があってその問題を出しています。ですから、「受験でなぜその問題を大学が出題しているか」ということを、学校で教員が解説できるようになるべきだと思います。「この学校はこんな問題が出題傾向にある」ではなくて、「なぜこの大学はこの問題を問いたがるのか」ということを説明できる必要があるということです。例えば、東京学芸大学の入試で「功利主義について、ベンサムとミルの違いを説明せよ」という問題が出ました。朝日新聞の解説には、なぜこの問題が今ホットなのかということが書かれていましたが、私はそういう解説がとても大切だと思っています。つまり、なぜ今、功利主義というものがテーマとして見直されているのか、どのような本が出版され、どのような議論がなされているのかということを、教員が説明をしないといけないのです。出題される問題を当てることも大切かもしれませんが、一番は「出題がなぜなされているか」ということについて、できれば学問的説明だけではなく、学生がなぜそういうことを考えなければならないのかということについて説明することが大事だと思います。それが「真正の学び」に繋がってくるのではないでしょうか。例えば、「江戸幕府がなぜ300年続いたのか」という問題を出したとして、なぜこの問題を歴史学を専攻する人以外も解かなくてはいけないのかを説明できることが大切だと思います。

合わせて言うなら、学校教育はこのような問いや説明を、授業の中で取り入れていく必要があると思います。「市民としてなぜそれを知らなければならないのか」を理解するために入試問題を利用するなら、それだけでは高校生の学習意欲が高くならないとしても、主権者育成と受験対策という目的がぶつかることはないはずです。

また、教員には、高校生が問題に感じていることを取り扱ってほしいと思います。高校生の関心は見えにくいので、インターネットを見てみたらどうかと思います。現実では「俺はこの政党が好き!」とは言いにくいですが、案外ネットでははっきりと言っていることもあります。どのようなコメントをして、どのようなことに関心を持っているのかをネットから知り、授業での問題提起につなげてみることも一つのやり方だと思います。一般的に、教員は「生徒が何に関心を持っているのか」についての配慮が欠落していたり、非常に古い見解を持っていたりすることが多いように感じます。例えば、「若者の投票率が低いのは、彼らが政治への関心を持っていないからだ」と言うことがあります。でもそれは、ただ「投票に」興味がないだけかもしれない。政治的なことについては、意外と関心があるかもしれない。生徒が何に関心を持っているのかを教員にはもっと重視してほしいし、そのためにはネットが使えると思います。

真正の学びと評価

先生の本にも多く書かれていたのですが、「真正の学び」とはどのような学びなのでしょうか?また、具体的にそれはどのような教育内容・教育方法の実践として現れうるのでしょうか。

私自身は、ニューマンの定義を重視しています。彼が言っているのは、第三者に意味のあることを発言できるようにしよう、パフォーマンスできるようにしよう、物を作って表現できるようにしよう、ということで、私はここがすごく重要だと思っています。意味のある言説、つまり、聞いていて相手が「あ〜なるほど」とか「え〜違うんじゃない!?」などと反応してくれるものを作ろうという考え方です。

自分もそれを実践するように気をつけています。本を書くときも、「学術的な物を書いたぞ。評価する人が評価すれば良いんだ」というスタイルは取らないようにしています。それは自己満足ではないですか。誰か読んでくれるだろうという発想自体、対話する気も、世の中に対して何か投げかける気持ちがないですよね。それは独りよがりの語りで、真正の学びではありません。やはり何かを訴えていく必要があり、対話相手を想定して発言する必要があると思います。

そのためには、リアルな議論を取り扱わなければなりません。例えばイスラーム勢力が勃興した時代を扱うにしても、現在とつながるような問いかけの仕方があるでしょうし、教員はもっとそのような問いかけにこだわっていくべきですよ。『Doing History』はそのために書きました。歴史学の中にもヒントになる問いかけはたくさんありますが、もっと広く、生活に関連するテーマの中から持ってくる必要があるのではないでしょうか。「このテーマはどこかで実際に議論しそうだ」と子どもが思える議論でないといけないのです。

例えば、「自分の子どもが5年生になって、近所の同学年の子どもたちと九州に旅行に行くことになりました。あなたは、この旅行を、子どもが環境について考える機会にしたいと考えています。あなたならどのような場所に行かせますか?また、どのような問いを立てるよう支援しますか?そのために、どのような本を事前に読ませますか?」というような問題。これが真正の学びだと思います。生活に即してリアルな問いかけをしてほしいし、彼らを市民としてしっかりと位置付けることが、主権者教育としての真正の学びになるでしょう。ニューマンの定義通りやれば、「真正の学び」は主権者教育ととても相性が良いのです。

「真正の学び」をどのように評価していくべきなのかについて、まずは総括的評価の観点から教えてください。

主権者になることに対して、義務教育や高校の段階でゴールを設けるのは難しいですよね。達成できているかと言われると、ほとんどの人が達成できていないと思います。生涯学習であることを考えると、「完成しなくてはいけない」という前提はおかしいですが、一方で何か評価をしなければならないということもありますよね。これに対する私の今の仮説は、社会問題について卒論を書かせることです。生徒自身が自分の関心のある問題を定めて、その分析と提言をします。様々な形で教えられたものがミックスされて最後に表出されると思うので、複数の教員で評価することが大切だと思います。テーマによってどの教科の要素が強いかは変わるので、それぞれの生徒の内容によって卒論指導をどの教員が評価するか決めれば良いのではないでしょうか。

複数の教員が評価することで、生徒も「本気でやらせようとしてるな」と思うのではないでしょうか。総括的評価としてはそのことが必要かなと考えています。その領域の専門家や提案される側になる人たち、直接利害関係がある人たちに評価をしてもらうのです。利害関係者全員を入れるのが難しければ、一人誰か地域の人を入れて、総合評価してもらう方が良いのではないかと思います。

次に、形成的評価はどのように行うべきなのでしょうか?

形成的評価について気になっていることは、やりすぎると評価ばかりにエネルギーがかかってしまうということです。ゴールがはっきりするので、常に複雑な課題を課すというよりは、普段は知識だけで評価しても良いのではないかと思います。一方で、知識以外の部分も重要であることを理解し、日々の授業の中で表出させる努力も大切です。主権者を測定するためのペーパーテストを作ることには、私は違和感がありますから。社会問題について学習する中で、基礎知識と、最低でも考えてほしいような問いについて考えることができていれば良いのではないでしょうか。

主権者教育は、パフォーマンス評価を踏まえても全部を評価はできないと思います。そのことを教員も生徒も理解する必要があります。全部はできないけれど、その中で表出しているものを総合的に加味しますよ、という合意をしておくことが大切です。

それから、評価に引っ張られすぎないようにした方が良いと思います。評価が忙しすぎて授業改善が進まないというのは本末転倒ですからね。

できるところだけ評価していくということですか?

そうです。「最終的なゴールが何であるのか」が分かれば良いのです。究極的には、主権者としての能力を全部評価することは非常に難しいと思います。特に態度面については、評価するとすごくヘンテコなことになります。主権者教育というのは、緩やかに、確かに態度形成しています。しかしそれが急に5段階評価になることで、ギスギスした人間関係になってしまいそうですよね。それは主権者教育としてどうなのでしょうか。「あなたは主権者として3点」とかいう体制は、全然主権者の育成に向かないと思います。自分で判断することが大切なのですから、不自然な評価をしてしまうことは避けなければならないですよね。これはおそらく皆さんも合意される部分ではないかと思います。

主権者教育における社会に開かれた教育課程

先ほど、リアルな状況設定をするということや外部の専門家を含めて評価をしていくべきだという話がありましたが、主権者教育においてはやはり、社会に開かれた教育課程が大事だと思います。そのような中で、教員や管理職には具体的にどのようなことが求められるのでしょうか。

管理職に関しては、まず、主権者教育が大切だということを理解してほしいです。その意識が欠けている人に対してどうするかは難しいですが、主権者教育をやってきた人こそが管理職になっていく必要があると思います。また、教員養成の段階で主権者教育の必要性や地域との連携についてしっかりと伝えていくとことが大切です。

進学校以外の学校で教えていると、ある程度主権者教育というところに行き着きやすいです。生徒は「何でこんなこと教えられなきゃならないんだ」と言うので、それに対する一つの解答として、主権者教育が出てきやすいのです。一方で、進学校ばかりで勤務している教員がいて、彼らの方が主権者教育に否定的かもしれません。その教員の信念に対しては、我々は主権者教育の重要性を訴えていくしかないですね。

「主権者教育をしたいがどうしたら良いのだろう」と悩んでいる学校は多いと思います。そのような学校で問題になるのは、政治的中立性の壁と、持続可能な体制作りの困難さです。

そこで私が関心を持っているのが、民間の教育団体です。継続的に問題関心を持っている人が一定数いる団体は、持続可能性を考える上でポイントになってきますし、教員が困った時に助けてくれそうだという1つの可能性を持っていると思います。

政治的中立性という問題は厄介ですが、そもそも理屈的に中立ということはありえません。よって、みんなが納得するかどうかだと思います。みんなが関心を持っているのは、教員がすごく浅い目線とか、非常に一面的なものの見方をしていないか、ということだと思います。そうではないと思ってもらうようにするためには、1つは、大学や研究者が授業に介入し、教員自身も大学や研究者と協力することで身を守ることだと思います。でも、急に大学の先生を呼ぶのは難しいし、誰を呼んで良いかわからないなら、民間研究会やEDUPEDIAのような機関に支援を頼むのも良いと思います。支援機関を充実させていくことによって、実現が可能になってくるのではないだろうかと考えています。システム作りについては『主権者教育論』には書いていませんが、私が今後研究していきたいテーマの1つです。

主権者教育における社会科教育について

主権者教育は社会科だけではなく、教科横断的に行われるべきだと思いますが、様々な教科の中で特に社会科が果たしうる主要な役割とはどのようなものなのでしょうか?

主権者教育の目的が、社会についてしっかりと分析したり、問題についてしっかり考えたりできるようになることであるとしたら、どう考えても社会科は、理科や音楽より内容的に主権者教育に直接関わると思います。各教科ではやれる範囲で主権者教育をやることになりますが、社会科では全部を主権者教育にできます。つまり、主権者教育の中核になるのは内容的に考えて社会科であり、マインドとしては社会科マインドを各教科が持っていかないと作れないのではないかと思っています。

教科での主権者教育を重視している理由は明確で、圧倒的に教科の時間の方が多いからです。たまにしかない総合的な学習の時間で主権者教育をやって、主権者になりますか? 週1回あるかないかのところで模擬投票したり、死刑について議論したりして主権者となるなら、ずっと昔に問題解決はしているでしょう。主権者教育を総合的な学習の時間でやってしまうことの問題性は、議論型や探求型の学習をしようとするけど、その探求に必要な内容を教科から得られるようにするはずなのに、教科の連続性について議論されていないことです。例えば、死刑について議論しようと思ったら法律についてとか、人権についてしっかり学ばなければならないのに、その基盤のところがきちっとなっていないままいきなり死刑の話をすると、それこそ道徳的な話に陥ってしまいます。逆に、教科の中で教えても、教科の学びとして学んでいるだけで、総合的な学習の時間や外の実際の問題とつなげないまま、ただ法制度や過去の論争事例を教えているだけかもしれません。そうすると、知識は活きず、分断されてしまいます。教科から学んだことを使うというけれど、それは教科から学んだことを使うには、総合的な学習の時間でやるところを常に意識して教科の授業を行わなければなりません。でもそれなら教科の授業で行った方が効率的だと思います。社会科を主権者教育として改造する中で、時間数が不足するような時に総合的な学習の時間を利用したらどうでしょうか。例えば、科学が起こす問題、原発や公害の問題を取り扱うなら、理科の教員と社会科の教員が協力して作れば良いのです。総合的な学習の時間を使っても良いし、理科と社会科の合同授業でも良いのではないでしょうか。主権者教育は社会科の教員がリーダーシップをとりながら、専門性がない分野のみ他教科の教員の話を聞くなどして、コラボすれば良いと思います。社会科の教員がリーダーシップを取った方が指揮命令系統も分かりやすくて良いと思います。校長のリーダーシップは、時には教員側の混乱を招くこともありますからね。

しかし、公民科だけに任せるべきではないと思います。歴史抜きに主権者教育をすることは危険です。現在の問題は過去から来ていることが多いので、今の問題だけを見るべきではありません。そして、そのような「来歴を知る」「教訓を知る」という在り方は、歴史教育を生きたものに変えます。よって、高校で公民科と地歴科が分けられていても良いと思いますが、目標は共有すべきでしょう。分けることの特徴を挙げるならば、地理や歴史は分析に重きを置く科目なのに対して、公民は現状の問題について議論することに重きが置かれます。

高校では入試の関係上、公民科よりも地歴科の方が時間数も多く重視されていて、問題視されています。この点についてどうお考えですか?

その通りですが、歴史の中にも制度の変遷などの主権者教育的要素がたくさん含まれており、そのことを前面に出していくべきだと思います。例えば、マグナカルタは現在のイギリスの憲法体系の基盤として生きている法律ですが、どのような背景でマグナカルタができたのか、なぜイギリスの議会が世界の民主主義の基盤になっていくのかということについて世界史の中で意識して教えていくようなことも考えられます。また、それをトピックにしていくことも歴史総合では考えられます。そうすれば、歴史も生きたものになってくるでしょう。

こうしてみると、教員には相当の教養が求められることが分かるでしょう。「歴史総合パートナーズ」シリーズのような本も参考にしていけば良いと思います。私は、今回の学習指導要領改訂の中で歴史総合が最も良い改革だと思います。出版社やEDUPEDIAのような団体が現場に発信してサポートしていくことで現場の実践は発展していきます。歴史の教員は、歴史だけでなく様々な社会科学を知って授業を作った方が良いと思います。

また、科目を分野で分けることの弊害を挙げるならば、歴史学と歴史科のように親学問と子学問の関係で見てしまうことです。歴史は歴史学のみに関係するわけではありません。世界的に見れば、歴史の中に公民の要素が含まれるという考え方はスタンダードですし、私もそれを重視しています。

主権者教育における歴史教育

次に歴史教育についてお聞きします。歴史は暗記科目の代名詞として語られることも多いですが、現在の歴史教育の問題点と解決策について教えてください。

個人的には歴史の暗記は好きでしたが、問題はそれが全員ではないということです。確かに、歴史は好き嫌いがはっきりする科目です。遠い昔にロマンを感じない生徒は、土器とか古銭を渡されても興味を示しません。地理の教員でも、自身の海外旅行の写真を見せる人もいるでしょう。しかし興味のない生徒にとっては趣味の押し付けでしかないでしょう。そもそも、関心のある生徒は自分でインターネットで調べます。教員は、関心のない生徒が発する「どのように自分の生活に関係があるのか」という問いに応える必要があります。彼らの生活に歴史や地理がどのように生きてくるのかを常に考えながら授業をする必要があるわけです。

私は、歴史を上手に使えば彼らの生活の役に立つと思います。過去を見ることで考える選択肢が増えていく、原因がより深く分かる、相手への誤解が解ける等、色々な経験ができるでしょう。それらを授業の中に組み込んでいくことが大切だと思います。地理学や歴史学らしくなくなると思いますが、良いと思います。地域や時代の特色などを発見させる授業も見られますが、それにとどまるのでなく、生徒の生活との関係性に踏み込んでいく必要があります。生徒がその知識を活用する実際のリアルな状況を想像できるのは教員です。例えば、イランについての地理や歴史において授業をする際にも、ただ無味乾燥な理解をさせるのでなく、生徒がイランの人と関わる状況ー例えば職場でーを想像することで、真正性が現れると思います。これは人間関係等も含めた広い意味での主権者教育ですが、これらのことを意識して地理や歴史を再現してほしいです。

生徒の実生活や興味関心から地理や歴史の授業を作るということですが、その際に現在の歴史教育に見られる通史という教育方法や教科書の設計等に問題はあるのでしょうか。

理想は、歴史総合で行うトピック学習ですが、通史もある種受け入れられる理由があると思います。通史は日本の来歴を語っています。これがないと、日本という国民が共有するものが消える可能性があります。

よって、通史が悪いというよりも、通史が持つ問題性を教員や生徒1人1人が意識する必要があるのです。通史は、為政者に都合の良い語りになりやすく、またマジョリティの語りになります。京都や大阪の歴史を聞くというのは、勝者、マジョリティの歴史であって、アイヌや沖縄は周辺に追いやられています。さらにひどいのは青森県などの地方で、全く歴史に登場しません。これは格差だと思います。勝手にマジョリティとマイノリティが作られてしまっています。戦国時代は全国に戦国大名がいたかのような京都人の感覚は勝手な歴史です。このように問題性を指摘していくと、歴史の授業は終わらなくなります。

よって、通史学習の問題性も含め、でもなぜ大抵の国では通史学習が行われているのかも含め、語るべきだと思います。どの国でも通史の問題性があって議論になっていますが、通史が主流なのも確かです。『Doing History』では広島カープの歴史について触れていますが、間違った歴史である一方で、アイデンティティを形成し広島の自負心を生んでいる面もあります。その歴史を完全否定してしまえば、地域が崩壊するだけです。また、坂本龍馬が教科書から外されることが問題になっていましたが、坂本龍馬は学問的にはどうでもいい存在である一方で、日本人として外せなくなっているわけです。龍馬なるものに日本人らしさを感じているわけです。学問的な意味から否定することで、日本人的なものとしての理想像まで壊してしまうことに本当に意味があるのかは疑問です。現に、海外や地域によっては、そのようなシンボルが見つけられなくて地域への誇りやアイデンティティを持ちにくいところもいっぱいあるのですから。

よって、来歴を知るための通史学習が持つ暴力性や課題を知りながら、同時に語りつがれている意味をメタ的に見ることが必要ではないでしょうか。よって、通史を否定するよりも、どの国もやっているけれど問題性は何かを理解したり、通史の物語を語ることのメリットを意識していくべきだと思います。しかし、個人的には通史は小学校で行う1回で良いと思っています。中学校からはトピック学習や遡及学習等工夫できるはずです。

新学習指導要領において新設される「歴史総合」についてお聞きします。主権者教育の観点から見た時に、歴史総合のポイントや教員が意識すべき点を教えてください。

清水書院の「歴史総合パートナーズ」シリーズを読むべきです。このシリーズの良いところは、子どもの生活につながる「トピック」を重視していることだけでなく、歴史学者が独占していないことです。これが「歴史学する」のでなく「歴史する(Doing History)」ことに繋がっていて、生活の中に入っていく歴史や歴史学以外の目線からの問いかけがあるのです。社会学に近いマインドで議論しているところもあります。具体的なデザインの参考例として読んでほしいです。

山川出版社と比較すると違いがはっきりします。山川出版社は歴史学者に書かせるし、テーマもこてこての歴史そのものを学ぶものですが、清水書院は実際に生活している人の生活の様子なども描かれていします。また、客観的に他人ごとで語る口調でなく、主観性をはっきり出しているところも特徴的です。主権者教育としての歴史教育をはっきりと出してきていることを感じます。「歴史する」ということが鮮明に理解できます。私が説明するより、これを読んだ方が良いと思います。

主権者教育における公民教育

次に「公共」についても主権者教育としてのポイントを教えてください。

正直名前は何でもいいのですが、期待するのは、社会問題について学ぶ時間をしっかり取ってもらいたいということです。しかし、「公共」というのであれば、分析に重きを置くのでなく、対話する空間としての公共圏を作るという最終的な目標に向けた教育になってほしいです。

新自由主義の現代の中で最も問題なのは人々が分断されていることです。1人1人が問題を感じていながらも、戦う術をもたず、切られていることです。例えば正規雇用の社員であれば労働組合に入って戦えますが、流動雇用では労働組合に入る意味もなく、また「嫌ならやめればよい」という解決策が重視されて、個別の問題になります。それが為政者や企業の主にとって利用しやすいのです。しかし、個別の問題解決は根本的な問題解決につながらず、人々が問題意識をもって繋がる必要があるのです。現代はインターネットもあるので繋がることはそこまで難しくありませんが、肝心の学校教育がそのためにサポートすることができていません。そこに「公共」の役割を見出しています。「公共」は明らかにハーバーマスの公共圏を意識した言葉だと思うので、そのマインドで捉えてほしいです。

また、1人で国家や権力、構造と戦うのは不可能なので、同じ問題意識を持つ人が繋がり、戦略を練ることは大切です。事実、部活動や保育など、最近のいくつかの問題では世論を動かす新しい動きも出てきています。これらのようなことを意識してほしいです。しかし、一律に同じ問題を議論するというのには反対です。できれば、まず地域を意識してほしいです。ネットで繋がることも大切ですが、身近な人と繋がっていく方が大事だと思います。これらは初等教育からやるべきことだとも思いますが。

地域の問題をより重視するということですが、ESD等のグローバルな課題の扱いはどうなるのですか?

グローバルな問題を理解しないとローカルな問題も理解できないのでグローバルな問題も大切ですが、解決の為に何ができるかと言われると、大抵の場合私たちは話し合うことくらいしかできません。しかし「それでは考えなくても良いのか」という問いかけはしても良いと思います。グローバルな問題を学ぶ理由としては、現代では地域の問題のほとんどはグローバルな問題が基にあるから地域理解に外せないことがあります。「国は何をする必要があるか」や「将来自分たちには何ができそうか」といったことや「今日では何がなされているか」といったことは議論しても良いと思います。しかし、解決のための行動はあまり強制しない方が良いでしょう。1人1人が世界を変えるという発想は道徳教育に化けて危険だと思います。結局「ゴミ拾い」や「部屋の片づけ」等の無責任な回答になるだけです。何か発信すること等は個人でもできますが、個人の努力にも限界があります。構造の問題は個人の努力の問題にせず、「解決主体は誰か」ということを理解していくことが大切です。

中学の社会科では、「地理と歴史→公民」という流れが一般的だと思われますが、地理と歴史に時間が割かれすぎたり受験が迫ってくる等の状況で、公民分野がおろそかにされている現状もあると思います。

意図的なものを感じます。政府は「公民もやっている」と主張しますが、できないことを分かっていて組んでいると思います。フォーマルなカリキュラムには記載されていますが、インフォーマルなところで軽視されており、しかもそれを分かっていて編成しているように思います。

それでは個々の教員には何ができるのでしょうか。

まずは、地歴を主権者教育化することです。例えば憲法の条文は歴史で扱っても良いと思います。大日本帝国憲法や日本国憲法が公布されたところでです。また、全体的にも近代史の分野で扱える論争問題は多いと思います。地歴をきちんと公民化していくことで、公民の負担が減ります。しかし、現状では、カリキュラムに書いてある事項はその場で教えなければとなってしまうのだと思います。そこはカリキュラム・マネジメントでうまくやっていけるはずです。

しかしこのやり方で難しいのは、転勤して教員が変わった時に、他校との差異が混乱を招くことです。よって、まずは中高一貫等の異動が少ない環境でやっていけば良いと思います。

地理においても地誌の存在には疑問です。やるにしても、地域の問題と絡める形で地誌をやるべきです。やたらに地域のフィールドワークをして地域の特色を調べたりするものがありますが、不要だと思います。中学校で地理が公民や歴史に先行して学ばれる理由は、環境や地形と生活のつながりを見ていくことで、全ての問題の基盤になるということがありますが、それだけだったら1年もかからないはずです。生徒の主体的な国調べ等の余計なことも多いように感じます。それよりも、教員が現在の問題を中心とした学習を設計する方が良いです。

主権者教育として必要なことを考えれば、地理の時間数は減ると思いますし、歴史は時間が増えても中身が変わってくると思います。そのうえで公民でやることは減るでしょう。特に経済は社会的な事象に必ず絡んでくるはずですから、歴史で十分に扱えます。このように合理化を図っていくためには、中学校も高校も3年間のカリキュラムビジョンをしっかり持つことが大事です。普通校は教員の転勤が頻繁にあるので難しいですが、少なくとも私立や国立の一貫校はやれるはずです。

主権者教育における社会科教育学の必要性

これまでの話では、現場の教員の力量が鍵を握るというように感じられました。そこで、研修として、教員が社会科教育学を学ぶ意義は何でしょうか?

本にも書いてありますが、エイムトークをするためです。「何のために教えるのか」ということです。例えば主権者を育てるということになれば、まず「何を教えるのか」「どのような方法で教えるのか」という原則的な議論があります。また、それぞれの時代を教える時どのような可能性があって、どのような子どもにはどのような教え方が良いのかという議論があります。社会科教育学には、これらを主権者教育という観点から議論してきている歴史があります。そして、少なくともそのようなマインドを教員が持つべきなのです。

教育学には、一般教育学と教科教育学がありますが、一般教育学が提供できていなかったので、教科教育学が提供したという歴史があります。例えば、コンピテンシーが近年重視されていますが、これは方法から育むようなもので、なぜその内容でやるのかの説明がつきません。私は「室町時代だから学べること」の議論をしてほしいのです。

少し具体的な例を挙げて話しますが、室町時代は民衆が力を持つようになった時代でもあります。室町時代の民衆の暴動は「市民革命」とは言えませんが、為政者に無視できない影響力を与えたのも事実です。そこで、どのような条件がそうさせているのか、今の時代のどの条件を変えてしまうと、無抵抗な民衆になるのかといったことを考えていくのは面白いと思います。今の時代にも通じる原理を見出すこともできるはずです。また「なぜ義満の文化より義政の文化の方が日本で根付いたのか」や「なぜ為政者の合議制が根付かなかったのか」等を考えると、室町時代でも意外と学べることは多いのです。

このように主権者教育としての歴史の在り方等を検討してきたのが社会科教育学で、実践事例もたくさんあります。逆に歴史学は、過去の事件そのものに関心があるので、主権者教育的な要素は少ないです。一般教育学ではほとんど触れられてこなかったと思います。問いの立て方や調べる時に根拠を持ってきたか等ばかりを議論しています。確かにそれはそれで大事だと思いますが、古代や中世を学者のように本気で研究するのは正直不可能ですし、全てそのように消費してしまうのは得策ではないと思います。社会科教育学の実践事例は授業を基本としているため、すぐに自分の授業に適用できるという利点もあります。高尚なことばかり述べる教育学が本当に主権者教育の発展に寄与しているのかは正直疑問です。社会科教育学も問題点は多々ありますが、一番ましだと思います。

現場の先生方へのメッセージ

最後に、全国の現場の先生方に一言お願いします。

教員という仕事についてやりがいを持ってやってほしいです。だからといって低賃金で良いと言っているわけではないですが、まずは社会に認めてもらっていく中で教員の待遇改善を主張していく必要があると思います。現状、低賃金だからいい加減にする、いい加減にするから低賃金になるという負のスパイラルに陥ってしまっています。よって、意味のある存在として教員はあってほしいですし、社会に認めてもらう中で私も待遇改善を働きかけていきたいです。また、やりがいを持ちながら働くことで、教員志望の若者も増えれば良いと思っています。今後の未来を決めるのは自分たちの匙加減1つかもしれないと思って、励んでもらいたいです。特に、エリートでない子どもたちは、教員以外の大人から社会の問題について聞く機会が少ないので、そういう意味では彼らの人生に大きな役目を果たしうる存在だと思います。

3 プロフィール

 渡部竜也
東京学芸大学人文社会科学系人文科学講座社会科教育学分野准教授
広島大学大学院教育学研究科博士課程後期修了。博士(教育学)。
専門は社会科教育学、米国の教育思想、シティズンシップ教育論。
『主権者教育論』『Doing History:歴史で私たちは何ができるか?』『“国境・国土・領土”教育の論点争点』等、多くの著書を執筆している。
HP等でも盛んに自身の主張を表明している。
(2020年4月6日時点のものです)

4 著書紹介



5 編集後記

教科横断的になされることが推奨される反面、一貫性に欠けやすい主権者教育ですが、社会科教育を中心とした主権者教育の在り方についてお話しいただきました。生徒の発する勉強の意味に対する疑問の投げかけに真摯に向き合うべきであるという主張や、下手な個人的問題解決行動よりも構造的な解決への志向を促すべきで、そのために社会問題を分析する必要があるという主張は印象的でした。目の前の生徒の関心や実生活を想像してゲートキーピングできるのは現場の教員だけであり、それこそが教師の専門職性なのだと思いました。

(編集・文責:EDUPEDIA編集部 風間志門、伊藤真琴)

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