各教科・科目で追究する「深い学び」その3 ~意見交流編~

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目次

1 はじめに

この記事では、平成30年10月13日に行われた、広島大学附属中・高等学校教育研究大会のパネルディスカッションの内容を3回に分けて紹介します。
 このパネルディスカッションは教科ごとに行われた授業公開や研究協議の後に、改めて全体的な視点から「深い学び」について考えるものとして行われました。
第一回(英語・保健体育編)の記事はこちら
第二回(数学・理科編)の記事はこちら

第三回(意見交流編)では、パネルディスカッションを踏まえて参加者や各教科の先生方、コーディネーターの吉田氏が意見交換を行い、「深い学び」とは何かを考えています。

2 意見交流

登壇者

山岡大基先生(同校英語科担当)

橋本直子先生(同校保健体育科担当)

橋本三嗣先生(同校数学科担当)

井上純一先生(同校理科担当)

吉田成章氏(広島大学大学院教育学研究科准教授)※コーディネーター

リフレクションについて

参加者:深い学びについて考える中で必ず「リフレクション」という言葉が出てきますが、リフレクションをする意義を生徒にどう伝えるか悩んでいます。振り返りなさい、質問しなさいというと、生徒は教員の顔色を見ながら振り返ってしまうのではないかという危惧があるからです。何がリフレクションなのかお伺いしたいです。

井上先生学びの主体は生徒であるということが、私たちの共通の回答だと思います。私たちがある程度環境を用意しても、その中で対象世界と関わるのは生徒です。だから、結局自分は何が理解できて何が分からなかったのか、どこまで自分の考えが深まったのか、もっとどんなことを知りたいのか、そういったことを生徒自身が深めるのが大事だと思います。リフレクションの意義はそこにあるのではないでしょうか。対象世界と深く関わっていくと、行きつくところは自己との関係や他者との関係であり、そこでまた創発が起こるのではないかと考えています。

参加者:生徒がリフレクションを行うこと自体はとても大事だと思いますが、それが教員の顔色を見ながらのリフレクションにならないようするために施している工夫はありますか。

橋本先生:私の反省をこめて申し上げると、生徒が教員の顔色を見るのは、教員が伝えたいことに対して同意を得ようとしている時だと思います。
 学習の主体が生徒にある場合、リフレクションは、生徒が教材や他の生徒、授業者といった他者との関わりの中で、自分の考えたことや他者との関わり合いの中でできるようになったことを振り返る時間であると思うんですね。そこでじっとしている子がいても、必ずしもそれがリフレクションをしていない状態ではないと考えています。

井上先生:もちろん自己質問を考えるのは苦手だという生徒もいたりしますが、強制しなくても自然と自分がこれまで取り組んできたパフォーマンステキストを見返し始めます。そうすると「ここ難しかったよね」とか「これは結局どういうことだったんかね」といった会話が自然に出てきます。もちろんここで生徒の取り組みが思わしくなければ、課題の質が良くなかったというように私たちへのフィードバックになります。具体的な良い手立てがお答えできませんが、リフレクションは、ある程度生徒が自然に課題を振り返ることができるような活動になれば良いと思っています。

吉田氏:私の考えでは、生徒の問いを授業の中でどう整理するかということになるのですが、ところで生徒が教員の顔色をうかがうことの何が悪いんでしょうか。こう切り返すと、むしろ問われているのは教員側のスタンスの問題になると思います。

「深い学び」とは

吉田氏:ここで大きな問いを全体に提起したいと思います。今回の4人の発表から、結局深い学びのためには深い教材研究をすれば良いという答えにたどり着きそうですが、では深い教材研究とは一体何でしょうか。浅い教材研究ってあるんでしょうか。今回提唱されている深い教材研究、この対象世界を通じて、みなさんは「授業」「深い学び」をどう考えますか。

参加者:今まではただ伝えていただけの知識が、その教材限定ではなく、次の場面にもつながっていくような視点での教材研究、というのもひとつの見方ではないでしょうか。

参加者:私は深い学びのためには深い教材研究だけでは足りない部分があると思います。

例えば、何が分かったかを自問するのがリフレクションのひとつではありますが、今はその分かり方までも自制できるようになることが求められていると思います。山岡先生の実践でいえば自分の読解力が上がったのはどんな読み方をしたからなのか、どんな写し方をしたからなのかというところまで認識させることが求められているのではないかと思っています。

そして、個人的にこれはかなり前に議論されていた陶冶論がまた再論・再考されているだけではないかと思うのですが、前の陶冶論との違いは何なのか、吉田先生にお聞きしたいです。

吉田氏:まとめも兼ねてお答えします。

出発の問いは、どうすれば深い学びになるのかということでした。そこから深い学びとは何かという問いになり、結局授業とは何かという問いに行き着きます。この問いをさらにつきつめていくと、「どんな問いが子どもたちの中で生じているだろうか」、というキーワードが出てくると思います。

教員や我々が提示する課題と、子どもが自分で認識する問いは違います。小さな子どもですら学問的な問いの世界に生きています。どんな問いが自分たちにとっての問いなのか、そして自分にとっての問いとは何なのかということを研ぎ澄ませるのが授業ではないかと私は考えています。

よって授業の中で問われるのは、自分の問いをより練磨していくきっかけ、もうひとつのキーワードで言えば、自分と他者との関係をどう認識するかという「関係認識」です。生徒が自分の発表を聞く先生の表情を認識することで、先生がその学問をどう捉えているかを認識することになります。

そしてそこから見えてくるものが、学習指導要領の用語で言えば、学びの地図です。地図の中で生物の学び方や英語の学び方を捉え、この作業は自分には合わなかった、と考えながら生徒自身が自分の地図を描いていくのです。

これが陶冶論の焼きまわしだろうという指摘は、まったくその通りだと思います。陶冶という言葉はドイツ語でBildungと言い、Bildは「像」を意味します。キリスト教の文脈なので、「神の御姿を自分に作る」ということになります。つまり真似て学ぶのです。この言葉を日本語では陶冶と訳し、人間形成のことを訓育と訳しました。

これまで学習指導要領はコンテンツを決めるものでしたが、今は内容だけではなく方法と評価まで盛り込まれようとしています。私はこのことをかなり危惧しています。むしろこういう動向にあるからこそ、学校で陶冶的内容を教える、学校で教科の教材研究を深めて子どもたちに授業で教えるということが陶冶論の焼きまわしだと言われれば、研究者としてはそうだとしか答えられません。

でもこのこと自体が今の学習指導要領下では改めて新しいインパクトになるのではないか、今回の提案はそういう文脈にあるのではないかと思います。今日の研究大会は主体的・対話的で深い学びに教科固有性と教科固有性に根差した汎用性を考えることがテーマでした。これは理論的に言えば実にその通りだと思います。しかしそんなに汎用的な能力というものがあるのでしょうか。あなたの授業はあなたにしかできない訳ですし、最終的には個別の話になると思うのです。今回の提案をまとめると深い教材研究であると私はあえて言いましたが、むしろ、学校全体も見ながら教科の固有性を大事にしながら、固有名詞を生きる子どもたち一人ひとりに、汎用性ではなく個別性に落としこんでいくということが今日一日で我々につきつけられた課題ではないかと思います。

3 プロフィール

吉田成章准教授

2008年より広島大学大学院教育学研究科教育学講座に勤務し、教育方法学を専門領域とす
る。「なぜ集団で学ぶのか」、「授業研究を軸とした学校カリキュラム実践」などが主な
研究関心。関連する文献として、深澤広明・吉田成章編『学習集団研究の現在Vol.2 学習
集団づくりが描く「学びの地図」』溪水社、2018年、ハンナ・キーパー、吉田成章編『教
授学と心理学との対話—これからの授業論入門—』溪水社、2016年などがある。

(2018年10月13日時点)

4 編集後記

学生の立場ながら、自分の考え方を見直す機会になりました。「深い学び」を考えるには、方法論で終わるのではなく、自分自身でも「教育とは何か」「学びとは何か」と深く考える必要があるのではないかと感じました。

(取材・編集:EDUPEDIA編集部 平原由羽、京谷竜輝、長屋拓暁)

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